わかる!いいね!をかなえるブログ nao1.com blogわかる!いいね!
をかなえるブログ

 

NEWSの現場ブログNEWSの現場blog アンドレケルテス Andre Kertesz

▷ あさま山荘事件1972年 あさま山荘事件 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局

怒涛の1972年1972年 あさま山荘事件ほか 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局

NEWSな人たちNEWSな人たち ヨーコ オノ 週刊サンケイ SPA! Straight. 誌面を飾った方々 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局 © NISHIDA, Keisuke / HJPI320200000636 www.jpca.gr.jp

NEWSなスクープNEWSなスクープ 三島由紀夫自決 701125 週刊サンケイ 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局 © NISHIDA, Keisuke / HJPI320200000636 www.jpca.gr.jp

ネットもカードも
無い1973年、

ニコンFと周った
格安世界 写真旅
ブログ
ネットもカードも
無い1973年、 
ニコンFと周った 
格安世界 写真旅
ブログ

旅支度編
横浜ーナホトカ編
ソ連 USSR編
北欧編
デンマーク、
オランダ編
ベルギー、ドイツ編
オーストリア編
フランス、パリ、
ロワール編
スペイン、
ポルトガル編
フランス、スイス編
イタリア、ギリシャ編
トルコ、
アフガニスタン編
インド、ネパール編
東南アジア、羽田編

 

ハピポ®な
PHOTOブログ

ハピポ®な
PHOTOブログ

ハピポ®な
MOVIEブログ

ハピポ®な
MOVIEブログ

ハピポ®な
ARTブログ
ハピポ®な
アートブログ

ハピポ®な
GOLFブログ

St,Andrews
ハピポ®な
GOLFブログ 
St,Andrews

 

Ameba圭介のブログAmeba 24daブログはこちら

 

 

ハピポ®なブログハッピーでピュア、ポジティブにくらすハピポ®なブログ Happy & Pure Positive Life Blog

もっと楽しく!
いいね!を撮ろう

もっと楽しく!いいね!を撮ろう

 

PHOTOGRAPH /
写真
PORTRAITS/
SILHOUETTE / 影
SCOOP
ART Performance
 
EDIT DESIGN & PUBLISHING /
編集・出版
 
城南大学
ダンンスパーティー
同好会
 
ECO / エネ経

 

Do you have a film?  

とか言われて見たら、

なんとユージン・スミスだった

2021.10.27

今秋は一枚の写真が世界を呼び覚ます。映画『MINAMATA』の全国公開を機に開催された
William Eugene SmithとMINAMATA関係の写真展に行った。

9月9日
W・ユージン・スミス自身の手によるモノクローム(ゼラチン・シルバー・プリント)作品約70点を観に「THE GLOW OF MERCY」展(gallery bauhaus. 9月7日〜11月20)に行った。
一部の作品は購入も可能だった。
TRI-Xで撮影されたはずのプリントは粒状性、トーン、黒の締まりなどが報道写真のクオリティーを超えたファインプリントだった。その中で「硫黄島」の粒状性は特に際立っていて、従軍写真とは思えないこんなに静謐な着弾時のプリント。ギャラリーの方に購入可能かを聞くと非売品だった。
しかもカメラはスピグラだと田中長徳さんのFBで知った。

以下詳細はギャラリーHPより
アメリカのグラフ紙『LIFE』などを中心に、フォト・ジャーナリストとして数多くの傑作を残した写真家ユージン・スミスの写真展を開催いたします。
戦争・医学・産業などをテーマに、人間のかがやきを撮り続けたスミスの写真家としてのあり方は、後世のフォト・ジャーナリズムに偉大な影響を与えました。
1978 年に59歳という若さで他界したユージン・スミスは、自身も波乱に満ちた人生を送りながら、世界中で起きている悲惨な出来事をカメラで追い続けました。
被写体と真摯に向き合い、あるがままの生をカメラを通して人々へ伝えようとしたスミスの写真は、真実を追い求める強い意志とあたたかな人間愛に溢れています。
本展覧会では、スミスの作品群から下記のテーマから厳選した作品を展示いたします。

「第二次世界大戦」「カントリー・ドクター」「日立」「スペインの村」「助産婦」
「チャップリン」「慈悲の人-シュバイツァー」「ピッツバーグ」「ハイチ」「無菌の生命」
「屋根裏部屋から」「楽園への歩み」「ウェールズ」など。

Schweitzer「慈悲の人-シュバイツァー」 ©W・Eugene Smith Schweitzer「慈悲の人-シュバイツァー」 ©W・Eugene Smith

硫黄島 ©W・Eugene Smith Ioutou「第二次世界大戦 硫黄島」 ©W・Eugene Smith

Wales「ウェールズ」 ©W・Eugene Smith Wales「ウェールズ」 ©W・Eugene Smith

会 期 / 2021年9月7日(火)~2021年11月20日(土) 
時 間 / 11:00~19:00
休 廊 / 日・月・祝
入場料 / 一般・学生 800円 *中学生以下は無料

 

10月14日
桑原史成さんが60年前から水俣病患者らを撮り続けてきた「MINAMATA」展(ギャラリーイー・エム西麻布、東京都港区西麻布4-17-10)に来た。
報道写真家としての活躍はカメラ雑誌などで数多く拝見していたがオリジナルプリントに接するのは初めてだった。
週刊朝日の水俣病特集記事を読んで衝撃を受けた桑原さんは急遽熊本県水俣市に入り、のちに胎児性患者と認定される子どもや家族の暮らしを撮った。
ユージンも、桑原さんの写真集を米国で見たことが、71年に来日して水俣を撮るきっかけと言われている。

昨今の印画紙の高騰に驚いているそうで、現像液はどうしているかお尋ねすると「調合して作るから何の問題もない」と即答された。
学生時代はメスシリンダーと上皿天秤で作ってたことをすっかり忘れていた。

暗室バイト要員だった頃は水温を20度にした深バットにD72の袋(10リットル用?)から出して綺麗に溶くだけだったからかも。
最近はデジカメで撮って若い人に出力してもらうこともあると聞いた。

桑原さんとは初対面の上記念写真にも快く応じていただくことができ、力強いメリハリのあるオリジナルプリントに接することができよかった。

桑原史成写真美術館はこちら
桑原史成さんのHPはこちら

桑原史成 MINAMATA 桑原史成
MINAMATA 桑原史成 MINAMATA 桑原史成
「MINAMATA」展 ギャラリーイー・エム西麻布、東京都港区西麻布4-17-10


10月16日
バウハウスギャラリーの田中長徳(1973年ウィーンまで会いに行ったことがある)ギャラリー・トークを聞きに行った。

ギャラリーのFBから
ユージン・スミス写真展「THE GLOW OF MERCY -愛と真実の日々-」田中長徳(写真家)

ドキュメンタリー写真が力を持っていた時代と、そうではなくなった現代で、我々は写真の何を失ったか。この半世紀の間に『LIFE』に代表されるアメリカ現代写真のフォトドキュメンタリーが失ったもの、そして偉大な写真家がストレート・フォトグラフィーの評価を正当に受けるようになったことなど。公開中の映画『MINAMATA』と、ニューヨーク6番街821番地のユージン・スミスのロフトで、スミスとミュージシャンとの交流を描いた映画『ジャズ・ロフト』の話も。

以下は長徳さんのFBから

ギャラリーバウハウスで開催中の友人スミス大写真展。
エントランスのいつもメインテーマがこれである。第二次大戦中取材した友人スミスの写真。戦争写真であるのに何か極めて静かな状況が漂っている。
写真家は当時4インチ× 5インチのスピードグラフィックを使っていた。これはアメリカ軍の正式な軍用カメラなのである。戦後になって友人スミスは35ミリに切り替えてタイムライフとトラブルを起こしたりしている。戦争写真とフォーマットについて深く考えることのできる作品である。

 

10月21日
「MINAMATA」取材で来日したユージンスミスの助手を務めた石川武志さんの個展(リコーギャラリー新宿)に行きました。

そこにヒョッコリ現れた桑原史成さん。奇跡のツーショットを撮らせていただきました。
気になっていたユージンスミスのトライXの感度設定、露光、現像について石川さんに教わった。
スミスのオリジナルプリントあのトーンの入口が分かった ^_^?が、当時の僕には難しかったかも。

僕の場合は感度優先ASA400〜800で撮影することが多く、Tri-Xはかなり困難な撮影状況でも強い味方だった。古いNEWSだけど三島由紀夫自決事件の検視現場は増感しすぎて真っ黒なネガからの超拡大プリントになってしまったが何とかプリントして入稿したことを思い出した。

石川武志さんと桑原史成さん 石川武志さんと桑原史成さんMINAMATA ユージン・スミスへのオマージュ  リコーイメージングスクエア東京 MINAMATA ユージン・スミスへのオマージュより

 

10月26日
最後に数年前、産経新聞写真部OB会で萩原正人大先輩から聞いたスミスの感動話。
僕の記憶間違いもあるかと思い事実誤認がないか確認していただいた返信はこちら。


詳細は記憶にないが70年代、丸の内か大手町(大手町)のチッソ本社へ抗議デモがあった。

横から
「Do you have a film?」と言われて見たら、
なんとユージン・スミスだった。

学生時代に京都で見た、「ザ・ファミリー・オブ・マン」の「楽園への歩み」が、
写真を志した原点だったかもしれない。

知ってのとおり、あの頃のフイルムはTRI-X。
産経では長い(100ft巻き)フイルムを30枚とか40枚とか、
好みの長さにしてパトローネに詰めていた。

記憶では夕刊用に原稿を送った後だったし、数本を残してTRI-Xの缶ごと彼に譲った。

それが縁で結婚式にアイリーンと来てくれ、
「従軍した戦場ではカメラとフイルムがオラの武器だった」

みたいな話をしてもらいました。

その後、系列の夕刊フジに書いたと思っていがどうも勘違いだったらしい。
夕刊フジに書いたのはユージンでなくカール・マイダンスでした。

 

カール・マイダンス カール・マイダンス
萩原先輩の夕刊フジのカール・マイダンス写真と記事

ミズーリ号のこと? ウン、あの日のことは今でもよく覚えているよ。
まだ若かったし、ホンの一瞬「ザマ見ろ」という思いがあったかもしれない。
でもそんな気持ちはすぐに消えてしまった。何よりも長かった戦争が終わったことがうれしかった。
それに、それまで敵同士だった国と国とがひとつの事を成し遂げようとしている。

とても感動的だった。足の悪いシゲミツ(重光葵、降伏調印式の日本政府代表) が
サインをするために歩みより、ベンをにぎる前に手袋をとった。
そしてしばらくの間、静止したままの姿がとても印象に残っている。
ヨーロッパや太平洋、中国や朝鮮、そしてベトナム⋯⋯。
戦場で出会った人びとの顔に浮かんだ絶望の表情は、みな昔どこかで見たような気がした。
違うのは服装と風景だけ。取材すればするほど戦争に勝つ人間なんていやしないと思ったね。

サイゴンではサワダ(ピュリツァド賞受賞の故沢田教一UPI通信カメラマン)にも出会った。
彼を良く知ったのは初めて会ってからずっと後、そう、彼が有名になってからだ。
彼のライバルである特派員たちは口をそろえて「あいつはすごい奴だ」って称賛していた。
事実、彼のベトナム戦争への判断力は正しかった。
それは彼の写真を見ればよく分かるだろう。
彼のレンズほど彼の人間性を物語るものはないからね。

私は小さい頃から人間にとても興味があったんだ。
それにいろいろな出来事、いろいろな人間を他の人びとに伝えることにも。
だからジャーナリストの道を選んだ。
文章を何度も繰り返し読んで判断することもあるし、写真を見て判断することもある。
でも写真は言語の違いなどを超えて、より多くの人びとに訴えることが出来る。
人間っていうのはもともとビジュアルなものに感じるものなんだ。
だからタイプライターでなくカメラを選んだ。

スキャンダル雑誌全盛だが⋯⋯この道は固い決意が必要

日本ではスキャンダルが売り物の写真雑誌が全盛で、
まともなフォト・ジャーナリズムが困難な状況にあることは問いた。
それはアメリカでも同じだ。でも私は言いたいんだ。
フォト・ジャーナリストを目指すんなら、ともかく固い決意を持って続けることだよ。
イギリスの古いことわざに「作家はあばら家に住むものだ」というのがある。
たしかに多くの作家は″あばら家´から生まれた。
フォト・ジャーナリストを目指す人たちはカメラを放すな、
作家を目指す人たちはタイプ、いや今はワープロか、ワープロを片時も放すな、と言いたいね。

それに編集者に注文されるまま写真を撮っていたんではダメだ。
″自分″をもっと大切にしなければ。

ライフで仲間だったユージン・スミスは
「信念、努力、そして一台のカメラと何本かのフィルム、
それが私のか弱い武器だ。
この武器をとって私は善き意向のために戦った」
って言っていたよ。

ある時はカメラを手放さなければならない時もある。
カメラを捨てて瀕死の兵士を担架で運ぶことだってあった。
でも戦争はもう沢山だね。
第二次大戦が終わった時にロバート・キャパはこう言っていた。
「これからも戦争写真家として失業状態が続くことを願っている」って。

最近? ウン、今年は久し振りにエキサイティングな取材をした。
フィリピンのアキノ政権の誕生だ。
歴史の主役は常に民衆だって強く感じたね。

世界中探しても50年間も写真を撮り続けている人間は少ないだろうと思う。
その訳かい、


理由は三つある。
ひとつは写真が大好きだということ。
そう、この仕事を始めた時と同じくらいね。

二つ目は写真を撮るためには頭も体も使う。
だから健康にとてもいいんだ。

最後はこれが一番大事なことだけど、神が私にとてもよくしてくれたことだ。

アジアやヨーロッパで命をかけて人間を、戦争を撮りまくり、ある時は反戦世論までつくり出した伝説的な写真家たち。比べてスキャンダルか、ものごとを断片的に切り取るだけの日本の写真雑誌のなんと貧しいことか。世界のフォト・ジャーナリズムを常にリードしてきた「LIFE」誌は1972年廃刊となった。

CARL MYDANS カール・マイダンス プロフィール
米国の写真家。1907年ボストン生まれ79歳(当時)。ボストン大学新聞学科卒、NYの「ザ・アメリカン・バンカーズ」の記者に。
35年農業政策局に勤務、他の写真家とともに大恐慌後の全米各地の農民の惨状を訴えた作品は「写真で表現された最も素晴らしいヒューマン・ドキュメント」(現代写真界最高の巨匠、エドワード・スタイケン=故人)と高く評価された。
36年「ライフ」誌創刊と同時にスタッフカメラマンとして入社、第二次世界大戦下のコーロッパやアジア各地、朝鮮戦争、インドシナ戦争を取材した。
「ライフ」のリポーター、シェリー・スミスと結婚。太平洋戦争中は大妻で日本軍の捕虜となり2年ちかい収容所生活も。終戦時は東京湾ミズーリ号上の降伏調印式を取材。
47年から4年間タイム・ライフ東京支局長。
39年と50年にはUSカメラ最高賞を受賞している。

文・カメラ 萩原正人
以上:昭61年11月1日31日発行の夕刊フジより 

 

※ カール・マイダンスさんのカメラとレンズの話
タイム・ライフ東京支局長時代に契約カメラマンのデビッド・ダグラス・ダンカンと三木淳の二人が優秀なレンズとして見出した日本光学製(現:ニコン)の35mm判用レンズのニッコールを自分の愛用のコンタックスに使用するようになった。
マイダンスは、当時のコンタックスに頻発したシャッタートラブルから、カメラボディも日本光学のニコンSを使う様になった。厳冬の朝鮮半島でも確実に動作したことから、ダンカンもニコンSを使いだした。
これがきっかけとなり、朝鮮戦争の取材をするライフ・タイムのカメラマンが、続々と日本光学のカメラとレンズを使用するようになった。
ダンカンはライカのカメラにニッコールを使用していたそうだ。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

「写真はときには物を言う」
水俣を世界に伝えた米写真家の軌跡

写真が豊富で参考になった徳山喜雄さんのYahoo!ニュース
2017/12/26(火) 08:30 WEB配信

徳山喜雄/Yahoo!ニュース

水派 廃液と海 この排水がすべての元凶 ©W・Eugene Smith

日米が激戦を繰り広げたサイパンやレイテ、硫黄島、沖縄を撮影、戦後は水俣病を世界に伝えた米国の報道写真家ユージン・スミス(1918-78)が生誕100年を迎え、東京・恵比寿の東京都写真美術館で大規模な回顧展が催された(クレヴィス主催、2018年1月28日まで)。

日本と深くかかわり、社会の不平等を訴える一方で、人間の日々の営みや気高さに目を向けた。写真の力を最大限に引き出したといえる作品群は心を揺さぶる。ユージンの最高傑作のひとつで、水俣病を象徴する写真「入浴する智子と母」は、宣伝塔のようにさらされつづけたくないとする家族の意向で封印された。

 


ユージン・スミスのWIKI

カンザス州ウィチタ生まれ。母方の祖母がアメリカインディアンのポタワトミ族の血筋もひく。父親のウィリアム・H・スミスは小麦商を営んでいた。
長ずるにつれ、ユージンは空を飛ぶこと、飛行機に魅了されていった。13歳のとき、飛行機の写真を買うためのお金を母親に求めたところ、母親は代わりに自分の持っているカメラを与え、地元の飛行場に行って自分で撮って来てごらんと促した。写真一筋となったユージンはカセドラル高校のスポーツイベントを撮る。この写真が地元『ウィチタ・プレス』の編集者のヴィジル・ケイの目にとまり、15歳のとき同誌に写真が採用された。1934年、異常気象により中西部の農業は壊滅的な打撃を受けるが、干上がったアーカンザス川を撮った写真が『ニューヨーク・タイムズ』7月25日号に掲載された。
1936年4月、大恐慌で破産した父親が散弾銃で自殺。同年、ウィチタ・ノース高校を卒業。母親は息子のため、カソリック教会のつてを辿り、写真に関する奨学金を獲得。ユージンはノートルダム大学に入学するが、18歳のときに退学、ニューヨークに向かった。1937年9月、『ニューズウィーク』の仕事を始めた。
戦争写真家として1943年9月、「Ziff Davis」の従軍記者となる。サイパン、沖縄、硫黄島などへ派遣され、『ライフ』などに写真を提供した。
1945年5月22日の26歳のとき、沖縄戦で歩兵と同行中に日本軍の迫撃弾が炸裂し、砲弾の爆風により全身を負傷した。左腕に重傷を負い、顔面の口蓋が砕けた。約2年の療養生活を送ったが、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、ユージンは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。
戦後、時の大事件から一歩退き、日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味を向け、1947年から1954年まで、雑誌『ライフ』で「フォト・エッセイ」という形でそれに取り組んだ。
1950年にイギリス労働党の党首選挙撮影のため訪英し、クレメント・アトリーに共感を抱いたが、『ライフ』誌編集部の方針と対立し、結局その写真集はイギリスの労働者階級にのみの限定販売となった。
1954年、『A Man of Mercy』を巡って再び『ライフ』誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。
1955年、マグナム・フォトに加わった。

ジャズ・ロフト・プロジェクト
1957年から1965年にかけて、マンハッタンのロフトでユージンが録音した4000時間にわたるジャズ・ミューシャンのジャムセッションのテープと、4万枚近い写真が、死後にドキュメンタリー映画としてまとめられた。2015年、サラ・フィシュコが監督を務めた『The Jazz Loft According to W. Eugene Smith 邦題ジャズ・ロフト』が公開。
日本では『ジャズ・ロフト』という邦題で、2021年10月15日に全国公開された[8]。  
1957年、ユージンは妻のカーメンと4人の子供をニューヨーク州ウェストチェスター郡に残し、マンハッタン6番街のロフトに移り住む。そこでトランぺッターのディック・ケアリー(Dick Cary)やピアニストのホール・オーヴァートン(Hall Overton)らと暮らし始めた。ロフトではセロニアス・モンク、ズート・シムズ、ローランド・カーク、カーラ・ブレイ、ロニー・フリーらによるジャムセッションが連日連夜繰り広げられた。ユージンは同年から1965年にかけて演奏をオープンリールで録音し続けた。このときの録音テープとユージンが撮った写真はのちに映画にまとめられた。

1961年、日立製作所のPR写真撮影のために来日。
1970年8月、51歳のときにニューヨークのマンハッタンにあるロフトでアイリーン・スプレイグ(のちの妻となるアイリーン・美緒子・スミス)と出会う。富士フイルムのCMでのユージンへのインタビューで、アイリーンが通訳を務めた。当時20歳のアイリーンは、母親は日本人で父親はアメリカ人。東京育ちで11歳のとき渡米し、当時はカリフォルニアのスタンフォード大学の学生であった。出会ってわずか1週間後に、ユージンはアイリーンに自分のアシスタントになり、ニューヨークで同居するよう頼む。アイリーンは承諾しそのまま大学を中退、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らしはじめた。

水俣市へ
1970年秋、ユージンと親交のあった元村和彦が渡米。元村はニューヨークでユージンらに来日して水俣病の取材をすることを提案した。1970年代は水俣病裁判とも重なり、日本全国各地で公害が社会問題となっていた時期でもあった。
ユージンとアイリーンはこれに応じ、翌1971年8月16日に来日した。同年8月28日に日本で婚姻届を出し、東京都内のホテルで披露宴を挙げて夫婦となった。スミス夫妻は患者多発地域であった熊本県水俣市月ノ浦に家を借り、同年9月から1974年10月までの3年間、ともにチッソが引き起こした水俣病と、水俣で生きる患者たち、胎児性水俣病患者とその家族などの取材・撮影を行った。
1972年1月7日、千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場(現・JNC石油化学市原製造所)を訪問した際、川本輝夫率いる水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名が、チッソ社員約200人による強制排除に遭い、暴行を受ける事件が発生した。ユージンもカメラを壊された上、コンクリートに激しく打ち付けられて脊椎を折られ、片目失明の重傷を負った。ユージンの後遺症は重く、複数の医療機関に通い続けたが完治することはなく、暴行の容疑者は不起訴処分となった。この事件でユージンは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。ユージンはチッソを告訴することも勧められたがそれを拒み、その後も水俣市と東京都内を行き来しながら、患者らの後押しを受けて撮影を続けた。
1945年の沖縄戦での負傷の後遺症で、ユージンは歯の噛み合わせが悪くなり、ほとんど食べられなくなっていた。またアルコール依存症にも苦しみ、アイリーンによれば「毎日10本の牛乳と、オレンジジュースに生卵を入れて混ぜた飲み物が栄養源で、それにサントリーレッドの中瓶を1日1本ストレートで飲んでいた」という。チッソ五井工場での暴行による負傷が体調悪化に拍車をかけ、激しい頭痛に悩まされ「(風呂の薪割り用の)斧で頭を割ってくれ」とアイリーンに頼むこともあった。それでもユージンは撮影を続け、1973年4月には西武百貨店池袋店で写真展「水俣 生―その神聖と冒涜」が開催された。
1974年10月、写真集『水俣』の掲載写真の選定や文章もほぼ終えて、スミス夫妻は3年間暮らした水俣市を去り、ニューヨークへ帰国した。翌1975年5月にはアイリーンとの共著で、悲願であった写真集『MINAMATA』英語版の出版を果たし、世界中で大反響を呼んだ。しかしその直後、ユージンとアイリーンは離婚することとなった。
離婚後のユージンはアリゾナ州ツーソンで晩年を送り、アリゾナ大学で教鞭をとっていた。チッソ社員からの暴行の後遺症による神経障害と視力低下により、カメラのシャッターを切ることもピントを合わせることもできなくなっていたが、日本や日本人を恨むことはなかった。1977年12月には脳溢血で倒れ、翌年には奇跡的に回復して一時はセミナーを行うまでになったが、1978年10月15日に自宅そばの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、発作を起こして死去した。59歳没。日本語版『写真集 水俣』が出版されたのは、ユージンの死後の1980年であった。

ユージン・スミス賞
彼の死後、ユージン・スミス・メモリアル基金(W. Eugene Smith Memorial Fund)によりユージン・スミス賞(W. Eugene Smith Grant in Humanistic Photography)が設けられた。人間性や社会性を重視した写真作品を対象としている。主な受賞者にセバスチャン・サルガドなどがいる。

ユージン・スミス賞(W. Eugene Smith Grant in Humanistic Photography)が設けられた ユージン・スミス賞(W. Eugene Smith Grant in Humanistic Photography)ユージン・スミス賞(W. Eugene Smith Grant in Humanistic Photography) 画像クリックでリンク先に移動できます

 

映画『MINAMATA-ミナマタ-
2018年10月23日、英国のハンウェイ・フィルムズが、ユージンの後半生をジョニー・デップ主演で映画化すると発表した。アイリーンの役は美波が演じた。
映画『MINAMATA-ミナマタ-』は2020年2月にベルリン国際映画祭で公開された。
2021年8月、アイリーンはメディアのインタビューに応じ、「この映画はドラマだし、実際に生きた人にとっては複雑な気持ちがあります」(ユージンが写真の発表を諦めようとして編集者と口論になる描写に対して)「本当なら逆です」と述べる一方、「患者さんの苦しみと闘いの素晴らしさが世の中に知られていくこと、そしてユージンのジャーナリストの信念が話題になっていくことは非常に嬉しく思います」と評した。デップが演じるユージンが本人と似て見えた部分があったり、「ユージンがいる」と思えた瞬間があったことも話した。
同年9月7日、映画の日本公開に合わせ、長らく絶版になっていた『MINAMATA』の日本語版『写真集 水俣』が、原著と同じタイトルで再出版された。9月11日には、熊本県津奈木町のつなぎ美術館で作品展「ユージン・スミスとアイリーン・スミスが見たMINAMATA」の開催が始まった。
同年9月18日、映画の先行上映会が水俣市文化会館で行われた。9月23日、日本で全国公開。

ユージン・スミスの写真の特徴は、「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリである。そのメリハリは、妥協を知らない徹底した暗室作業によって作り出された。
日立製作所の仕事に助手として参加した森永純は、「暗室作業についていえば、渡された1枚のネガから、いくらプリントしてもOKをもらえず、悪戦苦闘したことが忘れられない。こうなると私も意地で、知っているだけの技術を使い、とうとう1週間かかって100余枚のプリントを焼き、やっとその中の1枚だけにOKをだしてもらったことがある」と書く。
それに加えてユージン・スミスは、トリミングを駆使して被写体を強調したり、重ね焼きを用いたりした。例えばアルベルト・シュヴァイツァーを被写体とした1枚は手と鋸の影が重ね焼きされた。そもそもユージン・スミスは、リアリズム(写実主義)を排除していたとされる。

シュヴァイツァーを被写体とした1枚は手と鋸の影が重ね焼きされたスミスの画像 これがノコギリと手の部分かな?

これは客観的な本ではない。ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞきたい言葉は『客観的』という言葉だ。そうすれば、出版の『自由』は真実に大きく近づくことになるだろう。そしてたぶん『自由』は取りのぞくべき二番目の言葉だ。この二つの歪曲から解き放たれたジャーナリスト写真家が、そのほんものの責任に取りかかることができる。
— ユージン・スミス、写真集『水俣』英語版の序文

ジャーナリズムにおける私の責任はふたつあるというのが私の信念だ。第一の責任は私の写す人たちにたいするもの。第二の責任は読者にたいするもの。このふたつの責任を果たせば自動的に雑誌への責任を果たすことになると私は信じている。
— ユージン・スミス、写真集『水俣』英語版の序文

写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、
そうした私たちの信念につけ込んで
写真は 平気でウソをつくということに気づかねばならない。

ユージン・スミス写真集のカバー写真「楽園への歩み」

 

#MINAMATA
#ユージンスミス
#桑原史成
#石川武志
#田中長徳
#産経新聞社萩原正人


ページトップへ

____________________________________________

1988年まで今日は天皇誕生日だった 

2021.4.29


僕が生まれる前の「天長節」(1927〜1947年)から

「天皇誕生日」(1948〜1988年)に変わり、

昭和天皇崩御後に自然に感謝する「みどりの日」(1989〜2006年)になり

2007年〜から「昭和の日」になった。

 

駐日英国大使館でエリザベス女王主催の晩餐会 昭和天皇

昭和天皇と最接近距離でにこやかに微笑んでいただけたカットは今年春先に事務所の整理中に偶然発見した写真。

駐日英国大使館でエリザベス女王主催の晩餐会 エリザベス女王

エリザベス女王とともにに日本を訪れたエディンバラ公フィリップ殿下。
女王の気品とオーラが素晴らしいと思っていた翌日に悲しい知らせ(4/9)をニュースで知った。
エディンバラ公フィリップ殿下は1921年に王政時代のギリシャで王室の一員として生まれ、父は国王の弟。母はビクトリア女王につながる名門で、ギリシャの王政がクーデターで倒壊した時英軍に救出された後フランス、ドイツで教育を受け英海軍士官学校在学中にジョージ6世国王の訪問を受けエリザベス王女の案内役を務めたのが馴れ初めだそうだ。

駐日英国大使館でエリザベス女王主催の晩餐会 皇太子明仁親王 皇太子明仁親王と皇太子妃美智子さま

駐日英国大使館でエリザベス女王主催の晩餐会 常陸宮正仁親王 常陸宮正仁親王と正仁親王妃華子さま

撮影日は1975年5月9日、イギリスの元首エリザベス女王ご夫妻が日本を訪問(5/7〜12)し、9日は都心でオープンカーによるパレード、日英協会主催の午餐会、カメラ工場見学の後、駐日英国大使館でエリザベス女王主催の晩餐会があり小雨交じりの中集まった人々に笑顔で手を振る昭和天皇とエリザベス女王、皇太子明仁親王、常陸宮正仁親王。

 

ページトップへ

____________________________________________




福島第一原子力発電所視察、 

沸騰水型軽水炉モックアップ撮影と

3.11東日本大震災

2021.4.03

 

1:表参道PAYPAL本社でEC決済セミナー前に
  遅めの昼食を食べ始めた途端
  麺のスープが溢れそうな横揺れ


2011.3.11

表参道Aoビル(アオビル)15階にあるPAYPAL本社でEC決済セミナーに参加するため

ビルの裏手にある行きつけの四川料理の蓬莱で遅い昼食に牛肉細切りメンを頼んだ。

2時半ごろ店内の客は僕を含めて数名だった。

丼が運ばれ一口食べ始めた途端、突然大きな揺れを感じた。

「早く火を消せ」

と厨房から大きな声が聞こえた。

スープが前後に揺れて溢れそうになった丼を持ち上げながら店内を見て、H鋼で組まれた入り口付近

が安全と判断した。

「逃げはしないので、ちょっと席を立ちます」

路上に近所のカフェなどから飛び出した大勢の人たちが溢れだした。

土地柄ビルの構造はガラスを使ったビルも多く、路上に出るのは危険と思いながらこの後行く

予定のAoビル(高さ90m)を見上げると左右にゆっくり大きく揺れていた。

新宿超高層ビル群に職場があった頃、高層の住友ビルの昼食時に経験した気味の悪い揺れの記憶や

3.11直前の2011年2月22日12時51分にニュージーランドのカンタベリー地方で発生した

マグニチュード6.1のニュージーランド地震のNEWSではエレベータ付近の構造部分が残っていた

ことを思い出し店内側で揺れが収まるまで待機することにし、

延び気味の麺を完食してAoビルに向かった。

青山通り(246号)に面した歩道にはビル内のテナント従業員や紀ノ国屋インターナショナルの

買い物客などでごった返していた。

PAYPALの担当者に携帯で連絡したが繋がらず、エスカレーターも停止していた。

こんな災害だから即帰宅するのがベストなのに、なぜか15階まで歩いて登ることにした。

開業間もないAoビル(2009年3月26日)の階段の壁は汚れもなく真っ白だったが、

よく見ると四隅の小さなヒビから白い粉末が階段や踊り場に落ちていた。

何階だったが思い出せないが大きな余震があった時は手すりを掴んで、閉じ込められないよう

必死に非常扉を開けると、エレベーター前の大きな内窓が左右に大きくスライドしていた。

揺れが落ち着くのを待って15階まで登り、受付電話を鳴らしても誰も出ない。

受付の人も昼食に出て戻ることができないのなと思いながら内部を覗こうにも、

オフィス内は外から遮断されたデザインで、入り口の隙間から人の気配はすれども

インターホンの反応は皆無

これは担務がはっきりしている外資だから?かと思いながら外の景色をiPhoneで撮った。

2011.3.11 東日本大震災直後のAoビルから新宿方面を撮る iPhoneで撮った東日本大震災直後のAoビル15階から新宿方面

暫くすると中からスタッフが出てきたので担当者の方を呼んでもらった。

担当者は他社さんも来社しているか確認のため玄関まで降り、戻ってくると僕だけのために

セミナーを開始することになった。

この先何が起きても対応できるよう会議室のTVモニターにNHKを音無しで流しっぱなしにして

パワポのレクチャーを受けた。

プレゼンが終わり会社に直帰の連絡をするため携帯電話を鳴らそうとしたらPAYPALのスタッフが

携帯は繋がらないから社内の電話を使ってください言われ、外線に簡単に繋がった。

ついでに代々木上原の事務所にいる妻にも電話させてもらい、

代々木上原の事務所まで徒歩で帰る事を伝えた

セミナーも終わった日没後の夕景

青山通りも表参道もビッシリ車が溢れ車やバスよりも徒歩が一番確実だった。

環状6号線の富ヶ谷の歩道橋から写真を撮っていると見知らぬおじさんに声をかけられた。

富ヶ谷交差点の渋滞

「二日前に息子に会いに東京に出てきたが、
先ほど新宿で地震に遭って電車もバスも動かないと知り
紀伊国屋書店でなんとか入手した地図を頼りに
狛江に帰るつもりで、ここまで来たが帰宅ルートがわからず
困ってます。
あなたはどこに帰りますか?
よかったら途中までご一緒できませんか」

その人は我が家の少し先が目的地だったので二人並んで井の頭通りを西に歩き始めた。

代々木上原の事務所の本棚が地震でずれトイレを塞いでいるのを応急処置するため途中で別れ、

少し大回りになるがわかりやすい道順を伝えた。

三宅デザイン事務所のある井の頭通りの信号を右折すると

 

事務所前に赤色灯をつけた消防庁の車と
消防士?と黄色い非常線が目に入った

非常線をくぐって中に入ろうとすると注意を受けたが、目の前が事務所である事を告げ

中に入れさせてもらった。

事務所前が地震によるガス漏れ 事務所前が地震によるガス漏れ 3.11東日本大地震 地震による事務所前のガス漏れ

リビングの床一面に資料や書籍が溢れていたが、突っ張り棒などで補強していた本棚の被害は

少なかった。

奥行きがやや浅い、高さ1700㍉の本棚は耐震補強なしでユーティリティーに置いてあったため

ほぼ全ての書籍が床に飛び出して足の踏み場もなくトイレが使いずらい状態だった。

30分ほど片付けをして、その日は帰宅することにした。

玄関先の消防署の方たちはまだ作業していたが、原因を聞くとガス漏れ通報があり

原因を調べているが未だ不明だと言っていた。

 

自宅までの距離は4キロちょっとだったが途中のコンビニから食品関係の棚はガラガラで

家に帰るまで食べ物は厳しいかなと覚悟していたが、下北沢にあるカレーのマジックスパイスが

開いていたので急遽スープカレーを食べてこの後の行軍に備えた。

この地震でお店の人は帰れたのか?

徒歩最短帰宅ルートの緑道を歩いていた時
iPhoneが鳴った

ワーホリでオーストラリアにいる娘からのSKYPEだった。

電波の状態はあまり良くなかったが現地でNEWSを見て心配してかけてきたが、

よく繋がったと思った。現地の職場では早くも募金も始まっていると聞いた。

環7を越え梅ヶ丘辺りから足が痛くなったがなんとか帰宅して、

2階の食器や食品ストック棚を開けると腰の高いクリスタルのシャンパングラスや

ワイングラスがほぼ全滅。

キッチンの食器棚からも一部が床に飛び出していたが陶器や磁器の物損は少なかった。

 

2:福島第一原子力発電所4号機原子炉建屋視察で 
  炉心に入った時に感じたデジャヴ感は
  1981年撮影の原子炉モックアップだった

2017.10.3

3.11をきっかけに一般社団法人 エネルギーから経済を考える経営者ネットワーク会議が設立され、持続可能なエネルギーとは?を問いその実現に向けた実践のネットワーク活動『エネルギーから経済を考える経営者ネットワーク会議』代表理事 鈴木悌介 著の新書版(エネ経会議 出版部2017年11月刊)編集担当として福島第一原発視察に参加させていただいた。

視察の朝、遅刻恐怖症の僕はいわき駅集合時間の5時間前の7時に家を出たが

前日の台風の影響で山手線上野駅ホームは入場制限で溢れかえる人、人人!

台風の影響で入場制限中の上野駅 朝の通勤ラッシュと入場制限の上野駅

構内の特急乗車券売り場に行くと予定していた特急ひたちは午前中全て運休。

しかも常磐線全線遅延中。とりあえず快速で取手方面へ向かいスマホで乗り継ぎ駅を検索した。

最後尾車両に新人車掌と指導教官と思しき二人の女性が添乗していたため詳しい情報を聞いた。

しばらくすると座席まで来てダイヤを見ながら効率の良い乗り継ぎ駅を教えてくれた。

ひたち駅 ひたち駅

途中「ひたち」の駅名アナウンスで1981年ごろの原発関連仕事を思い出した。

それは日立製作所が建造する 沸騰水型軽水炉の巨大モックアップ撮影だった

 

なぜモックアップ(縮尺模型)を作るのか?

設計図は何度もチェックして書かれているがその図面通りに配管やバルブ、点検孔があるか?

保安員が安全に点検ができるスペースはあるかなどを確認するためピアノ線の先に付けた

保安人形を模型内に入れて配線、配管に頭がぶつからないかをひたすら目視検査するために

大勢のモデラーを集めて工場で創っていると聞いた。

トラックで持ち込まれる3メートル近くあるモックアップを直接搬入し易いスタジオ(六本木の

アートセンターか六本木スタジオ)を予約して週末の夕方から未明までほぼオールナイトの

4×5撮影で車が買えるぐらいのギャラだった(広告なら普通?)。

仕事の出来栄えが評価され大プロジェクトへの参画要請と週1-2回ペースの撮影ペースなら、

工場の一角に特設スタジオを造ってスタッフを集めようかと思った。

が、当時並行して出版社創設PJと新雑誌創刊に燃えていた33歳の僕は、

特設スタジオのフロアプランのラフスケッチや撮影のポイント、ライティングのポイント等を

丁寧に説明しお断りした。

その時びっくりする事故対応の話や原子炉一つで多くの人が生活していた話を聞いたが、

3.11レベルの事故は想定外だったのか事故対応の詳細は今ではすっかり記憶の外。

いわき駅 台風一過のいわき駅

 

集合時間に30分遅れでいわき駅に到着

早めの昼食を済ませ、駅前からバスは福島第一原子力発電所に向かった。

開通させた国道6号線を北上中に車窓から見える海は、台風一過の明るい日差しを受けて

原発事故が起きた海には見えず、とてもクリアに見えた。

地震速報でよく耳にする「福島浜通り」太平洋側は高濃度の汚染地帯もあり原発事故後

2014年9月15日に「開通」させた通行禁止だったエリアはゴーストタウンのようだった。

人が入れない国道6号線沿いの建物はその後どうなっているのか?

区間内の平均空間放射線量は毎時3.8マイクロシーベルト。原発のあるエリアの最大値は

毎時17.3マイクロシーベルト。高線量だったが原発内外の除染作業の本格化で閉鎖していた国道6号

を無理を承知で解除したらしい。

発電所が近ずくと道路脇に設置された線量計に液晶数値が表示されており、

発電所への進入路を右折するとカメラ、携帯、スマホの撮影が禁止された。

それまで外は2.315マイクロシーベルト/h、バスの内部線量値は0.7マイクロシーベルト/hと

ガイドの東電スタッフの説明だったが、同行者が持参した車内の

 

線量値はどんどん上がりだし
5.15マイクロシーベルト/hを示していた

福島第一原発近くの線量値 福島第一原子力発電所近くのバス内線量計

この数値が高いのか安全なのかは僕にはわからないけどビジターズホールに到着し,

福島第一原子力発電所の概要説明などを聞き、カメラなどすべてロッカーに収納した。

構内バスに乗り換えて車中から1〜4号機の原子炉建屋を見ながら現場の説明を聞き、

凍土遮水壁設備やTVニュースで見かける冷却水による高濃度汚染水の

ストロンチウム濃度低減済処理済水、多核種除去設備(ALPS)処理済水の貯蔵タンク群で

見かけたナンバープレートがない車を見た。

撮影機材がないため福島第一原子力発電所構内画像はすべてTEPCOINSIDE2021。

多核種除去設備(ALPS)処理済水の貯蔵タンク群
ナンバープレートがなく赤いステッカーの作業車。

この車両は汚染されているため市内で車検申請ができず構内専用車両で赤いステッカーが

貼られていた。

最近構内が除染され再びナンバープレートがついた作業車のニュースを見た。

車内から1時間ほど見学した後、4号機サービス建屋でハンカチ、靴はもちろん靴下もぬいで

支給されたものに履き替え、手術用?手袋でガードをし線量計を着け

スリッパから防護靴に手順を追って履き替えた。

それはコロナ医療従事者と同じようないでたちだった。

燃料デブリの現状はこちら

地下通路を通って4号機の炉心下の2階入り口から原子炉格納容器内に入った。

ガイドの話を聞きながら住宅工事の足場のようなステップを上り始めた時、

かすかなデジャヴ感を感じた。この足元や炉心のカタチを見たことがある。

 

「この原子炉、ひょっとして日立製ですか?」
「この4号機は日立製で、1・2号機はGE。3号機は東芝です」

やっぱり!

36年前に撮影した記憶の奥深くにあった原子炉モックアップのディテールとオーバーラップした。

配管との距離、動きやすさなど注意深く視察した。

今回ブログを書くために改めて調べてみると、福島第一原子力発電所4号機は日立製だったが

運転開始は1978年10月。

撮影時期が合わない。

福島第二原子力発電所 福島第二原子力発電所

福島第二原子力発電所の2号機(1984年2月運転開始)と4号機(1987年8月営業運転開始)は

沸騰水型軽水炉 BWR5 MarkⅡで日立製作所製。

1・3号機は東芝製のため、原子炉モックアップの撮影をしたのは4号機と推測される。

津波の集中的遡上により1、2号機が大きく浸水
福島第二原子力発電所は主要建屋設置エリアが海抜12mと高かったこと、津波が福島第一原子力発電所に比べ低かったことが幸いし、福島第一原子力発電所より被害は軽微だったとはいえ原子炉4機のうち、1号機の主要建屋エリア側を道路が通っており、この道路を津波が集中的に遡上したため1号機は大きな被害を受けた。
福島第二原子力発電所では津波により1、2、4号機の除熱機能が失われ注水し炉心を冷却したが、発生する蒸気(熱)を逃がす先が無く、格納容器の圧力は徐々に上昇。
各号機の格納容器ベントの準備中に同時進行していた除熱機能の復旧に成功したため、ベントを実施することなく冷温停止を達成できた。
4号機は、事故当時、3号機で発生した水素が配管などを通じて流れ込み、水素爆発を起こしたが、定期点検中だったため、原子炉内の燃料1,535体はすべて使用済燃料プールにあった。2014年12月22日には共用プールに移動が完了し現在保管中。

福島第二原子力発電所4号機は見ていないため確かなことは言えないが、

後継の沸騰水型軽水炉のため誤認した可能性が大きいと思う。

 

福島第一原発、4号建屋の原子炉の底を見た。
燃料デブリが今後この底を破って落下する可能性は?

本当に廃炉は可能なのか?

地震国日本ではオンカロのような最終処分場は造れないのが現実。

3.11以降せめて自分だけでもできるエネルギーの無駄をなくす努力だけはしよう。

 

視察後、河川敷には津波で流された車が木に引っかかったまま残っていた。

河川敷には未だ流された車があった


最新刊
一般社団法人 エネルギーから経済を考える経営者ネットワーク会議 代表理事 鈴木悌介 著
『エネルギーから経済を考える SDGs実践編』扶桑社刊

詳細はこちら

一般社団法人 エネルギーから経済を考える経営者ネットワーク会議 代表理事 鈴木悌介 著
『エネルギーから経済を考える SDGs実践編』扶桑社刊 本の購入はこちら

 

廃炉作業の現状、廃炉に向けたロードマップなどTEPCOサイトINSIDEはこちら


現在の福島原発バーチャル廃炉ツアーはこちら

格納容器の内部(5号機)はこちら

燃料デブリ調査はこちら

汚染水処理状況はこちら

汚染水処理タンクはこちら

ページトップへ

____________________________________________

 

Sam & Daveと

照明デザイナー藤本晴美さんを取材した

伝説のディスコ クラブ、MUGEN 

2021.1.30

僕がADをしたパイオニアのLD(レーザーディスク)が出てきたと連絡をもらったたが、

全く記憶がなかった。

是非見てみたいと思い、我が家に現存(初代LDー1000はとっくに他界)する

プレーヤーLD-7100(1985年製)にDCコンバータを繋いで電源を入れたがトレーが開かない!

2014年までは元気だったのに7年も電源入れなかったせいか?

色々試してトレーの開閉ができるようになり、映像は出ないが音源だけ聴こえるもの、

音も映像も出ないものもあった。

修理業者をググって探したが自己責任で部品交換してるYouTubeを見ながら筐体を開けてみたら

原因はピックアップの動作不良に思えたが、適当に選んだ

「ROCK'N'ROLL THE GREATEST YEARS '67」を挿入したままで翌朝電源を入れると

小銃のような破裂音が出てトレーはピクリとも動かず。

週末から再び筐体開けてあれこれ試行錯誤した結果ディスクは取り出せたが

修理は無理みたい。

一番のショックは1984年にNYで購入した「Ansel Adams: Photographer」
1981年製作のNTSCデータを2014年にDVコンバーターでmp4に変換したお宝データを
古いMacBookPROを初期化した時にデータごと無くしていたことを思い出した。
このデータのみMacBookで読み込んだことを忘れていただけでなく
ノートのバックアップもとっていなかった。

 

60年代のROCK'N'ROLL THE GREATEST YEARSの映像を探していたら

「SAM & DAVE-LIVE-1968」や

「Ike & Tina Turner-Italian TV Show 1971 Proud Mary 」を発見!したので

 

SAM & DAVEのMUGENライブのネガを探した

 

MUGENはディスコ発祥の地として知られ、

1968年に浜野安宏のプロデュ―スで誕生した「高級」ディスコ・クラブだった。

’86年に閉店してから35年を経てMUGEN関係の情報はほぼ入手できなかった。

赤坂にオープンした頃はライブハウスも兼ねアイク&ティナ ターナー、サム&デイブらが出演し、

当時の蛍光塗料とブラックライトはサイケの必須アイテムだったが

照明デザイナーの藤本晴美(通称ペコちゃん)が創った照明器具から

鼓動のように映し出される不思議な映像が新しいサイケな空間を演出していた。

 

赤坂ムゲン 赤坂MUGEN サム&デイブ
写真は1969年3月29日の赤坂MUGENの「Sam & Daveライブ」
来日直前1967年のSam & Dave Revue - Live In Germany 1967はこちら

Ike & Tina Turnerのネガ発見は叶わず。
イタリアのTVSHOWの動画 Ike & Tina Turner / Proud Mary 1971はこちら


 

藤本晴美 
照明デザイナー&プロデューサー、演出家 撮影©西田圭介 藤本晴美 
照明デザイナー&プロデューサー、演出家 撮影©西田圭介1969年撮影の藤本晴美さん。撮影場所はMUGENの事務所。

僕が結婚後に引っ越した渋谷区大山のマンションの3階に晴美さんが住んでいた。

バーブ佐竹さん事務所の社長や藤圭子を育てたプロヂューサーなど我が家以外は

芸能界関係者が多かった。


藤本晴美
照明デザイナー&プロデューサー、演出家
国際的なアーティスト、クリエイター、企業家、知識人との交友を結び、つねに劇的なシーンを作り上げる手法に称賛が集まった。2018年9月17日逝去。
パリ美術学校、イタリア映画学校を経て、1969年MGS照明設計事務所創立◦
日本初のディスコ「MUGEN」「BYBLOS」の照明デザイン、演出、プロデュースでデビュー
その頃から“伝説のPecoちゃん”として知られ、大阪万博の「政府3号館」「ワコールリッカー館」では国内外で高い評価を得る。
以降、コンサート、ファッションショー、オペラ、美術展、映像、イベントなど、
多彩な企画構成、演出、プロデュースを手がけ、
国内外数多くの現場を通して、国際的なアーティスト、クリエイター、企業家、知識人との交友を結び、つねに劇的なシーンを作り上げる手法に称賛が集まった。2018年9月17日逝去。
1969年創業MGS照明設計事務所より引用

ページトップへ

____________________________________________

新宿西口反戦フォーク・ゲリラ 

2020.7.4


1969年は1月18〜19日の「東大安田講堂事件」で始まった。

この時は実験とレポート提出もありTV中継すら観られなかったが、69年の春ごろから

ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)を含めたいくつかの集会が新宿西口地下広場を中心に

アピールしていた。

数千人規模に膨れ上がったニュースや新聞を見て、

好奇心の塊だけで週末の新宿西口フォーク・ゲリラ撮影に通った。

一緒に歌っことも無いしカンパもせず、一度もシュプレヒコールに同調したことも無い

ノンポリ学生がファインダー越しのシャッターチャンスだけを狙っていた。

歌唱力はなかったけど、歌の渦だけは凄かった。

機動隊による排除前の69年6月7日のネガをもとにデジタル・リマスタリング中の1カット。

69年、週末の3密。

新宿西口フォーク・ゲリラ

立ち止まらないで、歩いてください!


1969年新宿西口広場に夜明けはあったのか?

当時のYouTubeはこちら

 

ページトップへ

____________________________________________

1968年夏、新宿西口サーキット場に 

毎週末深夜に集まるサーキット族を追っかけて

週刊誌のグラビアデビュー

2020.6.26

「新宿駅西口地下広場と淀橋浄水場跡にできた東京都立中央公園」

1966年に完成した新宿駅西口地下一帯の空間で、小田急百貨店と同じ坂倉準三が設計し

大型百貨店、新宿駅西口バス乗り場、東京都立中央公園など新宿駅西口の風景が整備された。

新宿を賑わした1969年6月28日のヤングベ平連反戦フォークゲリラ事件。

10月21日の新宿騒乱事件が起きる前年、1968年夏に毎週末の深夜に

ブラックエンペラーやジェロニモ他のやんちゃな同世代ライダーたちと親しくなって

撮影した「爆発する青春広場 新宿副都心の”音キチ族” 」で

20歳の学生カメラマンが週刊誌デビューした。

週刊サンケイ680930日号 撮影©西田圭介 週刊サンケイ680930日号


「ハッツくなよ(ひっくり返るなよ)」

「180㌔でいこう」

「カッコいい」

「それっ!白バイだぞ」

東京都立中央公園(淀橋浄水場跡)。 そこはいま青春が爆発する広場。

副都心計画にそって整備中のこの公園一帯が未完成なのをいいことに、どこからともなく

若者たちが集まるのだ。

まずオートバイ、ふつうの日でも30台、土、日曜ともなれば100台以上。

”音キチ族” の名にふさわしく爆音も激しく、新宿駅西口ロータリーから公園にかけての

コース(3㌔)を縦横に走りまわる。逆立ちしたり、片手乗りするなど曲技を披露して、

さながらサーキット場だ。

「死ななきゃ、生きてるさ」と、彼らは事故も恐れない。

見るに見かねた白バイが追いかけても、時速160㌔の彼らはスイスイと逃げる。

土曜日の深夜。都内を始め埼玉、千葉、神奈川から100台以上も集まる。

(以上グラビア本文)

 

こちらは残ネガカット
新宿西口サーキット族 撮影©西田圭介 野次馬はバイクや改造車でやって来る新宿西口サーキット族 撮影©西田圭介 歩道橋も学生やカップルが集まっていた新宿西口サーキット族 撮影©西田圭介 新宿西口サーキット族 撮影©西田圭介 新宿西口サーキット族 撮影©西田圭介 パトカーとサーキット族のイタチごっこ

ページトップへ

____________________________________________

1966年6月29日未明

18歳大学1年だったその日

The BEATLESが奇跡の来日!

2018.7.2

1966年6月24日ドイツから始まった世界ツアーは3日間の公演を終え、日本に向かった。
当初28日午後5時15分到着予定が台風の影響で11時間以上も遅れ羽田には翌午前3時39分、送迎デッキからはるか離れた特別エリアで厳戒態勢の中ファンの歓声もない未明の到着だった。

世界各地のビートルズ騒動で日本の警察は、ヘリコプター3機に羽田空港とホテル沿道警備に警官3万人を動員の厳重な警備体制を敷いたらしい。
ビートルズの日本公演は、昼・夜3日間の公演で、計5回。
アリーナ席にはお客さんは入れない!厳戒体制のビックり会場設営。
司会のエリックさんから観客は席を立ちあがることも禁止されたらしい。
7月3日午前10時43分離日までの18歳のドキュメント写真は
FUJIFILM NEOPAN SSとMINOLTA SR7。

高2時代の同級生女子にビートルズ命な熱烈ファンがいていろいろ教えてくれたけど、
ビートルズの関心が全くなかったのは僕だけ?だったのかな〜。

写真を勉強し始めた大学1年の夏、連日新聞テレビを賑わしていた北の丸武道館の周りにカメラ担いで好奇心スナップしていた時

キャー!

という嬌声がしたらやってきたパトカー先導のアメ車。

車種はわからないけど拡大したら2台目の左側に乗ってるのはジョン?みたい。
これがピンクのキャデラックかな?
このブログ書くため調べた結果、4人を乗せたピンクのキャデラック!だった。

The BEATLES Beatles in Budokan. ビートルズ 初来日 1966年6月29日 日本武道館 ピンクのキャデラック 撮影/西田圭介 ©NISHIDA Keisuke

日本でもこんな車走ってたんだ(^_^)/
ネガケースの撮影日は授業がなかった7月2日土曜の最終公演日。

武道館に入れなかった?同世代。

みゆき族とサイケの間だったのかな〜?ファッション疎いので分からないけど、この時代流行っていたのはなんだっけ?
残念ながらこの日マッシュルーム男子は撮れなかった。

The BEATLES Beatles in Budokan. ビートルズ 初来日 1966年6月29日 日本武道館 ピンクのキャデラック 撮影/西田圭介 ©NISHIDA Keisuke The BEATLES Beatles in Budokan. ビートルズ 初来日 1966年6月29日 日本武道館 ピンクのキャデラック 撮影/西田圭介 ©NISHIDA Keisuke
よく見ると当時のDJポリスも。

3カット目は7月3日(日)羽田にも行ったが、手前の駅で降ろされ
改札を出た道路封鎖中の羽田空港周辺で撮影。

フィルムはFUJI FILM NEOPAN SS。懐かしい。
カメラはMINOLTA SR7。

The BEATLES Beatles in Budokan. ビートルズ 初来日 1966年6月29日 日本武道館 ピンクのキャデラック 撮影/西田圭介 ©NISHIDA Keisuke

youTubeで見つけた当時の動画はこちら

1978年10月12日

「今世紀最初で最後、たった一度の“再放送”」だった

武道館公演を録画したVHSテープ紛失事件!

日本ビクター(現・JVCケンウッド)が1976年に開発した VHSビデオ規格のデッキは高価すぎて買えなかった僕が
1978年、奇跡的にVHSビデオテープだけ入手できた。

もちろん自宅のテレビで再生できたのは80年代に入ってからだった。

明け方の首都高速羽田線を走るイントロで始まる
1978年10月12日日本テレビ系21局『木曜スペシャル』
で放映されたビートルズ1966年6月30日の夜公演のVHS。

ようやくVHS機器が僕の周りでも持てるような時代になり、
ある日ビートルズファンの友人に貸したまま紛失?行方不明になってしまった。
というより誰に貸したかも今では記憶の外になってしまった。
どなたか僕の貴重ビデオが見つかったら返却お願いします。

『ザ・ビートルズ日本公演』1966年の日本武道館公演(6月30日〜7月2日)の7月1日の昼公演を日テレが同日21時から1時間番組でオンエアの視聴率は56.5%だったそうだけど、
僕はテレビも見ずに暗室にこもっていた。それは……。

 

本当なら名誉棄損で訴えるか?!

71年、東京ヒルトンにお忍び滞在中のジョンと小野洋子を撮影するため、ロビーで一晩中張り込みしていた早朝、

一瞬の睡魔に襲われた。

騒ぎで気がついた時二人は車で消えた後だった。
ホテルを出た後、右折か左折かも分からず前を走っていた他社のスタッフが乗るタクシーについて東京駅に行ってみたがいなかった。

翌週発売の女性誌を片手に編集長にが

「なんだ西田。お前寝てたのか」

と言われとっさに

「いえ、タクシーの運転手さんが見失いました」

「本当か?ここに君と××社は寝ていたと書かれてるぞ!本当なら名誉棄損で訴えてやろうか」

と言われ黙ってしまった。

ページトップへ

____________________________________________

7月14日はFête nationale française(フランス国民革命記念日)

1973年はポンピドゥー大統領

'74年に僅差で政権交代したジスカールデスタン大統領

二つのパレードと大事故、大事件とは

2017.7.14

今年は若きエマニュエル・マクロン大統領(La République En Marche! / 前進!)のもとシャンゼリゼ通りからコンコルド広場まで華やかな軍事パレードがあった。

1973年、初めてのパリで教わったことは7月14日は軍事パレード中心で、一番楽しいのは街中で繰り広げられる前夜祭だから必ず夕方までにパリに戻るよう釘を刺されてレンタカーを借りた。
横浜出発直前に運転免許を取得し、初ドライブがロワール河沿いのシャトー巡りに出かけた。
7月13日、市場で買い込んだハムやパンを持って一面麦畑の横でランチとなった。国際免許をもっていたのは初心者マークの僕一人だったので食後はコーヒーを飲みながら休んでいた時、同乗者のI君がちょっと運転させてと言ったのを許してしまったのが悲劇の始まりだった。
30分経っても彼は戻ってこなかった。 ロワール川で大事故発生!
パリ前夜祭に戻れない・・・ 詳しいブログはこちら

コンコルド広場に面したオテルドクリヨン前で突然ジェット機がトリコロール編隊でエトワール凱旋門からシャンゼリゼを経て頭上を通過するとパレードが始まった。
広場に集まったパレード見学の人々が手にしていた便利グッズが紙筒と鏡でできた潜望鏡タイプのパレードグラス。
これなら目前に大きな人がいてもオーバーヘッドで見学が可能だ!手にしているパレードグラスは持っておらず現場到着の遅れが災いして身動き取れず、パレードの写真はトリコロールのジェット機だけ。
今ならパレードグラスの変わりに自撮り棒とスマホだな。

時の大統領はジョルジュ・ポンピドゥー(UDR:共和国民主連合)で翌年1974年4月2日在任中に死去した。

1973.07.14 パリ祭 Fête nationale française コンコルド広場 撮影/西田圭介 1973.07.14 パリ祭 Fête nationale française コンコルド広場 撮影/西田圭介 1973年@コンコルド広場

1974年4月2日に急逝したジョルジュ・ポンピドゥー大統領の後任を決める選挙期間は短縮され、第1回投票日は5月5日、第2回投票日は5月19日とされ、5月5日の第1回投票で左翼統一候補のミッテランが首位となり、独立共和派のジスカール・デスタンは2位。首位のミッテラン候補が過半数を得られずミッテランとジスカール・デスタンによる第2回投票が5月19日に行われジスカール・デスタン(RI 独立共和派)がミッテランを僅差で押さえて当選した直後の7月13日に再訪した。
今年のマクロン大統領と同じ決選投票だった。

前年の失敗を犯さないよう夕食も早めに終え、前夜祭を楽しむため最初にチュールリー公園に出かけた。すごい人出だった。
同行者に「ここは世界中からスリが集まっているので懐中物は特に注意してください」と伝えた時はすでに被害者になっていた。
同じ頃、外務省の関係者も被害にあい公園内のゴミ箱を探していたら偶然に見つけた財布のIDカードで連絡を受け翌日財布だけが戻ってきた。プロのスリは現金だけ抜き取ったらすぐ草むらやゴミ箱に捨てることを知った。

1974.07.14 パリ祭 Fête nationale française  バスティーユ 撮影/西田圭介 1974.07.14 パリ祭 Fête nationale française  バスティーユ 撮影/西田圭介 1974.07.14 パリ祭 Fête nationale française  バスティーユ 撮影/西田圭介 1974年@バスティーユ広場

ヴァレリー・ジスカールデスタン(RI:独立共和派)大統領初の7月14日のパレードはバスティーユ広場からレピュブリック広場に変わった。上の写真はプレス席から撮ったものだけど昨今、世界の要人席に近い場所は最高レベルのセキュリティのはずだけどこの時代は大変長閑で仕事?でもないのに運良く閲兵する大統領とトリコロールの飛行機雲が撮れた。
今年のパレードに比べるとさすがにアンティークな軍事力。

この後レンタカーでアムステルダム経由で帰国する予定がチュールリー公園のスリ事件の余波でロンドン経由となり多くの死傷者を出した、あのロンドン塔爆破事件へとつながる7月14日だった。

Fête nationale françaiseは7月14日に設けられたフランス共和国の成立を祝う日で Quatorze Juillet(7月14日)とも呼び、1789年7月14日に発生したフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃事件の一周年を記念して翌年1790年におこなわれた建国記念日 (Fête de la Fédération) が起源となっている。
ルネ・クレール監督の映画 Quatorze Juillet(7月14日) の邦題を映画を輸入・配給した東和商事社長の川喜多長政たちが『巴里祭』として公開(1933年)しヒットしたため日本ではこの日をパリ祭と呼ぶことが多く、長政の妻・かしこさんによると「パリまつり」と読むそうだ。
「巴里祭」「パリ祭」が『歳時記』夏の季語となっているとはびっくり。

ページトップへ

____________________________________________

香港が英国から中国に返還されてもう20年 

1983年9月8日、K2香港社員旅行を直撃した

超大型颱風 ELLEN(愛倫)の話

2017.7.1

K2(ケーツー。先日亡くなった長友啓典さんのデザイン事務所)の香港社員旅行に初参加した。

啓徳空港に近づくと機内アナウンスで気流の乱れがあるためシートベルト着用のお願いがあった。
左右にグラグラ揺れながら着陸態勢に入り、窓外のヴィクトリアハーバーに面したビルと同じ高度になったとき突然ジェットコースターのように無重力状態を感じた。

高度も低く長くス〜〜〜ッと2度ほどあった。
ゾッとした。
その直後にランディング!

思わず機内中が拍手喝采で喜び合った。
搭乗ブリッジのない沖止めスポットに飛行機を駐機したみたいで、長い時間機内で待たされたのち全員に傘とビニールカッパが支給され豪風雨の中タラップを降りてバスで移動した。

ホテルに着くまで悪天候ぐらいにしか思っていなかったが、TVは20年ぶりの巨大台風が香港を直撃するみたいなことを一晩中キャスターが気象図を見ながら説明していた。
あのランディングが台風に向かっていたことを知っていたら涙が溢れたはず。
ホテルサイドからも外出禁止を言われ楽しみだった夕食の記憶は全く無く、コンシェルジュにカードを頼んで一晩中大貧民で盛り上がった。

830908 K2香港旅行 台風ELLEN 成田出発ゲートの予報は曇り時々小雨程度だった
1983 颱風 愛倫 (Typhoon Ellen) 風暴消息 2/4
經典回憶-1983年颱風愛倫襲港,十號風球


台風一過の翌日のTriXをフィルムDigiコンで一部画像化したNathan Rd,。

1983.09.08 香港 颱風 愛倫 (Typhoon Ellen)

真ん中はてんこ盛りの豆もやし、
上下は倒壊した竹製の足場や街灯。
何が驚いたって高層ビルの足場がバンブーだったこと。竹製のおかげでけで二次災害が少なかったのか?
9月9日午前7時頃に香港に最も近づきホテルの入り口は早朝から飛んでくる看板などの為?警察車両がついて厳戒態勢だった。

1983年9月8〜9日の颱風 愛倫 (Typhoon Ellen)は8月29日熱帯低気圧として発生し、ゆっくり移動した最強の風台風で中心気圧928 hPaで瞬間最大風速285 km/h(79.17m/s)だったらしい。日本の過去最大風速は1942年4月5日富士山の72.5m/sで唯一の70代。
スタンレーで記録された最高突風は134ノット。

死亡者:10名
負傷者:333名
行方不明者:12名
船舶損傷:404
降雨量:347㍉は1884〜2002歴代5位。1位は1926年534㍉

水害の損害は1億8,000万香港ドル、工事現場での損害は9,000万香港ドル、救助および修繕では2千万香港ドル。約1万人の農民が被災、300匹の豚が洪水で溺死。作物と家畜の損失総額は5,000万香港ドル。

唯一の救済は、エレンが貯水池にもたらした水が3200万立方メートルでハイランド貯水池は1978年の完成以来初めての満杯。香港の17の貯水池のうち、11が満タンになった。

啓徳空港は離着陸が難しいのにあんな悪天候で決行したのはどこのエアーだったのか?
無事だったからよかったがこの天候でのランディングは自殺行為に近いパイロットは曲芸師?

このブログを書き始めた時に届いた
追悼!「長友啓典」特別展 のお知らせ。

会期 7月28日(金)〜29日(土) 11:00~19:00
会場 ギンザ・グラフィック・ギャラリー
主催 公益財団法人DNP文化振興財団

長友さんのご冥福を心よりお悔やみ申し上げます。合掌

ページトップへ

____________________________________________

G7 サミット2017が27日閉幕

グランブルーなタオルミナで

地球温暖化対策が難航

2017.5.28

米国の地球温暖化対策の「パリ協定」離脱検討で議論が難航し、気候変動の見直しでは理解を示す一方、米国以外の6カ国は協定履行決意を再確認。離脱の是非は来週結論を出すとトランプ米大統領の談話をニュースが報じ、街は7つの国家元首とそのスタッフ、他の13の代表団、4000人のジャーナリスト、10,000人の警察、軍隊と治安部隊が集結し、タオルミナ市街地は全てレッドゾーンに指定され、街中の23ある4つ星と5つ星ホテルは全て、G7代表のため正式にブロックされたらしい。

青から蒼、そして碧へ 映画「グランブルー」リュック・ベッソン監督に出会って以来、タオルミナの蒼い妄想にとりつかれていた。
まさかあんな小さな町で先進7カ国首脳会議が開かれるとは思わなかったが、写真は2011年この海と空のBLUEを撮りに訪れタオルミナでAVIS借りてフェリーで本島のアマルフィー、ソレント、カプリ、ナポリを経てローマまで久しぶりのロングドライブだった。

タオルミナやカプリのような旧市街地は特に道幅が狭くセンソユニコ(一方通行)がやたらと多くカーナビが今ほどなかった当時ホテルのマップだけで運転するのは無謀だった。
狭くて坂が多いこの町でワーゲンの中型車を借りた初日、センソユニコに面したホテルに戻るため大きく迂回する唯一の曲がり角を1本手前で誤って左折した。

そこにポリスがいたため大声で

「ホテルに行ける道か?」

質問になにも応えてもらえなかったのでそのまま急坂をのろのろと降りてしまった。
多分インチキなイタリア語が通じなかった結果。100メートル以上下がったところで坂を登ってきたマダムが怒った顔で人差し指を左右に振りながら

「ノ〜ッ、NO、ノー!」

やばい逆走だ。

しかも坂道でマニュアル車。慌ててサイドブレーキを引いてギアをバックにするも道幅と車幅がほぼ同じだ。
後方左右のナビゲーターを家族に頼んでアクセルふかしながら左サイドギリギリで登り始めたがなかなかうまくいかない。もたもたノロノロ登り始めると目の前に赤い軽自動車が登ってきた。
クラクションも鳴らさず登り終わるまで付き合ってくれた。

大感謝!グラッェ!

必死の思いで大きな通りに戻った時、あのポリッツアイから交通違反切符を切られる事はなかった。

タオルミナ Taormina 撮影/西田圭介 絶壁に立つオーシャンビューのホテルの先にエトナ山

初日の26日夜、ミラノ・スカラ座の管弦楽団のロッシーニ「ウィリアム・テル」を聴いた紀元前3世紀の石造り古代ギリシャ劇場遺跡。天然の地形を活かしたシラクーサに次ぐ2番目の大きさ。

タオルミナ Taormina 古代ギリシャ劇場遺跡 撮影/西田圭介 隅々までクリアに生音が届く野外円形劇場

レンツィ前首相がサミット開催地にタオルミナを選んだのは、マフィアの本拠地と思われがちなシチリア島のイメージを払拭したくマフィアの得意な脱税やマネーロンダリングも討議されたようだ。

BELMOND VILLA SANT'ANDREA 撮影/西田圭介

タオルミナ市内を楽しむなら市内か崖際ホテル。写真の海沿いのヴィラ、BELMOND VILLA SANT'ANDREAは車がないと超不便ですがリゾートならではの庭の植物や景色など素晴らしい貴族の館(1830年代の建物)でオススメです。

ページトップへ

____________________________________________

15日未明に衆院本会議で成立した

IR推進法案ニュースを見て

スロットマシンしか触った事がない僕が

取材した2005年世界3大カジノ話を思い出した

2016.12.17

1

初カジノ取材が2005年7月。羽田で知人の奥さんと出会ってしまうほどの韓流ブームの最中、ソウル東部に位置する外国人専用カジノ「パラダイスカジノ・ウォーカーヒル」にスポーツライターの金子達仁さんと行った。

Straight, 2005年 扶桑社刊

 

2

翌週には、編集&カメラの兼務で、ラスベガスの最高級ホテルの代名詞といわれる「ベラッジオ」、「ミラージュ」「トレジャー・アイランド」など所有していたホテルを商売敵の「MGMグランド」へ売却した利益で、自分の夢のため史上最高のリゾートホテル&カジノを5年の歳月を費やし自身の名を冠したホテル「ウィン・ラスベガス」をオープン(4月)させた、スティーヴ・ウィン(Steve Wynn 1943年生まれ)日本初の単独インタビューに出かけた。

写真嫌いの噂は事前に聞いてはいたが現地で秘書から「彼の部屋に入れるのはインタビューアー、一人だけ。撮影もNGです。取材時間ももしかしたら15分ほどになってしまうかもしれない。申し訳ないけど」 と言われ約束とまるで違う話で真っ白になった。

スティーヴ・ウィン(Steve Wynn 1943年生まれ) Straight, 2005年12月号 扶桑社刊

ホテルのオーナーは小説家と違ってロマンティックな世界を現実に作り出すことができるディべロッパーで、ラスベガスは『投資すること』『エンターテインメントを作ること』『リゾートを開発すること』の3要素を実現できる最高の場所と語るだけあって、アプローチの樹木や館内の花、併設のゴルフ場、18もあるレストラン、客室、メインプールのガゼボ、プロジェクションマッピングという言葉もない時代に中庭に作られた人工湖で毎晩楽しめる映像と光と音楽と水の幻想的なショー Lake of Dreams ‥‥‥。どれもが桁違いのラスベガスだった。

ウィン ラスベガス Straight, 2005年12月号 扶桑社刊


ホテルに自分の名前をつけることは傲慢ではないかと思い、友人に意見を求めた結果、スティーブン・スピルバーグは自分の名前をつけることにそんなに神経質にならなくてもいいんじゃないか?自分の名前で行けよ!。

ドナルド・トランプは「どんな名前をつけても、どうせ”スティーブ・ウィンの”って冠がつくんだよ。それなら最初から使ってもいいんじゃないか?僕は”トランプタワー”と名付けたおかげで、随分と得をさせてもらったよって言ってくれたそうだ。

インタビュアーとの会話が予想以上にはずみ1時間近く経った時、アンディ・ウォーホルの作品が両サイドにずらっと並ぶ秘書室の一番奥の部屋に突然招き入れられ撮影開始。

6カット目のシャッターを押した途端「もう十分だろう」と言われた。

その直後に唯一のリラックスした笑顔をすかさず撮った7カット目。

撮影時間1分足らずで無事終了。

※「ウィン・ラスベガス」が建てられた場所は、西海岸を目指していたポパイ少年時代の1979年に初めてラスベガスに泊まった「デザートイン」の跡地だったのも縁だったのか。

ウィン・ラスベガス スティーヴ・ウィン(Steve Wynn 1943年

生まれ)日本初の単独インタビュー Lake of Dreams Straight, 2005年12月号 扶桑社刊

※こちらは当時単独インタビューが許されたVanity Fair誌 june 2005の記事と、2016年CNNのインタビュー動画。

 

3

同’05年11月、フランス南西部バイヨンヌに初海外写真展で訪れていた際、スペイン人の夫婦に誘われて牡蠣を食べに行った隣町の「ビアリッツ」にもなぜかカジノがあった。

カジノ バリエール ビアリッツ Casino Barriere de Biarritz
Casino Barriere de Biarritz. カジノ バリエール ビアリッツは中段写真の右手の白い建物


ヴィクトル・ユーゴーに「私はビアリッツより魅力的でより素晴らしい場所をおよそ知らない」と言わせた静かなバスク地方の海辺の町。世界各国から若者も多く集まるサーフィン発祥の地としても知られ、19世紀に皇帝ナポレオン3世が王妃ウージェニーのために離宮を建てたリゾート地。

オフシーズンだったのか大会議室には積み上がった椅子だけ。夜だけオープンのカジノは人の気配全く無し。 二度目に訪れた’08年のクリスマスの時も街の人や観光客もバスク料理を食べ食後の散歩を楽しむバスクスタイルに合わせていたらカジノに行き忘れた。

ニュースによるとMGMリゾーツ・インターナショナルのジェームス・ムーレン会長・最高経営責任者(CEO)の試算では2022〜2023年に日本に第一号の統合型リゾート(IR)が開業できればIR投資規模は最大1兆円の可能性もあるらしいが、僕が見た韓国レベルではカジノファン以外は行かないと思う。

大阪のIRイメージイラストの中身は知らないが、シンガポールのマリーナ・ベイ・サンズのインフィニティー・プールもそろそろ飽きられる頃?だし、周回遅れのIRでエンターテインメントの質は?カジノ一つではただの箱。人気は長続きするのか?疑問だらけだ。

日本人が忘れている風情や伝統の技を伝え提供できるおもてなしの仕組みが2020年東京オリンピックまでに少しでも増えますように!

 

日本でのカジノ合法化を目指す法案名がメディアごとに違うのはなぜだろう
「カジノ解禁法」?
「カジノを中心とした統合型リゾート(IR)整備推進法案」?
「カジノを含む統合型リゾート(IR)を解禁する法案(IR推進法案)」?

ページトップへ

____________________________________________

三笠宮崇仁親王殿下を迎えて開催された

第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」で

亡父が宮様の先導に

2016.10.27

三笠宮崇仁親王殿下は平成28年10月27日午前8時34分、心不全のため100歳で薨去(こうきょ)されたニュースを見て古いネガを探した。

高校・大学時代に三笠宮さまを撮影させていただく経験が3回あり、最初は高校の写真部時代。昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」を後楽園(品川?)アイススケート場で恐れ多くも宮様を先導する大役を任された父の撮影だった。

昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」 当時のテレビカメラ今のスタジオカメラより小さい?

日本テレビ 昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」 ブラウン管って意外に丸い

昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」 タイをしめている三笠宮さまの前を滑る父

なぜ先頭に立つことになった経緯は完全に忘れたが、高校入学祝いで買ってもらった一眼レフカメラMINOLTA SR-7、レンズはAUTO ROKKOR-PF 58mm f1.4と級友に借りた望遠レンズと三脚を抱えてリンクに行った。

フィルムはSAKURAのKONIPAN SS。ブラウン管時代のテレビ録画のおかげで照明が明るくSS感度でもあまりブレることなく撮影できたのかも。

後日放送された日本テレビでは

主催:日本レクリェーション協会、読売新聞社。

後援:東京都教育委員会、日本スケート連盟、日本フォークダンス連盟、大学スケート研究会。

主管:日本氷上フォークダンス普及会とクレジットされている。

日本テレビ 昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」

昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」

昭和40年12月2日、三笠宮崇仁親王殿下を迎えた第一回「氷上フォークダンス・カーニバル」 後ろを気にしながら滑っているのかしら

三笠宮崇仁親王殿下は大正天皇の第4皇男子で天皇陛下の叔父にあたり、皇位継承順位は第5位であられた。オリエント史研究では皇族として初めて大学の教壇にも立ち、テレビでも講義するなど「学究肌」の一面を持たれ、気さくなお人柄で国民と皇室との架け橋になられ、戦後の日本を平和で文化的な国にするためレクリエーションやダンスの普及に取り組まれ、氷上を滑りながらフォークダンスを楽しむスケートフォークダンスの生みの親でした。

宮家に近い方が数名で食事会を開いた時、記録写真係としてその後2回お会いした。この時の写真はネガ、コンタクトシート、プリントともに依頼者にお渡ししたため手元には残っていないが、駆け出しカメラマンが失敗せずに撮影できたのは周りの方々を緊張させない温厚で細やかな三笠宮さまでした。

亡父のプロフィール(1976年のメモ)によると、趣味のスキー・スケート・水泳いずれも公認指導員。東京都、杉並区体育指導委員を経て、杉並区体育会理事長として社会体育振興に従事していた。おかげで僕は小学生の頃からスピードスケートやスキー(トニーザイラーや猪谷千春選手とも滑った ^_^/)を習った。

ページトップへ

____________________________________________

 

写真の家庭教師

もっと楽しく!いいね!を撮ろう

もっと楽しく!いいね!を撮ろう 写真の家庭教師 ハピポ®  西田圭介 写真が上手くなるコツ 写真撮影が上達するヒント PHOTO TUTOR 公益社団法人 日本広告写真家協会 正会員 日本写真著作権協会 会員 協同組合ワイズ総研 顧問  
もっと楽しく!いいね!を撮ろう

写真の家庭教師

____________________________________________

 

わかる!

いいね!をかなえる

ビジュアル コミュニケーター!

 
当サイト掲載の全コンテンツは著作権法により保護されています。

contact us : nao1.com.info(at)gmail.com  メールアドレスの(at)を@に変更してお送りください。