インターネットも
クレジットカードも無い1973年、
バックパックとニコンFで
格安世界一周 写真旅
1973.07.05. ウィーン→パリ/Hotel
ウィーンから夜汽車でついにパリに入った
朝からパリ東駅の両替は大行列
カタカナ仏語では全く通じない!
12時JALオフィスの待ち合わせに間に合わない。
フランス留学していた友人の妹、RT嬢にパリの安宿を手配してもらっていたが7月1日よりバカンスに出かけるので6月中に到着出来ると有り難いとの手紙を日本出発直前に受け取ったが、パリ入りのスケジュールが決まらずにいたためウィーンから学生寮(foyer)?に国際電話をした。
六ヵ国語会話集の電話編にあったフランス語
「アロー セ マドゥモアゼル RT ? セ ムッシュー ケイスケ ニシダ キ ヴ パルル。ジュ デジール パルレ アヴェック マドモアゼル RT」これが全く通じない。
電話口の向こうで何か大声で言っているが全く分からん。英語で言い直してみたが全くだめだった。何度も同じ事を言い続けたが時間だけが過ぎて行く。
通話料が心配で困ったが会話集に「日本語の話せる人を出してください」というのがあった。
「ジュ デジール パルレ アヴェック ケルカン キ パルモ ジャポネ」おっとー!何か反応があった。
電話の向こうで何か騒いでいる。しばらくすると日本語で女性が出た!
「RTさんは今出かけています」
良かった!早速彼女に伝言をお願いして26日東駅に着くのでお昼にJALのパリ支店で会う事にした。
第二外国語はドイツ語のためフランス語の読み方すら分からない。カタカナを読むだけでは全く通じない事が良く分かった。後で学んだ事だがドイツ語、イタリア語やスペイン語は結構カタカナで巧くいくし、値段を聞くだけなら関西弁が一番通じた
「おっさん!これなんぼ?」これは中東でも何とかなった。
朝の東駅は通勤客で結構にぎわっていた。しかも両替商の前は長蛇の行列だったので銀行を探したが見つからない。駅の外も探してみたが見つからずシャンゼリゼまで歩いて行くにも地図が無い。
仕方無しに駅に戻って並び直して、ようやくフランを入手出来たがメトロの乗り方が分からない。人の後に着いて行くと大きなメトロの路線案内板があった。親切にも全ての駅名ボタンがあって行きたい駅名ボタンをを押すと乗り換え駅名と路線が地図上のランプが灯るのでとても分かり易かった。
が、読み慣れないフランス語のため駅名が頭に入らず親切な案内版が何カ所も付いているのに目的のホームに行けず途中から引き返して路線案内図に戻る事数回でメトロに乗れた。フランス語は難しい。
RT嬢の手紙によると、パリのホテルは星で区別されていて一番安いのが星無しで2人部屋なら20フラン(1200円位)。一つ星だと1..5〜2倍でその上は四つ星までありますが一つ星ぐらいがちょうど良い値段で部屋も清潔です。星無しの部屋はあまり清潔ではなくドアもあって無きが如くです。予約するにも何日〜何日までと連絡頂ければ予約し易いです。
サクレクール寺院にたむろするヒッピー達
1973.07.06. パリ
パリは歩いて回ろう!
エトワール広場の凱旋門から東のバスティーユ広場まで東西6キロ。
北の高台モンマルトルから南のモンパルナスまでおよそ5.5キロ
横浜を出発してあっという間の1ヶ月でパリに到着。
真っ先に日本航空パリ支店に郵便の受け取りと日本語シティーマップと面白情報収集に行った。
シャンゼリゼに面した支店はエールフランスの店舗に負けない立派な路面店だった。場所を確認するために検索したが出てこない!
JAL再建後?のヨーロッパにおける路面店は現在ロンドン支店だけのようだ。全てはメールと電話対応らしい。その分HISパリ支店があるから何とかなるのかしら・・・
パリの街はシテ島を中心に西のエトワール広場の凱旋門からフランス革命発祥の地となった東のバスティーユ広場まで直線でおよそ6キロ、パリを見下ろす北の高台のモンマルトルからセーヌを渡って南のモンパルナスまでが直線なら5.3キロ程度なので二日ほどで歩いてみた。
パリのメトロは網の目のように張り巡らされとても便利な乗り物ですがパリほど歩いて回るのが楽しい街は無いと思う。各地区ごとに街の表情が変わり人々の暮らしも異なりカフェの雰囲気も違う感じだった。どこの国どの街でも徒歩ならば思い出のディティールもしっかりするはずです。
宿の一つ星ホテルはパリ市庁舎の近所だったためどこに行くにも 便利だった。
ホテルの北側はレアール地区の再開発であちこちで工事が進んでいた。一つは77年に開館したジョルジュ・ポンピドゥー国立美術文化センター、 もう一つはパリの台所と呼ばれた市場が巨大なモールになったフォーラム・デ・アール。
ポンピドーセンター近くのrue de cloitre saint merri通り。工事の仮囲いにも道路名が付いているため迷子にはならない。
巨大に掘り下げられたフォーラム・デ・アール再開発現場。
パリの再開発は真っ黒だった建物の洗浄なども同時に進められ、21世紀のパリはすっきりしすぎてしまったのが残念!
ノートルダム寺院も奇麗になった代わりに安全ネットが張り巡らされてしまったがセルフ写真はネット無し。ノートルダム寺院の石像の肌触りは時を超えた感触。
パリには産經新聞社とフジテレビの支局があり面白情報を仕入れにお邪魔したが外信部の記者は政治経済のスペシャリストで柔らかネタはあまり多く入手出来なかったが、政治家をはじめVIPがパリを訪れる時にマッサージをしていた藤本茂勝さんを紹介された。
モロッコで最後の手術をする直前のカルーセル麻紀さんのフルヌード撮影記など・・・近日UP! 乞うご期待。
1973.07.07. パリ・ポンヌフ
パリ発 スクープ第2弾!
マドモアゼル カルーセル麻紀
最終オペ直前 緊急特写ヌード
カルーセル麻紀さんがパリに来た最大の目的は、完全な女性になるモロッコ・カサブランカのDr.ブロウに最後のオペを受ける準備で日本では入手出来ない最新情報をパリ在住のブルーボーイ達から直接聞くためだった。
二つ目が銀座のクラブ青江がパリに出店(5月7日オープン)するためママさん役で4月に渡仏した。最初はフランス人相手の店として日本調でスタートしたが、フランス人は堅実な人が多く、会計がパリで一番の高さを誇るエッフェル塔よりも高いとクレームが多かった。7月の時点の来店数は日本人8:フランス人2のため内装を銀座のお店調に変更し、日本髪と着物だったものをほぼ洋服に変更したそうだ。
「日本人はお金持ちで神様!フランス人は××だ」が結論だそうだ。
先ずは語学習得のためスタッフ4人とアリアンス フランセに入学。パスポート名で申し込みしたため初日の授業で「ムッシュー ヒラハーラ」と呼ばれたので日本語で「あら〜 イヤダ〜〜っ」先生はあわてて「マドモアゼ〜ル」言い直していたが日本人学生は大爆笑で全く授業にならず、カルーセルさんは1日で登校中止。その後頑張ったスタッフも最長1週間で止めてしまった。学校で習う言葉はお店では通用せず、ベッドで習ったフランス語はけんか用と悪い言葉ばっかりだが、英語とチャンポンでジョークを言えるようになったと言ってました。
パリの街にとけ込む美女。愛犬ギャルソンと一緒にホルモン注射にお出かけ。
たった2ヶ月でフランス男には不自由しないほどモテまくったが、男は日本男子に限るそうでモテ度は日本にいた時の10倍。好きなタイプは髪は黒く、日焼けした背の高いガッチリタイプだそうだ。
パリに来て文化の違いに困った事は食事に誘われて一緒に行く事は・・・と言う事を知らずに最初は随分困った。
日本人はしつこいが、フランス男のアプローチはもの凄いそうだ。語学はともかくパリのブルーボーイのショーを見て研究したりオペを実際に受けた彼らからの情報収集の毎日。パリには60軒近くもゲイバーがあり撮影にも協力いただいたパリ1番のブルーボーイ、ローラ・シャネル! とても奇麗でグラマラス。何でもピンクにするアパレル界の有名人に借りたクラシックカーのモーガンで。
取材中にも紀伊国屋書店創業者の田辺茂一さんがぶらりと入ってきた。
rue de Madridにあったメゾンのワンフロアーを借りてさくらさん、よしみさん、ケニーさんと愛犬ギャルソンと共同生活。この部屋でヌード撮影をさせていただいた。
一人で撮影にお邪魔するのが少々心配だったため、撮影助手に外資系広告代理店を退社して長期新婚旅行中で藤本さんに紹介された葦原泰二(あしはらたいじ 現4コマ漫画家)さんに手伝ってもらった。
パリの部屋は一般的に暗いのでfnacで購入した照明用フラッドランプの500ワットを持ってお邪魔したがなんと日本で使っているタイプと同じを買ったために古いパリの照明器具には全く合わない事を始めて知った。今時の万能コンセントのような優れものも無い時代だったので窓際の自然光で撮影!
撮影途中に外を見ると初老のムッシューが向かい側の窓からこちらを凝視していた。カルーセル麻紀さんはとても素敵だった!
週刊サンケイ1973年9月7日号より
1973.07.10. パリ
ジャポネ・マッサージが大人気
パリジェンヌの全身美容をめざした
藤本茂勝さんのPARISレポート
「美の変身師」とか「美人製造師」とパリジェンヌの間でジャポネ・マッサージの藤本茂勝(29歳)さんは評判を呼んでいた。パリジェンヌの悩みのタネは腰と太腿のぜい肉。それを取り除いて、細くスッキリ、たおやかな肢体を復元させる施術の人気が高かった。内容は海草バスの水泡マッサージ、高水圧の水道水によるマッサージ、そして指圧のジャポネ・マッサージの3ステップ。
エステと彼は言っていた記憶があるが、当時の日本語には該当するものが無いので全身美容と表現したが、エステの世界もその後進歩し世界的に広がりをみせている。
手元に残っている資料によると、このお店はパリの都市再開発地区のラ・デファンスの中にあるクールブヴォアの商業ビルの中にあった総合美容センター「L'institut BONNET」でMassage Japonaisが人気で30分で35フラン(2380円)、高水圧のDouche au jetは5〜8分で15フラン、海草風呂Bain bouillonnant et/ou douche sous-marineは20〜30分で35フラン。現在はカルフールのモールになっているみたい。
昼は美容師、夜は日本からのVIPのためにホテルへ出張指圧の毎日で、大使館を通じてO大臣をはじめ商社のお客様やパリ在住のセレブがお客様で忙しいスケジュールをこなしていた。日本で美容師と指圧の免許を取得後1970年に渡仏し、女性を美しくする全ての方法を身につけたら日本に全身美容の学校を開くのが夢と語っていた。
1973年 週刊サンケイ掲載
藤本さんの紹介でパリで活躍する多くの方々をに出会え、取材に弾みがついた事に大感謝!
1973.07.11. パリ・ムフタール
フランス唯一の工芸協会で
現在でもたった一人の日本人正会員
ビジュー作家 一森育郎さん
フランス工芸作家協会(La maison de metier d'art françaiseは陶器、アクセサリー、彫金ほか)の正会員の日本人は現在でもIKUOさんしかいない。
1968年に渡仏しパリ南部ロワール河添いのツールのフランス語学校に入学。普通はパリのアリアンス・フランセに通うのが定番(カルーセル麻紀さんも)だがツールのフランス語学校はフランスで一番標準的な発音を学べるので有名、しかも日本人が少ないので語学に集中出来る環境が良いそうだ。
6ヶ月ほどで日常会話に不自由を感じなくなったためパリ大学に入学し、間もなくパリ彫金界の重鎮Madam Lola Prusac(マダム ロラ・プルサック)に認められ彼女のブティックに作品を並べてもらえるようになり作家としてスタートを切る事ができた。当時の日本ではアクセサリーの歴史が浅くアクセサリーを身につける習慣も少なかった。パリでは数多く接する事ができ市場ができているため当分はオリジナルティーを大切にしパリで制作を続ける予定とのこと。現在もIKUO PARISブランドでパリにブティックを構え日本や世界に作品を販売。
取材で聞いた印象的な話に地方出身の学生や若者がパリ生活をスタートする時、家賃が安いアパート最上階の屋根裏部屋が一般的だそうで、トイレやシャワーが共同の屋根裏部屋といっても天窓や小窓から見える風景は日本のアパートから見える風景に比べれば相当素敵に感じた。
友人の輪が広がり始めホームパーティーなどへのお誘いがあると、次回には招待者を自宅にお呼びするのがフランス流エチケットらしい。だから屋根裏住まいの人は同じような境遇の人としか交際範囲が広がりにくいと教わった。
なんか見えない差別のようにも感じたが、実際ムフタールにあったアトリエ兼自宅は結構広く在仏大使館やブランドショップの方々を招いてのパーティーも撮影。これからは友人を招き入れることができる住環境を心がけようと確信した。
モノクロ写真は1973年撮影した同じ場所で2004年に「IKUO PARISカレンダー」用にカラー撮影。映画「赤い風船」の舞台はすっかり奇麗になってしまった。
1973.07.12. パリ→アゼルリド/Hotel
横浜出発直前に運転免許取得
初ドライブがロワール河沿いのシャトー巡り
2日目、麦畑でランチ後の休憩中に大事故勃発!
13日のパリ前夜祭までに戻らないと・・・
渡欧直前に運転免許証を取得したため国内の運転経験はほとんど無く横浜を出発した。
レンタカーを借りて初ドライブがパリ→シャルトル→ロワール河沿いのシャトー巡りでアゼルリドまでドライブした。車はルノー・サンク(写真RENAULT 5)、駐車場で運転席に座ったが見た事も触った事も無い変速機でギアチェンジの方法を聞いてびっくりした。なんとギアレバーに着いているグリップを押し込みながら反時計回しだとバックとか引きながら時計回しすればローギアに入ると説明を受けた。
教習所通いもせずいきなり試験場で受験し交付された免許証なので地下の駐車場を2〜3回ぐるぐる回ってから表に出た。
旅行費用を安くするためパリで知り合った日本人の女性二人とバイカル号以来の男の4人で出発した。東京では40キロ以上出した事がない初心者だったがうまい事高速道路に入ると周りの車が速いためいつの間にか時速70〜90キロで走っていた。村の入り口にたまに減速度表示があるだけでフランス人は凄いスピードで走っていた。
安全運転を心がけてアゼルリドで決めた宿はとても快適な宿で安価な割に清潔で料理もとびきりうまかったた。結婚後子供が3歳になった時、家族で改めて訪れたほどお気に入りの宿グランドモナークであった。
翌日の帰路は市場で買い込んだハムやパンを持って一面麦畑の横でランチとなった。国際免許をもっていたのは初心者マークの僕一人だったので食後はコーヒーを飲みながら休んでいた時、同乗者のI君がちょっと運転させてと言ったのを許してしまったのが悲劇の始まりだった。
30分経っても彼は戻ってこなかった。
小一時間ほど経った時麦畑の彼方からゼイゼイいいながら走ってきた。
「畑の横を走っていたら、正面に幼稚園児の集団が散歩していたので事故を起こしてはヤバイと思いハンドルを右に切ったら車が河に落ちた!」一同え〜〜〜っ!絶句。
「どうにもならないので走って戻った」
「そこは何処?連れてって・・・」20分程歩いたロワール河沿いの小道は一条の歩道があるだけで車が入る道ではなかった。
周りは大きなお屋敷だったが金網が張られ家は遥か彼方にあった。車の右頭が完全に下を向いて自力での脱出はどう見ても不可能だった。その時お屋敷の方から一人の老人が歩いて来たが、フランス語なので全く分からないが「ポリツァイ」と聞こえたのでこちらも身振りも含めて「テレフォン、テレフォン」と応えたらムッシュは屋敷の方に戻った。
しばらくすると警察に電話をしてくれたみたいで警察官がやって来て何か色々フランス語で言っていたが30分もすると小型のレッカー車が来てくれた。レッカー車とルノーをワイヤーで結んで引っ張っても全く動かなかった。様々な方法でトライしたお陰で車は歩道まで上がったが左後輪のタイヤが裂けてしまったので草むらの中でスペアタイヤに交換し警察まで移動したが全くフランス語が分からず僕らの英語は彼らに通じず、何か通じたのは今日中にパリに戻らないと駄目だという事だけだった。
明日は「Quatorze Juillet(7月14日)」日本で言うパリ祭だと言う事で無罪放免となったのかしら?
しかし悲劇はまだ続いた。パリに向け夕方警察から走り出すとスペアタイヤがパンクしてる感じだったのでガソリンスタンドを探すがなかなか見つからない。かなり走ってようやく見つかったスタンドはもう閉まっていた。
スタンドの裏に回ると家族が食卓を囲んでいたが思い切ってノックした。スタンドのおじさんは食事が終わるまで待てと言ってくれパンクの修理をしてくれた。大感謝だった。
パリの友人達が前夜祭のパーティーがあるので夕方までにパリに戻るように言われていたがスタンドを出たときは真っ暗の9時過ぎ、当時のフランスはパリと言えども街路灯は少なく信号が暗くて見にくいのが大変だったが真夜中に無事パリまで戻れた。神にも大感謝の初ロングドライブなり。
1973.07.13. アゼルリド→シャルトル→パリ/Hotel
1973.07.14. パリ「Quatorze Juillet」
今日は「Quatorze Juillet」7月14日
パリ祭の始まりはトリコロールのジェット機編隊
ロワール河の大トラブルを超えて真夜中にパリに戻り、オールナイト・パーティーを楽しんで朝からコンコルド広場に面したオテルドクリヨン前でパレード見物。ホテルは現在リノベーション中のためオープンは2015年。
突然ジェット機がトリコロール編隊で頭上を通過するとパレードが始まった。
その頃広場に集まったパレード見学の人々が手にしていた便利グッズが紙筒と鏡でできた潜望鏡タイプのパレードグラス。これなら目前に大きな人がいてもオーバーヘッドで見学が可能だ!未だに日本では見ないのは何故かしら?
右端の浜野明子さんはカルーセル麻紀さんの撮影助手をお願いした葦原さんの奥様で長期新婚旅行中に知り合った。帰国後フジテレビのお化け番組「ひらけ!ポンキッキ」「ポンキッキーズ」の作家として大活躍。
210818 FBより
1973年初めてパリを訪れた時パリ三越でもらった地図がおよそ半世紀後のFBでポップアップした。
フランス語は学んだこともなく、通訳のアレクサンダー・フォン・シーボルトが随行していたパリ万博を視察した渋沢栄一には遠く及ばない語学力(ディス カルネ シルブプレ)でパリのメトロを縦横無尽に使って取材した。
わかる!
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ビジュアル コミュニケーター!
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