インターネットも
クレジットカードも無い1973年、
バックパックとニコンFで
格安世界一周 写真旅
1973.07.16 パリ→マドリッド/Pen
パリ、オステルリッツ駅(Paris Austerlitz)から国際夜行列車で
「ピレネーを超えるとそこはアフリカだった」と言われた
スペイン、マドリッドに到着
「ピレネーを越えるとそこはアフリカだった」という言葉があるように8世紀から11世紀にかけてイスラム教徒の侵入を阻む防壁としても働いたピレネー山脈を超えると風景ががらりと変わった。赤っぽい岩肌に白壁の家や駅名のタイルが心地よかった。フランスなどが採用する標準サイズのレールからスペインの広い幅のレールへと乗り入れる特殊な軌間変換装置をもつタルゴに乗りたかったが普通のコンパートメントで一晩かけて移動した。
1973.07.18. マドリッド
原稿送付のためJALマドリッド支店に行く
1973.07.20 マドリッド
初めてフラメンコに接したのは
5歳で見た赤いドレスを着たダンサーの絵本。
マドリッド在住13年
フラメンコの女王 長嶺泰子さん
3歳からモダンバレーを習い、15歳の時初めてフラメンコのレコードを聴き、これが自分の求めていたものだと確信した長嶺泰子(ヤス子)さんは17歳から本格的に習得するため河上五郎氏に師事。20歳より河上鈴子さんに師事。
青山学院大学経済卒業後24歳で私費留学試験に合格しスペイン・マドリッドに渡りパコ・レイエス氏に師事し本場のフラメンコを学ぶ。
親からはプロのダンサーは絶対不可と厳命されていたがどうしても本場の舞台を踏みたく当時の大使館等の応援と口コミでタブラオの「Corral de la Moreria」で1963年に初舞台を踏む。以来10年間踊り続けている。当初のギャラは250ペセタであったが今やこの店のスターである。
フラメンコは南スペインのアンダルシア地方で産まれたものだが現在はマドリッドが中心でスターのほとんどが集まっている。ご主人のホセ・ミゲルさんもダンサーで愛犬ピピちゃん(ピピはおしっこの意)と3人生活だがミゲル氏は夏期の舞台があるため避暑地のマルベージャ在で留守だった。二人のカットを撮るため後日マルベージャまでお邪魔したカットは7月29日のお楽しみ!
1973.7.21. マドリッド
スペイン人カメラマンと私。男二人だけの留守番で
共通言語無し、3時間の緊急語学レッスンで
彼がどうしても伝えたかった事。
マドリッドに到着後、日本からの郵便物とシティーマップを受け取りに日本航空マドリード営業所に直行し長嶺泰子さんの情報も得る事ができた。
今や空港のカウンター以外のJALヨーロッパ市内路面店はロンドンだけで全て電話かインターネット対応のようだ。
多くのバックパッカーや旅行者にとって大使館や領事館よりも親身になって相談にのってもらえる日本航空欧州支店・営業所(35ヵ所。世界で85ヵ所)ほど信頼出来て頼もしい拠点は無かった。今でも大感謝!
日本交通公社「6ヵ国語会話 2」は日・英・仏・独・伊・露語だったため、日本航空のマップに付いている旅行ガイドはあってもスペイン語は当初から皆目分からなかった。
シエスタもしないで昼間の撮影と美味しいオリーブオイル料理の食べ過ぎで腹の調子が少々おかしくなっていた。
長嶺さんを訪ねた時に御馳走になったおかゆに大変助けられ、何度目かのおかゆのお世話になった昼過ぎ、長嶺さんからスペインのカメラマンを紹介された。
その日は愛犬ピピちゃんを再度動物病院に連れて行くため留守番を頼まれたが、共通言語の無い男が二人きりになってしまった。
お宅にあった写真集を挟んで色々英語でトライしたが全く通じなかった。無言の気まずい空間がが訪れた時、指を折りながら同じ言葉を繰り返し声を出し始めたカメラマン。
スペインに入る列車で教わった唯一のスペイン語は「汗ムーチョカロール」(暑い!)。これは一回で耳に入った。
「ウノ、ドス、トゥレス・・・」ゼスチャーでお前も話せみたいなスペイン語だった。
「あっ!これは数字だ」と感じ1〜10を先ず覚えた。
フランス語とは大違いで発音は結構上手く出来た気がした。彼は引き続き10〜100、100、200、300、・・・1000まで個人レッスンを1時間ほどしてくれた。
これで終わりかと思うと腕時計を指しながら時間についてレッスン2。そして椅子に座る・立ち上がる、ドアを開ける・閉める、自分は出て行くのレッスン3まで教えてくれた。
3時間位のレッスンで、彼は時間になったので先に帰るからヤスコに「有り難う」と伝えて欲しいという意思表示だった。
このスペシャルレッスンのおかげでスペイン語、イタリア語とも買い物には全く不自由しなかった。
写真はピピちゃんの掛かり付け医院で。長嶺さんは舞台以外はいつも着物。
1973.07.24. マドリッド→リスボン→ナザレ/Pen
48時間以内の滞在なら
ツーリストビザが無料だった。
1泊2日の鰯天国!ポルトガル。
何度目かの夜行国際列車で朝リスボン着。
車内で一緒になったソルボンヌ大学でラテン語を勉強している学生と一緒だったので、パリ到着時に比べると言葉のストレスが全く無かった。
彼によると同じラテン語圏でもイタリア語とスペイン語は関西弁と京言葉位の差だけど、ポルトガル語だけは様子が違うらしい。彼はポルトガル語は履修していないがラテン語と共通の単語が多く、ラテン語で話せばおおよそ通じると言っていた。
ビザは73年頃のヨーロパでツーリストビザは短くても1週間程度はあった記憶があるが、ポルトガルは72時間を超えると有料となるため2泊3日の短期滞在を選んでしまった。
ポルトガルは物価が安くお魚グルメ天国だった。バックパッカーの間で金が無いなら南へ行けが合い言葉で、特に鰯をはじめ食費が格安で財布に大変優しかった。今年の7月にリスボンに出張した方の情報ではリスボンのレストランとはいえ4尾もあって鰯料理のワンプレートが15€もすると聞いてビックリ。日本と替わらない物価高。これで昔の物価感覚だったら即移住したい国。残念!
日陰の階段で腹ごしらえ。
入国して分かったポルトガルの魅力、72時間で出国はもったいないなり。
日向は太陽がイッパイだけど日陰の心地よさはヨーロッパNO.1!
アルファマの市電はこの写真よりもっと狭い道や急坂を走り抜ける。
路地裏露天市の陽気なおばさん達。人柄の良さは世界一かも。
1973.07.25. ナザレ
超ビックリクイズ! 2枚の写真どっちが男性?
仰天!
巨乳のおじさん・・・
ナザレの口ひげ女性。
漁村ナザレは黒衣のお年寄り女性がとても多く、黒衣は既婚者のサインだそうだ。
黒衣も目立ったが一番驚いたのが口ヒゲの女性達だった。うっすら口ヒゲのおばさんは何人もいたがあまりにも立派な口ヒゲなので撮影させてもらったが、巨乳のおじさんかと思うほどだった。
写真の黒ジャケットが男性です。ヘアメイクの方に教わったんだけど女性も歳を重ねると男顔に近づくらしい・・・
ポルトガルの女性はよく働くし力持ちだ。40年経つとエクタに比べハイスピードエクタEHは褪色が早いなり。
幸せな魚天国!ポルトガル・ナザレの丘から。
1973.07.26. ナザレ14:39→リスボン23:35→アルブフェイラ06:40→ファロ07:30 スペイン再入国→セビリア/Pen
Google Earthで
記憶をトレース
ポルトガル、スペイン国境の河で
線路が消えた!
リスボンに流れ込むテージョ河の河口にヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業記念として16世紀に作られたベレンの塔で体験した日没は大西洋に沈む太陽が自分の影を地平線まで伸ばした。この光景はシャッターも押さずに今でも脳裏に焼き付けたままだ。
リスボンからスペインに向けフェリーでテージョ河を渡り大西洋、地中海沿いにユーレイルで行った記憶だった。
はっきりしているのはスペイン国境のスタンプAyamonteのみ。
Google Earthで線路を辿って行くとポルトガルとスペインの国境のグアディアーナ川には鉄橋は無く線路は行き止まりに、よく見ると少し北側に近代的な橋が架かっていた。国境の橋を渡った記憶も無いし、本日のブログのためポルトガルのネガをスキャンするんとありましたポルトガルのボーダーとフェリーのカット。
以前はVila Real Santo Antonio(グアディアーナ)駅がポルトガル国鉄アルガルヴェ線の最東端だったが現在は橋ができたため廃止され最後の駅は1km手前のVila Real Santo Antonio(サント・アントニオ)駅に変更となったみたいだ。
次はセビリアで散髪だ!
1973.07.26. セビリア/Pen
横浜出航からあっという間に2ヶ月
ペンションのおばさんに戴いた
甘いサングリアを一口飲んで
グアダルキビール川の階段で動けなくなった。
セビリアに限らずアンダルシア地方の太陽は肌を突き刺すため日陰を探しながら歩かないと体力を消耗する。湿気が無いのがせめてもの救いだ。
昼間はあまり人影が無かったのに日が落ちると街はお祭りかと思う位人が繰り出していた。ペンションのおばさんのサービスで飲ませてくれたサングリアは仄かな甘味だったのでジュースのようにグラスを空けて街に出たら、だんだん酔いが回り始めグアダルキビール川にかかる橋辺りで下戸の私は歩くのが嫌になってしまった。
川岸に下りる緩やかな階段の石の欄干を見つけ、ベッドがわりにして一休みした。川風が心地よくあちこちで老いも若きもフラメンコを踊っていた。大移動の一日だった。
写真はマカレナ教会に安置されている「希望の聖母」と呼ばれる、涙を流しているマリア様。
春のキリストの受難から復活までの一週間を祝うセマナ・サンタ(キリスト復活の聖週間、Basílica de Macarena)の日に、教会からこのマリア像は引き出され、街の中を練り歩くので有名だ。
1973.07.27. セビリア→コルドバ→マラガ→マルベージャ
ジブラルタル海峡の決断
1.モロッコへの夢を諦める
2.マラガでベッド確保に初の深夜タクシーチャーター!
1. スケジュールがあえばジブラルタル海峡を渡ってモロッコに行きたかった。
マラガの駅に着いてアルヘシラス(Alge ciras)行きの列車を調べていた時にアルヘシラスからの列車が到着した。3人組の日本人バックパッカーが下りて来たので早速情報集。彼らは
「モロッコは想像以上にヤバイ! 3人でも油断するとバックパックを切られるし子供のスリも多く、水があわなくて全員下痢した」
僕の腹の調子も今ひとつでセビリアからマラガに来るために乗り換えしたコルドバの時間待ちにチバガイギー社の整腸剤を買ったばっかりだった。
こんなに一杯カメラ持って行くのはカモネギ状態で絶対危険だと全員に止められ、貴重品も無い軽いバックバックでさえ、盗難に遭わないように旅するのがどれほど大変だったか延々説明してくれた。
アフリカ大陸を目の前にしてあきらめた。
モロッコ行きは2002年11月まで29年間もチャンスが訪れなかった。
2. モロッコ行きを諦めてマラガの駅を出たのは夕方だった。
ダウンタウン方面に行くと街中がフェスタでごった返していたが安そうなペンションを探していつものように交渉開始!
「ブエノス ノーチェス!(今晩は!)Tiene alguna habitación libre?(泊まれますか?) Cuanto cuesta una noche?(一晩いくら?)」
その時必ず聞かれるのが何泊か?だったが
「ウナ ノーチェ(1泊)」
この答えが一番駄目な答え方だと20軒目位で気がついたが既に夜11時過ぎ。駄目な理由は週末や祝日前の安宿はラブホ化するためと思う。
何軒か交渉して込んでいる時期は「2〜3泊と答え、翌朝予定が変わったので会計をお願いします」がバックパッカーのベストアンサーだ。
野宿も覚悟したが、翌日以降に長嶺泰子さんとご主人のホセ・ミゲル氏をマルベージャのタブラオで取材予定だったので街の公衆電話からお店に電話をかけてみた。
「西田さん、タクシー飛ばしてくれば1時間かからずにこちらに着くわよ。部屋は何とかなると思うので」そのまま広場にいたタクシーと交渉し、およそ60km弱の 太陽の海岸(ヨーロッパ有数のリゾート地、コスタ・デ・ソル)の深夜ドライブになった。
タクシーの窓全開で走ると真っ暗な地中海沿いにようやく目的のタブラオを発見出来た時は正直ほっとし、そのまま深夜の撮影開始!
深夜料金も無かったタクシー代は宿泊代より安かったはず。
その夜ベッドを提供してくれたフラメンコギタリストの方に大感謝!
1973.07.29. マルベージャ(Marbella)
コスタ・デル・ソル(太陽海岸)は
今日もムーチョ ソル(光がいっぱい)
闘牛場で長嶺さんがマタドールを紹介してくれた
闘牛開始直前のマタドール(試合中に剣によって闘牛を殺す正闘牛士で闘牛士全体の1割しかなれない)に会うためにロンダの闘牛場(Ronda Plaza deToros)の囲いの所で撮影した。
スペインで大人気のマタドール(メモ紛失のため名前が不明)とフラメンコのダンサーとのミラクルショット。現在この闘牛場は全面屋根付きですが普通は日向と日陰で料金が違った。週刊サンケイ73年9月28日号
Wikiによると闘牛はスペインの国技ですが動物愛護の考えで1991年にカナリア諸島で初の「闘牛禁止法」が成立し、2010年7月28日にはスペイン本土のカタルーニャ州で初の闘牛禁止法が成立、2012年から州内で闘牛を行なうことを禁止(これに先立つ2011年にはスペイン全土でテレビ中継の終了が決定)、2011年9月25日にカタルーニャ最後の闘牛興行を終えたが、まだまだアンダルシア地方では人気らしい。
フラメンコは情熱の夜のイメージが強いが、コスタ・デル・ソルでの取材なのでアンダルシア特有の白壁をバックに踊ってもらうためにロケハンして選んだ村の名前がまたもや不明。
いつものGoogle Earthで上空から検索。この村を探す前に闘牛場もGoogle検索した結果マルベージャから思いのほか離れた内陸部だったのでBenahavis村の探索は時間がかかった。写真の建物や風景をたよりにここだろうとピンを打った。
先日偶然に出て来たメモに同じ名前を見つけた。奇跡の一致!
当時の素朴さは激変して今は村全体がリゾート化してるようだ。撮影を始めると遠巻きに見学していた村人達が集まりだした。
写真上は集まって来たBenahavisの村人たち。
下はご主人のホセ・ミゲルさんと世界の富豪が集まるMarbellaのPuerto Banúsのヨットハーバー。それまで逗子や佐島のマリーナしか見た事が無かったため、最大のヨットでも西武が所有していた3本マストの外洋クルーザーまでで、見た事も無い大きな個人クルーザーがごっそり停泊しているのを見て桁違いのスケールにビックリさせられた。日本と世界のリゾート文化は根本から異なっている気がした。
1973.07.30. マルベージャ→マラガ→グラナダ/Pen
1973.07.31. グラナダ
アルハンブラ宮殿をめざしてしばらく歩くと
通りから激しいパイプオルガンの音が聞こえた
奏者以外、誰もいない小さな教会だった
日本では一部のコンサートホールでしか聞く事ができないパイプオルガンはヨーロッパンの多くの教会で聞く事ができた。
聞こえたのはJ・S・バッハ:トッカータとフーガ二短調、いやトッカータとフーガト短調?
もちろん曲名も知らないが昼下がりの時間に練習をしていたのか?
フラメンコのパッションを持ったオルガン奏者が演奏していたのか?
教会に響き渡る力強い残響が耳に残る贅沢な時間だった。
アルハンブラ宮殿の思い出は歩き疲れた!
アンダルシアの灼熱はフライパンのようだと例えられる強烈な太陽の下、6キロ先のシエラ・ネバダ山脈からの水脈で創られた涼やかな水の庭園ですが上ったり下りたりと20kg超えの機材とバックパックの移動は少々過酷だった。
路地で偶然見つけたロバの行商人。
ギター工房。この乾燥具合が世界の名器を創る環境なのか?
グラナダでバックパッカーに人気の牛革のハットと水筒を買った。
牛革水筒は革袋から染み出る水分の気化熱でいつも冷たく飲めるはずだったが防水処理?のコールターみたいなのが気になって入れた水は洗浄ばっかりで一度も飲まずに帰国後紛失。
ちょっとワイルドだったんだけど・・・
1973.08.02 グラナダ13:00→14:30バルセロナ/Hotel
大学の授業がきっかけで
ガウディの建築物を確かめに
ついに来ましたバルセロナ
夏休み明けの第1週、スペインから戻ったばかりの寺さん(工業意匠ディスプレーデザインコース寺澤勉先生)の講義は「Antoni Plàcid Guillem GAUDI」で講義開始から教室はハイテンションだった。
21世紀の学生は存在すらも知らないスライド映写機から映し出される画像は建築物とかけ離れた巨大なアール・ヌーボーのオブジェにしか見えなかった。
しかもサクラダ・ファミリア(聖家族教会)は1882年に着工されガウディ没後も建造が進んでいると聞き皆驚いた(近年観光収入が増え建築のスピードが早まり2026年完成予定)。
バルセロナ行きの列車で東工大建築学科の学生と知り合ったため貴重な情報を教わった。
先ずはガウディの協会へ行きカサ・ミラなどを見学できる許可証を貰った。カサ・ミラは近年は入場料を払うと屋上などが見られるシステムらしいが、一般アパートのため当時は観光客はオフリミットの建造物だった。
その後も彼らによる日本語ガイドでサクラダ・ファミリアからグエル公園やガウディ博物館などを学んだ。
聖者の彫刻はほんの一部しか出来ていなかった。
グエル公園で。
ガウディ博物館の肖像写真。
大聖堂の屋根も無い時代。40年で工事は急ピッチで進みステンドグラスはカラフル。
カーサ・ミラのモザイクも剥離が始まっていた。
カーサ・ミラの屋上で。
バルセロナの日差しは強くモザイクなどの劣化が気になっていた。グエル公園で目撃した大階段の手すりのモザイク剥離の修復は職人さん達の新しいモザイクが従来のモザイクより大振りになってしまうのが残念。
わかる!
いいね!をかなえる
ビジュアル コミュニケーター!
ハッとして、心に残る写真、デザイン、編集します。