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▷ あさま山荘事件1972年 あさま山荘事件 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局

怒涛の1972年1972年 あさま山荘事件ほか 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局

NEWSな人たちNEWSな人たち ヨーコ オノ 週刊サンケイ SPA! Straight. 誌面を飾った方々 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局 © NISHIDA, Keisuke / HJPI320200000636 www.jpca.gr.jp

NEWSなスクープNEWSなスクープ 三島由紀夫自決 701125 週刊サンケイ 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局 © NISHIDA, Keisuke / HJPI320200000636 www.jpca.gr.jp

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おい西田、

アンドレ ケルテスさんに会わせてやるぞ!

2023.6.20

べらんめえ口調で有名なK島出版写真部長から学生バイトの暗室要員だった僕に突然声がかかり、

夕刊フジの創刊準備をしていた1968年9月ごろ

写真部デスクのA海さん、先輩のI井・S藤さんにくっついて

産経新聞の記者、写真部の皆さんと大きな応接室でお会いした時に撮った写真が

トップバナー「NEWSの現場blog」のAndre Kerteszさんです。


何を聞いたか全く記憶も無く、ケルテスさんが手にしているカメラも分からない。

何故か最後に撮った記念写真に僕も映ってる。


ハンガリー、ブタペスト(1894年7月2日-1985年9月28日)生まれのAndré Kertészさんの
作品は東京国立近代美術館のコレクションで観る事ができます。観たい方はこちら▼

 

一方、独特なべらんめえで教わったK島さんの話で今でも脳裏に焼き付いている話。

□ 伝書鳩でフィルムを本社大手町の屋上で受け取った話
  今じゃメール添付や世界の裏側から送られてくる戦争写真の時代に、
  鳩にTRY-X135フィルムを抱かせて取材先から本社めがけて生フィルム送稿してたびっくりな話
□ カメラマンてぇ〜のはスクープ一発で一夜にして世界的に有名になれる仕事だ
  ピューリッツァー賞ジャーナリズム部門は応募の際に審査手数料75ドルが必要、知らなかった
□ つまんねぇ〜写真と思ってても時が経つと突然価値がでることもあるからわかんねぇーぞ
□ リンホフに4×5エクター、三脚持ってどこかの屋上でテスト撮影した時は
  シャッターあけて2~3秒の長時間露光中レンズを前後に移動して撮影
  何のためか僕にはさっぱり分からなかったが研究熱心な上司でした。

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Sam & Daveと

照明デザイナー藤本晴美さんを取材した

伝説のディスコ クラブ、MUGEN 

2021.1.30

僕がADをしたパイオニアのLD(レーザーディスク)が出てきたと連絡をもらったたが、

全く記憶がなかった。

是非見てみたいと思い、我が家に現存(初代LDー1000はとっくに他界)する

プレーヤーLD-7100(1985年製)にDCコンバータを繋いで電源を入れたがトレーが開かない!

2014年までは元気だったのに7年も電源入れなかったせいか?

色々試してトレーの開閉ができるようになり、映像は出ないが音源だけ聴こえるもの、

音も映像も出ないものもあった。

修理業者をググって探したが自己責任で部品交換してるYouTubeを見ながら筐体を開けてみたら

原因はピックアップの動作不良に思えたが、適当に選んだ

「ROCK'N'ROLL THE GREATEST YEARS '67」を挿入したままで翌朝電源を入れると

小銃のような破裂音が出てトレーはピクリとも動かず。

週末から再び筐体開けてあれこれ試行錯誤した結果ディスクは取り出せたが

修理は無理みたい。

一番のショックは1984年にNYで購入した「Ansel Adams: Photographer」
1981年製作のNTSCデータを2014年にDVコンバーターでmp4に変換したお宝データを
古いMacBookPROを初期化した時にデータごと無くしていたことを思い出した。
このデータのみMacBookで読み込んだことを忘れていただけでなく
ノートのバックアップもとっていなかった。

 

60年代のROCK'N'ROLL THE GREATEST YEARSの映像を探していたら

「SAM & DAVE-LIVE-1968」や

「Ike & Tina Turner-Italian TV Show 1971 Proud Mary 」を発見!したので

 

SAM & DAVEのMUGENライブのネガを探した

 

MUGENはディスコ発祥の地として知られ、

1968年に浜野安宏のプロデュ―スで誕生した「高級」ディスコ・クラブだった。

’86年に閉店してから35年を経てMUGEN関係の情報はほぼ入手できなかった。

赤坂にオープンした頃はライブハウスも兼ねアイク&ティナ ターナー、サム&デイブらが出演し、

当時の蛍光塗料とブラックライトはサイケの必須アイテムだったが

照明デザイナーの藤本晴美(通称ペコちゃん)が創った照明器具から

鼓動のように映し出される不思議な映像が新しいサイケな空間を演出していた。

 

赤坂ムゲン 赤坂MUGEN サム&デイブ
写真は1969年3月29日の赤坂MUGENの「Sam & Daveライブ」
来日直前1967年のSam & Dave Revue - Live In Germany 1967はこちら

Ike & Tina Turnerのネガ発見は叶わず。
イタリアのTVSHOWの動画 Ike & Tina Turner / Proud Mary 1971はこちら


 

藤本晴美 
照明デザイナー&プロデューサー、演出家 撮影©西田圭介 藤本晴美 
照明デザイナー&プロデューサー、演出家 撮影©西田圭介1969年撮影の藤本晴美さん。撮影場所はMUGENの事務所。

僕が結婚後に引っ越した渋谷区大山のマンションの3階に晴美さんが住んでいた。

バーブ佐竹さん事務所の社長や藤圭子を育てたプロヂューサーなど我が家以外は

芸能界関係者が多かった。


藤本晴美
照明デザイナー&プロデューサー、演出家
国際的なアーティスト、クリエイター、企業家、知識人との交友を結び、つねに劇的なシーンを作り上げる手法に称賛が集まった。2018年9月17日逝去。
パリ美術学校、イタリア映画学校を経て、1969年MGS照明設計事務所創立◦
日本初のディスコ「MUGEN」「BYBLOS」の照明デザイン、演出、プロデュースでデビュー
その頃から“伝説のPecoちゃん”として知られ、大阪万博の「政府3号館」「ワコールリッカー館」では国内外で高い評価を得る。
以降、コンサート、ファッションショー、オペラ、美術展、映像、イベントなど、
多彩な企画構成、演出、プロデュースを手がけ、
国内外数多くの現場を通して、国際的なアーティスト、クリエイター、企業家、知識人との交友を結び、つねに劇的なシーンを作り上げる手法に称賛が集まった。2018年9月17日逝去。
1969年創業MGS照明設計事務所より引用

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新宿西口反戦フォーク・ゲリラ 

2020.7.4


1969年は1月18〜19日の「東大安田講堂事件」で始まった。

この時は実験とレポート提出もありTV中継すら観られなかったが、69年の春ごろから

ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)を含めたいくつかの集会が新宿西口地下広場を中心に

アピールしていた。

数千人規模に膨れ上がったニュースや新聞を見て、

好奇心の塊だけで週末の新宿西口フォーク・ゲリラ撮影に通った。

一緒に歌っことも無いしカンパもせず、一度もシュプレヒコールに同調したことも無い

ノンポリ学生がファインダー越しのシャッターチャンスだけを狙っていた。

歌唱力はなかったけど、歌の渦だけは凄かった。

機動隊による排除前の69年6月7日のネガをもとにデジタル・リマスタリング中の1カット。

69年、週末の3密。

新宿西口フォーク・ゲリラ

立ち止まらないで、歩いてください!


1969年新宿西口広場に夜明けはあったのか?

当時のYouTubeはこちら

 

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1968年夏、新宿西口サーキット場に 

毎週末深夜に集まるサーキット族を追っかけて

週刊誌のグラビアデビュー

2020.6.26

「新宿駅西口地下広場と淀橋浄水場跡にできた東京都立中央公園」

1966年に完成した新宿駅西口地下一帯の空間で、小田急百貨店と同じ坂倉準三が設計し

大型百貨店、新宿駅西口バス乗り場、東京都立中央公園など新宿駅西口の風景が整備された。

新宿を賑わした1969年6月28日のヤングベ平連反戦フォークゲリラ事件。

10月21日の新宿騒乱事件が起きる前年、1968年夏に毎週末の深夜に

ブラックエンペラーやジェロニモ他のやんちゃな同世代ライダーたちと親しくなって

撮影した「爆発する青春広場 新宿副都心の”音キチ族” 」で

20歳の学生カメラマンが週刊誌デビューした。

週刊サンケイ680930日号 撮影©西田圭介 週刊サンケイ680930日号


「ハッツくなよ(ひっくり返るなよ)」

「180㌔でいこう」

「カッコいい」

「それっ!白バイだぞ」

東京都立中央公園(淀橋浄水場跡)。 そこはいま青春が爆発する広場。

副都心計画にそって整備中のこの公園一帯が未完成なのをいいことに、どこからともなく

若者たちが集まるのだ。

まずオートバイ、ふつうの日でも30台、土、日曜ともなれば100台以上。

”音キチ族” の名にふさわしく爆音も激しく、新宿駅西口ロータリーから公園にかけての

コース(3㌔)を縦横に走りまわる。逆立ちしたり、片手乗りするなど曲技を披露して、

さながらサーキット場だ。

「死ななきゃ、生きてるさ」と、彼らは事故も恐れない。

見るに見かねた白バイが追いかけても、時速160㌔の彼らはスイスイと逃げる。

土曜日の深夜。都内を始め埼玉、千葉、神奈川から100台以上も集まる。

(以上グラビア本文)

 

こちらは残ネガカット
新宿西口サーキット族 撮影©西田圭介 野次馬はバイクや改造車でやって来る新宿西口サーキット族 撮影©西田圭介 歩道橋も学生やカップルが集まっていた新宿西口サーキット族 撮影©西田圭介 新宿西口サーキット族 撮影©西田圭介 新宿西口サーキット族 撮影©西田圭介 パトカーとサーキット族のイタチごっこ

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1966年6月29日未明

18歳大学1年だったその日

The BEATLESが奇跡の来日!

2018.7.2

1966年6月24日ドイツから始まった世界ツアーは3日間の公演を終え、日本に向かった。
当初28日午後5時15分到着予定が台風の影響で11時間以上も遅れ羽田には翌午前3時39分、送迎デッキからはるか離れた特別エリアで厳戒態勢の中ファンの歓声もない未明の到着だった。

世界各地のビートルズ騒動で日本の警察は、ヘリコプター3機に羽田空港とホテル沿道警備に警官3万人を動員の厳重な警備体制を敷いたらしい。
ビートルズの日本公演は、昼・夜3日間の公演で、計5回。
アリーナ席にはお客さんは入れない!厳戒体制のビックり会場設営。
司会のエリックさんから観客は席を立ちあがることも禁止されたらしい。
7月3日午前10時43分離日までの18歳のドキュメント写真は
FUJIFILM NEOPAN SSとMINOLTA SR7。

高2時代の同級生女子にビートルズ命な熱烈ファンがいていろいろ教えてくれたけど、
ビートルズの関心が全くなかったのは僕だけ?だったのかな〜。

写真を勉強し始めた大学1年の夏、連日新聞テレビを賑わしていた北の丸武道館の周りにカメラ担いで好奇心スナップしていた時

キャー!

という嬌声がしたらやってきたパトカー先導のアメ車。

車種はわからないけど拡大したら2台目の左側に乗ってるのはジョン?みたい。
これがピンクのキャデラックかな?
このブログ書くため調べた結果、4人を乗せたピンクのキャデラック!だった。

The BEATLES Beatles in Budokan. ビートルズ 初来日 1966年6月29日 日本武道館 ピンクのキャデラック 撮影/西田圭介 ©NISHIDA Keisuke

日本でもこんな車走ってたんだ(^_^)/
ネガケースの撮影日は授業がなかった7月2日土曜の最終公演日。

武道館に入れなかった?同世代。

みゆき族とサイケの間だったのかな〜?ファッション疎いので分からないけど、この時代流行っていたのはなんだっけ?
残念ながらこの日マッシュルーム男子は撮れなかった。

The BEATLES Beatles in Budokan. ビートルズ 初来日 1966年6月29日 日本武道館 ピンクのキャデラック 撮影/西田圭介 ©NISHIDA Keisuke The BEATLES Beatles in Budokan. ビートルズ 初来日 1966年6月29日 日本武道館 ピンクのキャデラック 撮影/西田圭介 ©NISHIDA Keisuke
よく見ると当時のDJポリスも。

3カット目は7月3日(日)羽田にも行ったが、手前の駅で降ろされ
改札を出た道路封鎖中の羽田空港周辺で撮影。

フィルムはFUJI FILM NEOPAN SS。懐かしい。
カメラはMINOLTA SR7。

The BEATLES Beatles in Budokan. ビートルズ 初来日 1966年6月29日 日本武道館 ピンクのキャデラック 撮影/西田圭介 ©NISHIDA Keisuke

youTubeで見つけた当時の動画はこちら

1978年10月12日

「今世紀最初で最後、たった一度の“再放送”」だった

武道館公演を録画したVHSテープ紛失事件!

日本ビクター(現・JVCケンウッド)が1976年に開発した VHSビデオ規格のデッキは高価すぎて買えなかった僕が
1978年、奇跡的にVHSビデオテープだけ入手できた。

もちろん自宅のテレビで再生できたのは80年代に入ってからだった。

明け方の首都高速羽田線を走るイントロで始まる
1978年10月12日日本テレビ系21局『木曜スペシャル』
で放映されたビートルズ1966年6月30日の夜公演のVHS。

ようやくVHS機器が僕の周りでも持てるような時代になり、
ある日ビートルズファンの友人に貸したまま紛失?行方不明になってしまった。
というより誰に貸したかも今では記憶の外になってしまった。
どなたか僕の貴重ビデオが見つかったら返却お願いします。

『ザ・ビートルズ日本公演』1966年の日本武道館公演(6月30日〜7月2日)の7月1日の昼公演を日テレが同日21時から1時間番組でオンエアの視聴率は56.5%だったそうだけど、
僕はテレビも見ずに暗室にこもっていた。それは……。

 

本当なら名誉棄損で訴えるか?!

71年、東京ヒルトンにお忍び滞在中のジョンと小野洋子を撮影するため、ロビーで一晩中張り込みしていた早朝、

一瞬の睡魔に襲われた。

騒ぎで気がついた時二人は車で消えた後だった。
ホテルを出た後、右折か左折かも分からず前を走っていた他社のスタッフが乗るタクシーについて東京駅に行ってみたがいなかった。

翌週発売の女性誌を片手に編集長にが

「なんだ西田。お前寝てたのか」

と言われとっさに

「いえ、タクシーの運転手さんが見失いました」

「本当か?ここに君と××社は寝ていたと書かれてるぞ!本当なら名誉棄損で訴えてやろうか」

と言われ黙ってしまった。

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7月14日はFête nationale française(フランス国民革命記念日)

1973年はポンピドゥー大統領

'74年に僅差で政権交代したジスカールデスタン大統領

二つのパレードと大事故、大事件とは

2017.7.14

今年は若きエマニュエル・マクロン大統領(La République En Marche! / 前進!)のもとシャンゼリゼ通りからコンコルド広場まで華やかな軍事パレードがあった。

1973年、初めてのパリで教わったことは7月14日は軍事パレード中心で、一番楽しいのは街中で繰り広げられる前夜祭だから必ず夕方までにパリに戻るよう釘を刺されてレンタカーを借りた。
横浜出発直前に運転免許を取得し、初ドライブがロワール河沿いのシャトー巡りに出かけた。
7月13日、市場で買い込んだハムやパンを持って一面麦畑の横でランチとなった。国際免許をもっていたのは初心者マークの僕一人だったので食後はコーヒーを飲みながら休んでいた時、同乗者のI君がちょっと運転させてと言ったのを許してしまったのが悲劇の始まりだった。
30分経っても彼は戻ってこなかった。 ロワール川で大事故発生!
パリ前夜祭に戻れない・・・ 詳しいブログはこちら

コンコルド広場に面したオテルドクリヨン前で突然ジェット機がトリコロール編隊でエトワール凱旋門からシャンゼリゼを経て頭上を通過するとパレードが始まった。
広場に集まったパレード見学の人々が手にしていた便利グッズが紙筒と鏡でできた潜望鏡タイプのパレードグラス。
これなら目前に大きな人がいてもオーバーヘッドで見学が可能だ!手にしているパレードグラスは持っておらず現場到着の遅れが災いして身動き取れず、パレードの写真はトリコロールのジェット機だけ。
今ならパレードグラスの変わりに自撮り棒とスマホだな。

時の大統領はジョルジュ・ポンピドゥー(UDR:共和国民主連合)で翌年1974年4月2日在任中に死去した。

1973.07.14 パリ祭 Fête nationale française コンコルド広場 撮影/西田圭介 1973.07.14 パリ祭 Fête nationale française コンコルド広場 撮影/西田圭介 1973年@コンコルド広場

1974年4月2日に急逝したジョルジュ・ポンピドゥー大統領の後任を決める選挙期間は短縮され、第1回投票日は5月5日、第2回投票日は5月19日とされ、5月5日の第1回投票で左翼統一候補のミッテランが首位となり、独立共和派のジスカール・デスタンは2位。首位のミッテラン候補が過半数を得られずミッテランとジスカール・デスタンによる第2回投票が5月19日に行われジスカール・デスタン(RI 独立共和派)がミッテランを僅差で押さえて当選した直後の7月13日に再訪した。
今年のマクロン大統領と同じ決選投票だった。

前年の失敗を犯さないよう夕食も早めに終え、前夜祭を楽しむため最初にチュールリー公園に出かけた。すごい人出だった。
同行者に「ここは世界中からスリが集まっているので懐中物は特に注意してください」と伝えた時はすでに被害者になっていた。
同じ頃、外務省の関係者も被害にあい公園内のゴミ箱を探していたら偶然に見つけた財布のIDカードで連絡を受け翌日財布だけが戻ってきた。プロのスリは現金だけ抜き取ったらすぐ草むらやゴミ箱に捨てることを知った。

1974.07.14 パリ祭 Fête nationale française  バスティーユ 撮影/西田圭介 1974.07.14 パリ祭 Fête nationale française  バスティーユ 撮影/西田圭介 1974.07.14 パリ祭 Fête nationale française  バスティーユ 撮影/西田圭介 1974年@バスティーユ広場

ヴァレリー・ジスカールデスタン(RI:独立共和派)大統領初の7月14日のパレードはバスティーユ広場からレピュブリック広場に変わった。上の写真はプレス席から撮ったものだけど昨今、世界の要人席に近い場所は最高レベルのセキュリティのはずだけどこの時代は大変長閑で仕事?でもないのに運良く閲兵する大統領とトリコロールの飛行機雲が撮れた。
今年のパレードに比べるとさすがにアンティークな軍事力。

この後レンタカーでアムステルダム経由で帰国する予定がチュールリー公園のスリ事件の余波でロンドン経由となり多くの死傷者を出した、あのロンドン塔爆破事件へとつながる7月14日だった。

Fête nationale françaiseは7月14日に設けられたフランス共和国の成立を祝う日で Quatorze Juillet(7月14日)とも呼び、1789年7月14日に発生したフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃事件の一周年を記念して翌年1790年におこなわれた建国記念日 (Fête de la Fédération) が起源となっている。
ルネ・クレール監督の映画 Quatorze Juillet(7月14日) の邦題を映画を輸入・配給した東和商事社長の川喜多長政たちが『巴里祭』として公開(1933年)しヒットしたため日本ではこの日をパリ祭と呼ぶことが多く、長政の妻・かしこさんによると「パリまつり」と読むそうだ。
「巴里祭」「パリ祭」が『歳時記』夏の季語となっているとはびっくり。

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香港が英国から中国に返還されてもう20年 

1983年9月8日、K2香港社員旅行を直撃した

超大型颱風 ELLEN(愛倫)の話

2017.7.1

K2(ケーツー。先日亡くなった長友啓典さんのデザイン事務所)の香港社員旅行に初参加した。

啓徳空港に近づくと機内アナウンスで気流の乱れがあるためシートベルト着用のお願いがあった。
左右にグラグラ揺れながら着陸態勢に入り、窓外のヴィクトリアハーバーに面したビルと同じ高度になったとき突然ジェットコースターのように無重力状態を感じた。

高度も低く長くス〜〜〜ッと2度ほどあった。
ゾッとした。
その直後にランディング!

思わず機内中が拍手喝采で喜び合った。
搭乗ブリッジのない沖止めスポットに飛行機を駐機したみたいで、長い時間機内で待たされたのち全員に傘とビニールカッパが支給され豪風雨の中タラップを降りてバスで移動した。

ホテルに着くまで悪天候ぐらいにしか思っていなかったが、TVは20年ぶりの巨大台風が香港を直撃するみたいなことを一晩中キャスターが気象図を見ながら説明していた。
あのランディングが台風に向かっていたことを知っていたら涙が溢れたはず。
ホテルサイドからも外出禁止を言われ楽しみだった夕食の記憶は全く無く、コンシェルジュにカードを頼んで一晩中大貧民で盛り上がった。

830908 K2香港旅行 台風ELLEN 成田出発ゲートの予報は曇り時々小雨程度だった
1983 颱風 愛倫 (Typhoon Ellen) 風暴消息 2/4
經典回憶-1983年颱風愛倫襲港,十號風球


台風一過の翌日のTriXをフィルムDigiコンで一部画像化したNathan Rd,。

1983.09.08 香港 颱風 愛倫 (Typhoon Ellen)

真ん中はてんこ盛りの豆もやし、
上下は倒壊した竹製の足場や街灯。
何が驚いたって高層ビルの足場がバンブーだったこと。竹製のおかげでけで二次災害が少なかったのか?
9月9日午前7時頃に香港に最も近づきホテルの入り口は早朝から飛んでくる看板などの為?警察車両がついて厳戒態勢だった。

1983年9月8〜9日の颱風 愛倫 (Typhoon Ellen)は8月29日熱帯低気圧として発生し、ゆっくり移動した最強の風台風で中心気圧928 hPaで瞬間最大風速285 km/h(79.17m/s)だったらしい。日本の過去最大風速は1942年4月5日富士山の72.5m/sで唯一の70代。
スタンレーで記録された最高突風は134ノット。

死亡者:10名
負傷者:333名
行方不明者:12名
船舶損傷:404
降雨量:347㍉は1884〜2002歴代5位。1位は1926年534㍉

水害の損害は1億8,000万香港ドル、工事現場での損害は9,000万香港ドル、救助および修繕では2千万香港ドル。約1万人の農民が被災、300匹の豚が洪水で溺死。作物と家畜の損失総額は5,000万香港ドル。

唯一の救済は、エレンが貯水池にもたらした水が3200万立方メートルでハイランド貯水池は1978年の完成以来初めての満杯。香港の17の貯水池のうち、11が満タンになった。

啓徳空港は離着陸が難しいのにあんな悪天候で決行したのはどこのエアーだったのか?
無事だったからよかったがこの天候でのランディングは自殺行為に近いパイロットは曲芸師?

このブログを書き始めた時に届いた
追悼!「長友啓典」特別展 のお知らせ。

会期 7月28日(金)〜29日(土) 11:00~19:00
会場 ギンザ・グラフィック・ギャラリー
主催 公益財団法人DNP文化振興財団

長友さんのご冥福を心よりお悔やみ申し上げます。合掌

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G7 サミット2017が27日閉幕

グランブルーなタオルミナで

地球温暖化対策が難航

2017.5.28

米国の地球温暖化対策の「パリ協定」離脱検討で議論が難航し、気候変動の見直しでは理解を示す一方、米国以外の6カ国は協定履行決意を再確認。離脱の是非は来週結論を出すとトランプ米大統領の談話をニュースが報じ、街は7つの国家元首とそのスタッフ、他の13の代表団、4000人のジャーナリスト、10,000人の警察、軍隊と治安部隊が集結し、タオルミナ市街地は全てレッドゾーンに指定され、街中の23ある4つ星と5つ星ホテルは全て、G7代表のため正式にブロックされたらしい。

青から蒼、そして碧へ 映画「グランブルー」リュック・ベッソン監督に出会って以来、タオルミナの蒼い妄想にとりつかれていた。
まさかあんな小さな町で先進7カ国首脳会議が開かれるとは思わなかったが、写真は2011年この海と空のBLUEを撮りに訪れタオルミナでAVIS借りてフェリーで本島のアマルフィー、ソレント、カプリ、ナポリを経てローマまで久しぶりのロングドライブだった。

タオルミナやカプリのような旧市街地は特に道幅が狭くセンソユニコ(一方通行)がやたらと多くカーナビが今ほどなかった当時ホテルのマップだけで運転するのは無謀だった。
狭くて坂が多いこの町でワーゲンの中型車を借りた初日、センソユニコに面したホテルに戻るため大きく迂回する唯一の曲がり角を1本手前で誤って左折した。

そこにポリスがいたため大声で

「ホテルに行ける道か?」

質問になにも応えてもらえなかったのでそのまま急坂をのろのろと降りてしまった。
多分インチキなイタリア語が通じなかった結果。100メートル以上下がったところで坂を登ってきたマダムが怒った顔で人差し指を左右に振りながら

「ノ〜ッ、NO、ノー!」

やばい逆走だ。

しかも坂道でマニュアル車。慌ててサイドブレーキを引いてギアをバックにするも道幅と車幅がほぼ同じだ。
後方左右のナビゲーターを家族に頼んでアクセルふかしながら左サイドギリギリで登り始めたがなかなかうまくいかない。もたもたノロノロ登り始めると目の前に赤い軽自動車が登ってきた。
クラクションも鳴らさず登り終わるまで付き合ってくれた。

大感謝!グラッェ!

必死の思いで大きな通りに戻った時、あのポリッツアイから交通違反切符を切られる事はなかった。

タオルミナ Taormina 撮影/西田圭介 絶壁に立つオーシャンビューのホテルの先にエトナ山

初日の26日夜、ミラノ・スカラ座の管弦楽団のロッシーニ「ウィリアム・テル」を聴いた紀元前3世紀の石造り古代ギリシャ劇場遺跡。天然の地形を活かしたシラクーサに次ぐ2番目の大きさ。

タオルミナ Taormina 古代ギリシャ劇場遺跡 撮影/西田圭介 隅々までクリアに生音が届く野外円形劇場

レンツィ前首相がサミット開催地にタオルミナを選んだのは、マフィアの本拠地と思われがちなシチリア島のイメージを払拭したくマフィアの得意な脱税やマネーロンダリングも討議されたようだ。

BELMOND VILLA SANT'ANDREA 撮影/西田圭介

タオルミナ市内を楽しむなら市内か崖際ホテル。写真の海沿いのヴィラ、BELMOND VILLA SANT'ANDREAは車がないと超不便ですがリゾートならではの庭の植物や景色など素晴らしい貴族の館(1830年代の建物)でオススメです。

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15日未明に衆院本会議で成立した

IR推進法案ニュースを見て

スロットマシンしか触った事がない僕が

取材した2005年世界3大カジノ話を思い出した

2016.12.17

1

初カジノ取材が2005年7月。羽田で知人の奥さんと出会ってしまうほどの韓流ブームの最中、ソウル東部に位置する外国人専用カジノ「パラダイスカジノ・ウォーカーヒル」にスポーツライターの金子達仁さんと行った。

Straight, 2005年 扶桑社刊

 

2

翌週には、編集&カメラの兼務で、ラスベガスの最高級ホテルの代名詞といわれる「ベラッジオ」、「ミラージュ」「トレジャー・アイランド」など所有していたホテルを商売敵の「MGMグランド」へ売却した利益で、自分の夢のため史上最高のリゾートホテル&カジノを5年の歳月を費やし自身の名を冠したホテル「ウィン・ラスベガス」をオープン(4月)させた、スティーヴ・ウィン(Steve Wynn 1943年生まれ)日本初の単独インタビューに出かけた。

写真嫌いの噂は事前に聞いてはいたが現地で秘書から「彼の部屋に入れるのはインタビューアー、一人だけ。撮影もNGです。取材時間ももしかしたら15分ほどになってしまうかもしれない。申し訳ないけど」 と言われ約束とまるで違う話で真っ白になった。

スティーヴ・ウィン(Steve Wynn 1943年生まれ) Straight, 2005年12月号 扶桑社刊

ホテルのオーナーは小説家と違ってロマンティックな世界を現実に作り出すことができるディべロッパーで、ラスベガスは『投資すること』『エンターテインメントを作ること』『リゾートを開発すること』の3要素を実現できる最高の場所と語るだけあって、アプローチの樹木や館内の花、併設のゴルフ場、18もあるレストラン、客室、メインプールのガゼボ、プロジェクションマッピングという言葉もない時代に中庭に作られた人工湖で毎晩楽しめる映像と光と音楽と水の幻想的なショー Lake of Dreams ‥‥‥。どれもが桁違いのラスベガスだった。

ウィン ラスベガス Straight, 2005年12月号 扶桑社刊


ホテルに自分の名前をつけることは傲慢ではないかと思い、友人に意見を求めた結果、スティーブン・スピルバーグは自分の名前をつけることにそんなに神経質にならなくてもいいんじゃないか?自分の名前で行けよ!。

ドナルド・トランプは「どんな名前をつけても、どうせ”スティーブ・ウィンの”って冠がつくんだよ。それなら最初から使ってもいいんじゃないか?僕は”トランプタワー”と名付けたおかげで、随分と得をさせてもらったよって言ってくれたそうだ。

インタビュアーとの会話が予想以上にはずみ1時間近く経った時、アンディ・ウォーホルの作品が両サイドにずらっと並ぶ秘書室の一番奥の部屋に突然招き入れられ撮影開始。

6カット目のシャッターを押した途端「もう十分だろう」と言われた。

その直後に唯一のリラックスした笑顔をすかさず撮った7カット目。

撮影時間1分足らずで無事終了。

※「ウィン・ラスベガス」が建てられた場所は、西海岸を目指していたポパイ少年時代の1979年に初めてラスベガスに泊まった「デザートイン」の跡地だったのも縁だったのか。

ウィン・ラスベガス スティーヴ・ウィン(Steve Wynn 1943年

生まれ)日本初の単独インタビュー Lake of Dreams Straight, 2005年12月号 扶桑社刊

※こちらは当時単独インタビューが許されたVanity Fair誌 june 2005の記事と、2016年CNNのインタビュー動画。

 

3

同’05年11月、フランス南西部バイヨンヌに初海外写真展で訪れていた際、スペイン人の夫婦に誘われて牡蠣を食べに行った隣町の「ビアリッツ」にもなぜかカジノがあった。

カジノ バリエール ビアリッツ Casino Barriere de Biarritz
Casino Barriere de Biarritz. カジノ バリエール ビアリッツは中段写真の右手の白い建物


ヴィクトル・ユーゴーに「私はビアリッツより魅力的でより素晴らしい場所をおよそ知らない」と言わせた静かなバスク地方の海辺の町。世界各国から若者も多く集まるサーフィン発祥の地としても知られ、19世紀に皇帝ナポレオン3世が王妃ウージェニーのために離宮を建てたリゾート地。

オフシーズンだったのか大会議室には積み上がった椅子だけ。夜だけオープンのカジノは人の気配全く無し。 二度目に訪れた’08年のクリスマスの時も街の人や観光客もバスク料理を食べ食後の散歩を楽しむバスクスタイルに合わせていたらカジノに行き忘れた。

ニュースによるとMGMリゾーツ・インターナショナルのジェームス・ムーレン会長・最高経営責任者(CEO)の試算では2022〜2023年に日本に第一号の統合型リゾート(IR)が開業できればIR投資規模は最大1兆円の可能性もあるらしいが、僕が見た韓国レベルではカジノファン以外は行かないと思う。

大阪のIRイメージイラストの中身は知らないが、シンガポールのマリーナ・ベイ・サンズのインフィニティー・プールもそろそろ飽きられる頃?だし、周回遅れのIRでエンターテインメントの質は?カジノ一つではただの箱。人気は長続きするのか?疑問だらけだ。

日本人が忘れている風情や伝統の技を伝え提供できるおもてなしの仕組みが2020年東京オリンピックまでに少しでも増えますように!

 

日本でのカジノ合法化を目指す法案名がメディアごとに違うのはなぜだろう
「カジノ解禁法」?
「カジノを中心とした統合型リゾート(IR)整備推進法案」?
「カジノを含む統合型リゾート(IR)を解禁する法案(IR推進法案)」?

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三笠宮崇仁親王殿下を迎えて開催された

第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」で

亡父が宮様の先導に

2016.10.27

三笠宮崇仁親王殿下は平成28年10月27日午前8時34分、心不全のため100歳で薨去(こうきょ)されたニュースを見て古いネガを探した。

高校・大学時代に三笠宮さまを撮影させていただく経験が3回あり、最初は高校の写真部時代。昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」を後楽園(品川?)アイススケート場で恐れ多くも宮様を先導する大役を任された父の撮影だった。

昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」 当時のテレビカメラ今のスタジオカメラより小さい?

日本テレビ 昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」 ブラウン管って意外に丸い

昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」 タイをしめている三笠宮さまの前を滑る父

なぜ先頭に立つことになった経緯は完全に忘れたが、高校入学祝いで買ってもらった一眼レフカメラMINOLTA SR-7、レンズはAUTO ROKKOR-PF 58mm f1.4と級友に借りた望遠レンズと三脚を抱えてリンクに行った。

フィルムはSAKURAのKONIPAN SS。ブラウン管時代のテレビ録画のおかげで照明が明るくSS感度でもあまりブレることなく撮影できたのかも。

後日放送された日本テレビでは

主催:日本レクリェーション協会、読売新聞社。

後援:東京都教育委員会、日本スケート連盟、日本フォークダンス連盟、大学スケート研究会。

主管:日本氷上フォークダンス普及会とクレジットされている。

日本テレビ 昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」

昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」

昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」 後ろを気にしながら滑っているのかしら

三笠宮崇仁親王殿下は大正天皇の第4皇男子で天皇陛下の叔父にあたり、皇位継承順位は第5位であられた。オリエント史研究では皇族として初めて大学の教壇にも立ち、テレビでも講義するなど「学究肌」の一面を持たれ、気さくなお人柄で国民と皇室との架け橋になられ、戦後の日本を平和で文化的な国にするためレクリエーションやダンスの普及に取り組まれ、氷上を滑りながらフォークダンスを楽しむスケートフォークダンスの生みの親でした。

宮家に近い方が数名で食事会を開いた時、記録写真係としてその後2回お会いした。この時の写真はネガ、コンタクトシート、プリントともに依頼者にお渡ししたため手元には残っていないが、駆け出しカメラマンが失敗せずに撮影できたのは周りの方々を緊張させない温厚で細やかな三笠宮さまでした。

亡父のプロフィール(1976年のメモ)によると、趣味のスキー・スケート・水泳いずれも公認指導員。東京都、杉並区体育指導委員を経て、杉並区体育会理事長として社会体育振興に従事していた。おかげで僕は小学生の頃からスピードスケートやスキー(トニーザイラーや猪谷千春選手とも滑った ^_^/)を習った。

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