インターネットも
クレジットカードも無い1973年、
バックパックとニコンFで
格安世界一周 写真旅
1973.05.31~06.01. モスクワ11:30→レニングラード→ヘルシンキ/YH
ソ連側の長い森林ボーダーを抜けると
車内から一斉に拍手!!!
なぜか心が明るくなった
モスクワからレニングラード(サントペテルスブルグ)経由で翌朝ソ連側最後の駅で出国手続き。
出国手続きというよりも検問だった。
持ち出し禁止について、おなじみインツーリストのガイドには、
●世界の、諸民族の、そしてあらゆる時代の絵画、彫刻、版画の名作。
●イコン(聖像画)および、その他の教会用品。
●歴史的、学術的および芸術的価値のあるロシア語と外国語の草稿、肉筆本、16~17世紀のソ連邦民族の出版物、17~18世紀のロシア版画、、装丁技術の名作限定版装丁・・・。
●吹奏楽と弦楽の名器、『ステンベイ』『ベッカー』・・・の諸会社のピアノとグランドピアノ。
●金貨、銀貨、銅貨そのほかの古銭、金属その他の印判、勲章、メタルその他の表彰章。
通貨ルーブルの持ち出しも出来ないと言われ両替所で交換するようにいわれたが1ルーブルを記念に靴下に入れた。
駅に着くと銃剣を持った兵士と出入国管理官らが乗車してきた。ナホトカの下船時より厳しく車両通路のカーペットの下に銃剣の先を入れて裏側まで全てチェックされ、長時間の手続きが終わると列車は動き出した。
バリカンを掛けた跡の深い森に線路が敷かれ、自由に向かって黙々と列車は走った。国境通過の初体験だった。
この先に自由が!国境を通過。
濃い針葉樹の森を抜けるとすかっとした野原が現れ、フィンランド領に入ると列車中から一斉に拍手が鳴った。
同じ太陽が注いでるのに全く違う景色が眼前に広がった。
色が違う。
しかも明るい。
日光浴しているトップレス(死語だ!)の女性達がいた。何とも言えない開放感を皆が感じていた。何とも言えない不思議な感覚に包まれた欧州の第一歩だった。
写真は数少ない鉄のカーテンを超えるモスクワーヘルシンキ間を結ぶ列車。
1973.06.02.
インターネットも海外旅行情報誌も無い時代、
唯一のガイドは先輩から
出発直前に届いた手紙のみ
横浜港出発直前の5月のGWにフランクフルトから4月30日に投函された1通のエアメールが届いた。
差出人は60年代にオートバイで世界一周をしていた格安旅行の達人森川章二先輩からだった。
森川さんはこの1973年に新婚旅行をかねて2度目の世界一周のため夫婦で海路インドを経て、陸路フランクフルトに着いて新車のフォルクスワーゲンを購入したようだった。
高価な新車を購入した理由は簡単だ。ワーゲンの新車が一番故障せず、帰国時に世界中どこで売っても高く売れる!からだ。売買の差額は中古車を安く買ってメンテナンスしながら旅行するより間違いなく経費がかからないからだった。しかもどの国で売る時はこうしなさいと細かく注意事項が書いてあった。
この他通貨の交換レート、宿泊費、タバコ・・・など情報満載だった。
前略、お元気ですか、そろそろ出発の時が近づいたと思いますが、準備は順調に行ってますか。私達は今やっとドイツのフランクフルトに到着しました。遅ればせながら今までに得た情報を送ります。
1. ヨーロッパ :
まだパリとフランクフルトにしか滞在してませんが、物価が大変高く特に北欧はベラボーでユースでも他の国より高いようです。車があればまずオートキャンプ場、次がユースホステルでホテル等とても泊まれません。ドイツでも同じです。
タバコはドイツで200円、北欧はその1.5倍から2倍します。日本を出る時各人10箱(200本)はカバンの一番底に入れて北欧で使う様残しておき、ソ連に着いたら割合安いので(一番安いのはまずくてのめない)日本と同じくらいの中くらいのを探して大量に買い込みヨーロッパで吸うと安く上がります。
ソ連からフィンランドへ汽車で超える時フィンランド側の税関は荷物検査をしないはずですが一応タバコはいつもリュックの下の方に入れておいて下さい。
日本からソ連へ入国する時、所持金は正直に申告しないと見つかった時取り上げられます。
アメリカタバコはフィンランドからスウェーデン(ヘルシンキ→ストックホルム、ツルク→ストックホルムの北100kmの町)へのフェリー、スウェーデンからデンマークへのフェリーの中でウィスキー(多分2本まで)と共に各人1カートン(10箱)を購入する券がフェリーのチケットにくっついているはずです。多分数箱ずつバラで買う時は何回でも買えるようです。
オランダ、ベルギーは他の国に比べてタバコは安いと思います。
日本円の交換率はあまり良くないので帰国した時のタクシー代くらいを除いて全部ドルに換えておいた方がトクです。
ドイツで車を買うのだったら丸の内(多分)のドイツ銀行でマルクを買って行くと率が良いと聞きます。円で買えるはずです。今ドイツでは1USドル=2.75ドイツマルクですので、これより良い様でしたらぜひ買っておくといいです。少し多めに換えてもマルクならどの国でも使えます。
ヨーロッパではレストランはたとえセルフサービスのスナックでも高いので食料品は必ずスーパーマーケットか街の広場に出る朝市で買う事です。
スウェーデン、デンマークのSex Bookはイスタンブールのバザールで10倍くらい(ねばれば)で売れると聞きましたが、買った時はどこの国境でもカスタムに見つからない様、体の中なりどこかいい所にうまく隠しておかないと取り上げられます。何十冊か運んで売った奴がいるそうです。
スイスでは後に書く中近東、インドの交換レートより良ければ前もって買っておくと大変便利です。これはぜひ勧めます。
中近東、インド情報は次回に続く。
1973.06.03~04. ヘルシンキ→ STOCKHOLM port./Pen
地図も無い
現地通貨無し!
接岸したストックホルム港は
あっという間に誰もいなくなった。
街はどっちだ?
大事件を書き忘れた。
豪華フェリーが着いたストックホルム港には何も無かった!
豪華フェリーのSilja lineがストックホルムの港に着いて元気よく下船した。
出迎えのいる人は車やバスでドンドン出て行ったが、どこを探してもインフォメーションやオフィスが無い!
バスや市電に乗るにもスエーデンクローナが無い!
地図も無いから自分がどこに居るかも分からない!
あっという間に人がいなくなった!
再開発される前の70年代の竹芝埠頭や貨物船ターミナルの晴海埠頭でももう少し人の気配を感じた。
そうか! だから船中に銀行があったんだ。
仕方なく海を背にして広い通りを
歩き始めたが誰にも会わない。
ヒッチハイクしようにも車が走っていない。
歩けども歩けども建物すらなく街はかなり先のようだった。
Google Earthで調べると中心街まで直線で3㌔ぐらいだが永遠に着かない気がした。
旅慣れない初のトラブルでどうやって宿を探し、両替をしたか全く記憶が無い。
疲れはてた白夜の国。
1973.06.05. ストックホルム/Pen
プロカメラマンの必需品、
6×6カメラのハッセルブラッドの
聖地スウェーデンに着いた!
70年代のプロカメラマンは皆ハッセルブラッドを使っていた。
手にすっぽりと収まる6×6のレンズシャッター式カメラはあこがれのカメラだった。アポロ計画で月面撮影したのもハッセルだ。
会社にあった6×6カメラはローライフレックスと通称「ゼンザボロニカ」と呼んでいた重い国産カメラしか無かった。私を含めて、当時このカメラさえ持っていればカメラマンとしてやっていけると幻想を抱いていた人が多かった。
このカメラ購入が旅の大きな目的の一つだったのでワクワクしながらストックホルムに着いた。
カメラ店の情報も無いので中心街にあるカメラ屋で免税扱いかどうか聞きながら店探しをした。店構えもしっかりしているHASSELBLADS FOTOと言う店で、バイトでためたドイツマルクのほとんどを使ってついにカメラ一式を購入した。この一ヶ月あとぐらいにドイツマルクの切上げが10%ほどありがっかりした。このお店の住所をGoogle Earthでみると現在はお店は無い様で奇麗なビルが建っている。
73年当時、日本のカメラ店で500CMボディーにプラナーの2.8/80㎜レンズとセットで40万円前後だったと記憶しているがここストックホルムではボディーが1,173スエーデンクローナ、レンズが1,952スエーデンクローナと通関用書類に書かれている。当時のレートが分からないので何とも言えないが、ディスタゴンの4/50㎜、ゾナーの5.6/250㎜も買えたので多分船賃や航空運賃程度が浮いてしまった計算だ。その日は嬉しくて何度も何度も空シャッターをきって感触を楽しんだ。
日本を出発してここまでカラー撮影用に持って来たアサヒペンタックス6×7カメラにレンズ3本が突然重く感じ愛情が無くなってしまった。
わかる!
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ビジュアル コミュニケーター!
ハッとして、心に残る写真、デザイン、編集します。