インターネットも
クレジットカードも無い1973年、
バックパックとニコンFで
格安世界一周 写真旅
1973.05.27. バイカル号
ソ連への通関時に許されるのは、
カメラ一人1台以内!
受信機1家族1台!
バイカル号2日目。波もなく穏やかに船はNakhodka(ナホトカ)に向かっていた。
朝起きてビックリしたのはまだ千葉県沖だった。明日27日にナホトカ港なので半分納得。
当時最も安くヨーロッパに渡る手段としてあったのが横浜→ナホトカ→モスクワ→ヘルシンキか、モスクワ→ウィーンだった。時間のある人はナホトカからシベリア鉄道経由で渡欧していたが日程短縮のためハバロフスクからモスクワはアエロフロートで空路利用にした。
1973 年5月10日に株式会社 日ソ ツーリスト ビューローで購入したチケットは、ナホトカ→ハバロフスク→空路モスクワ入りして2日間のモスクワ観光(ファーストクラスのホテル泊)を含む食事付きの2 等5日間で162ドルと書いてある。当時のレート1ドル=266円で換算すると43,092円だ。
バイカル号の船賃の資料がまだ見つから ないが乗船時に渡されたカードによると4人部屋のキャビンで9:30に朝食。ランチは13:45、ティータイム17:45、ディナーが20:00となって いる。同じキャビンに日本人2人と、家族と共に新しい赴任地に向かうためのアメリカ人宣教師が同室だった。
日ソツーリスト ビューローの領収書とバイカル号の乗船券
ソ連経由で旅行するためにはインツーリスト(当時はソ連政府観光局)のお世話無しでは旅行ができなかった。もらったパンフには、以下原文で
「ソ連の旅をつうじてみなさまは、ソ連邦を構成する15の共和国の名所、旧跡、すばらしい自然に接し、大建設の状況、国民経済の成果、史跡、文化の遺跡、ソ連邦に居住する100の民族の芸術と文化を親しくお知りになることができます。
『インツーリスト』がお勧めしておりますコースは多様ですが、中でも、・・・一部略」
外国人旅行者のための税関規制
ソ連邦の出入国に際して外国人旅行者が携帯を許可される製品は、本人にとって必要な日用品だけです。
旅行者は、次の製品に限って、無料で、登録なしで通関することが出来ます。
衣服、靴、下着類、ツーリスト及びスポーツ用具、化粧品、美容品その他の細かな日用品 ソ連滞在中あるいは外国旅行中に必要な、しかもそのシーズンに応じた数量たとえば、
○ウールあるいは化繊のセーター、ジャケット、カーディガン、チョッキ、スカート、スーツ、ワンピース 1人3着
○スカーフ、ネッカチーフ、マフラー 1人3着
(注) ソ連国内に定住していない人が毛皮製品を持って入国するさいには登録する必要があります。出国のさいに誤解のないようにするためです。
○受信機 1家族1台
○カメラ 1人1台以内
○シネカメラ 1人1台
○カメラとシネカメラの備品 カメラとシネカメラ所持の場合各1組
○携帯用タイプライター 1人1台
○アコーディオン、バヤン 1人1台
○その他の楽器(ピアノは除く) 1人1個
○時計(ふつうの金属製のもの) 1人2個
○各種のスベニル 適量
無税で通関できる嗜好品
○アルコール飲料 1人1リットル
○ワイン 1人2リットル
○タバコ 1人250本(その他のタバコは1人250グラム)
○キャビヤ 1人400グラム
上 記の数量をこえる(ただし度をこさない程度の)物品、および第三者に渡すための物品は関税を払った(ルーブルあるいは外貨で)うえで、持ち込みが許可され ます。無税で、および関税を払って通関を許された同一種類の物品の総量は、上記の規定数量の2倍をこえることは許されません。
カメラが3台も・・・
1973.05.27. バイカル号
迷惑でなければ友達のために助けて欲しい。
宣教師さんからの突然の告白!
地味なバイカル号の食事に出た酸味のある黒パンはほとんどの日本人客からは不味いと評判が悪かったが、特にあの酸味のある黒いライ麦パンとボルシチは相性 が良く美味しかった。帰国後は加藤登紀子さんのご両親が亡命ロシア人救済のために始めた新宿のロシア料理「スンガリー」や芝公園にあった「ヴォルガ」や神 保町「バラライカ」には良く通ったがヴォルガとバラライカは区画整理で閉店になってしまった。
食事の後は船員さん達総出のショーが手作りながら楽しくコサックダンスは真似しても全く踊れなかった。

翌日の下船が近づくと気になるのは入国審査で、
ソ連国内持ち込み制限のカメラは1人1台と書いてあるが、3台もあるカメラをどうしようと思っていた所、同室の聖職者から告白されたお願いは何とか持ち込みたい物がある・・・
インツーリストのガイドには持ち込みを禁止されているもの
a. あらゆる種類の軍用兵器とその弾薬
b. アヘン、ハシシュおよびその吸引用具
c. わいせつ本、春画、エロ写真
d. ソ連にとって有害な政治・経済図書、ステロ版、ネガ、写真、レコード、映画フィルム、原稿、絵その他。
インツーリストのパンフより。
現在のようにインターネットも海外旅行情報誌も全く無い時代数少ない情報は
日本交通公社の六カ国語会話2(日本語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語)のチャプターごとに付いているメモだけだった。
それによると「空港で」
※ 無料で運べる手荷物は
1等・・・・・・・30kg
エコノミー級・・・20kg
機内に持ち込むショルダー・バッグ類も上記の制限量に含まれる。ただし、次の品物は計量しないで機内に持ち込むことがせきる。
婦人用ハンドバッグまたは薄い書類入れ1個:オーバー類1着:ひざ掛け1枚:コウモリ傘またはステッキ1本:小型カメラ(35ミリ、6×6判などの一般カメラ)または双眼鏡1個:飛行中の読み物若干:幼児用食物および保育用バスケット。
巻末にあるソ連旅行の手引きには
ソ連旅行の特色
ソ連を旅行する人は、すべてソ連国営旅行社インツーリストのクーポン式旅行券を買わなければなりません。この旅行券は、特等、1等、ツーリスト・クラスの3等級に分かれており、料金の中には次のものが含まれています。
ホテル代、食事代、2個までの荷物運搬料、空港・ホテル間の送迎料、観光見物料
空港または湊に着くと、インツーリストの係員が出迎え、お客をそれぞれのホテル・駅に案内します。主要ホテルにはインツーリストの案内事務所がありますから、困ったことがあれば何でもここに行き、相談すればよいわけです。
なお、このクーポン券類は、それぞれ1日分がセットになっているので、サービスを受けた都度、そのクーポン券で支払ってゆけば良いのです。
ナホトカ航路
船内案内
◆ ソ連の船は、等級によるサービスの差はないので、食事内容も全部同じ。1等船室で毎晩行うダンスパーティーや映画会なども、各等の船客が自由にさんかできる。等級の差は船室の広さと施設だけ。
◆ 船内の売店では、ドルでも日本円でも通用する。売店では安い酒やタバコ、ソ連のみやげ品などを売っている。
◆ 服装はスポーツシャツ、セーターなどの軽装でよく、ネクタイや上着の着用は不要。
◆ 船内のアナウンスは日本語で行われる。
入国手続
◆ 1等船室で、前に預けた書類(旅券・鉄道乗車券など)返してもらい、同時に列車の指定、食堂車の食券、荷物札をもらう。
◆ この荷物札を船室の自分の荷物に付けておくと、後はポーターが列車に運んでくれる。
◆ 税関申告書が配られるから、それに所持金(ドル・日本円の一切)、宝石、貴金属、カメラ、トランジスタラジオなどを、正確に記入する。
◆ 税関吏が1等船室から順に検査に回ってくる。検査はカメラ、テープレコーダー、トランジスタラジオの有無を聞く程度で簡単。なお、テープレコーダーはなるべく持参しない方がよい。カメラは1人2台(インツーリスト情報では1人1台以内)まで。
◆ 税関申告用紙にスタンプを押して返してくれるが、この用紙は両替の都度必要であり、また出国の時もひつようだから、絶対に無くさないように。
以上で入国手続きを終わり下船する。
巻末にある、ソ連旅行の注意
◆ 航空機からの写真撮影は厳禁されている。観光物件の撮影は自由だが、空港・橋等は禁じられているので、十分注意したい。なるべくガイドに聞いてから撮る方がよい。
◆ チップに気をつかう必要はない。
◆ 病気の時は、ホテル内に医者がおり、原則として無料で、診察・治療してくれる。
◆ ソ連では英語はほとんど通用しないから、ロシア語の会話集を持って行くと便利。ただし、サービスビューローの係員は英語を話す。

前置きが長くなったが、宣教師の方の話は
ソビエト社会主義共和国連邦、略称ソ連では西側に対して信教の自由を認めるスタンスでも、実際は厳しい政府の管理下にあり聖書が大変不足しており、今回友人の要請で聖書を何冊か持ち込んでいる。
聖書は無くてはならぬもので信者の方もとても必要としており、何とかして聖書を届けたいが、我々に預けると発見された場合迷惑をかけると大変悩んでいた。
私のカメラは3台もあったのでこちらは同室の日本人学生にニコンを1台持ってもらう事になった。
1973.05.28. ナホトカ
ナホトカ港に接岸するとソ連兵と入国審査官が乗船。
隣のキャビンに移動した宣教師家族は・・・
朝食を済ますと2泊3日の船旅の目的地ナホトカが見えてきた。
娯楽施設は輪投げぐらいで何も無く日中はデッキで日光浴・読書に船内スナップ。ディナー後の船員総出のアトラクションはシンプルながら楽しいショーだった。

キャビンに戻ると宣教師の方は
「アメリカ人は入管手続きに時間がかかる可能性があるので、私は家族のいるキャビンに移動します」と言って隣の船室に移動した。
「聖書は没収されるかも知れないが、嘘は言えないし皆に迷惑をかける事もあり得るのでただ祈るばかりです」

バイカル号が無事ナホトカ港に接岸されるとカーキ色のソ連兵らしい人達が乗り込んで来た。
ガイド通りに特等船室から順番に手続きが行われているようで、ツーリスト・クラスの順番はすぐには回って来なかったが、カメラ1台を同室の日本人に託してドキドキして待っているとようやく隣の宣教師家族のキャビンに係官が入った。
突然動きが少し慌ただしくなり、軍服?を着た若い係官たちが両手に一杯の書籍や荷物を他に移動させ始めた。
相当長い時間耳をそば立てて待っていると、ようやく2名の部下を従えた係官が我々のキャビンに入ってきた。
部下がベッドの中をあらためていると、椅子に座ったまま手荷物やバックパックを一瞥して
「タバコは?」
すかさずソ連旅行2回目のS君がセブンスターを1本差し出すと、にっこり笑って一服付けたまま動かない。
「味はお好きですか?良かったらこれどうぞ」
と未開封のセブンスター一箱を無言で受け取り
「良いカメラだな。日本製は優秀だからな」
とカメラを触りながら言われても黙っていた。
酒は持ってないか?ラジオ持ってないか?と物欲しそうに色々聞かれたが3人の入国許可がおりた。
荷物をパッキングして廊下に出たがアメリカ人宣教師の家族の姿は見えなかった。ハバロフスクへ移動するシベリア鉄道でも見かけなかった。
下船時に船員さんの帽子を借りて記念写真。脅威のシベリア鉄道トイレに続く。
1973.05.29. ナホトカ→ハバロフスク
シベリア鉄道で駅舎等の撮影は禁止。
見つかるとフィルム没収!
バイカル号を下船してナホトカ駅( 42°50'29.53"N/132°56'7.00"E)からシベリア鉄道に乗ってハバロフスクへ向かった。
街は活気が無くとても殺風景に感じた。
これが同世代の学生運動家達が声をからしてアジっていた理想郷なのか?
現地を見ながら学生運動経験者に話を聞きたかったので、船中でも同世代の人達に声をかけたがノンポリばかりで彼らが目指していた世界観は今も解らない。
僕より早くシベリア鉄道経由で渡欧した友人の話では、夜中に寝台車から身をそっと乗り出して駅舎や人々を撮影していたら翌日係官がやって来て
「あなたは昨晩、列車から撮影してましたね!」
と言われフィルムを没収された。
彼は見つからないようにカーテンの隙間からレンズだけ出して撮影していたのになぜ発見されたのか全く解らない。もしかしたら寝台車に盗聴機やカメラがあるかも知れないので十分気をつけるようにアドバイスをもらった。
確かに駅や踏切には戦車が配置されていた。
バイカル号の入国係官の真似をして、ベッドマットの下や備え付きの灰皿の裏側など4人部屋の寝台車中探してみたが素人には発見できなかった。
でもマイクがあったらと思うと何かジェームス・ボンド気分だった。

1973.05.29. シベリア横断鉄道 ハバロフスク→モスクワ
バックパッカーの鉄道旅行史上、
最初で最後の食堂車と寝台車
長距離国際特急列車でも食堂車が連結されている列車はうまく選ばないと出会えない。
最近のTGVなどほとんどカウンターがあるだけのカフェテリアやビュッフェ式でサンドイッチやスナック、カフェサービス程度で日本と変わらない。人件費の問題かも。
有名なのはスペインのバルセロナ、マドリッドから、フランス、スイス、イタリア、ポルトガルに向けて走る国際夜行列車。
1975 年3月の新婚旅行で利用したデュッセルドルフ→ローマ。ウィーンに行く予定デュッセルの駅に向かったが、あまりの寒さで暖かそうなローマに行く先を突然変 更した時だけだ。この時も得意の1等21日間のユーレイルパスだったので、乗務員が座席までメニューを持って注文を聞きディナーは何時からと言われ、時間 に食堂車に行くと映画オリエント急行みたいな毛皮をまとったセレブ達ばかりだった。
シベリア鉄道なのでヨーロッパ並みの豪華さは無かったが、70年代の新幹線よりはリッチな感じがありリラクゼーションとか非日常に対する感覚は未だに日本には無い感じがする。
写真のようにクロスがあるだけで楽しい。

そこでテーブルサイドにあったのがこれ!
ロシア語は読めないのでなんと書いてあるか分からないけど、プラスチック製とはいえ海外に爪楊枝を発見。ガラクタコレクション第1号。

一番ビックリしたガラクタコレクション2号はこれ!
これもキャッチコピーは読めないけどサンドペーパー並にザラザラで痛くなるトイレットペーパーだ。
文字や話では到底伝わらないので永久コレクションにした珍品。
とても紙とは思えない。質感が伝わると良いのですが・・・
1973.05.30. モスクワ
ナホトカから同行したインツーリスト嬢の悩みは、
資本主義社会とソ連邦との
生活感のギャップが埋められない事だ。
昨日からソ連大学やボリショイバレーなどモスクワ観光。
ソ連旅行に欠かせない国営ガイド(監視役?)のインツーリストは同世代の女性だった。
あと数ヶ月で結婚する、いつもにこやかな彼女の彼に会うたびに言われる事は
「仕事で見聞きする西側の人達の話は、この先の生活を考えると相当なストレスになるから早く仕事を辞めた方がいい」だそうだ。
確かに街には商品はほとんど無く、グム百貨店の棚は肉も野菜もガラガラだった。軍人や白系ロシア人の身なりはそれなりに良かったがモンゴリアン系の市民の服装は厳しそうに見えた。これはナホトカもモスクワも同様に感じた。
肉体系の仕事に携わっているおばさん達が大勢いるのにも驚いた。
彼女のような流暢な日本語を学んだ高学歴の人は、おばさん達の生活レベルに比べたら雲泥の差があると思った。少なくもソ連型社会主義で叶えられるはずの自由で平等な社会は幻想としか見えなかった。
結局ブレジネフによる長期政権下で社会主義の矛盾が拡大し、経済も停滞したのでインツーリスト嬢の彼の指摘も正しかったのかも。
赤の広場でチューインガム長者になった僕らはS君の案内でルーブルで支払える立派なホテルで食事をした。そこに集まっている人々も軍人が多くモンゴリアン系は皆無だった。食事の後はホテルレニングラードに戻って紅茶を飲んだ。
この子供隊がソ連崩壊の歴史の証言者になるとは・・・赤の広場で
モスクワの信号
1973.05.30. モスクワ
赤の広場辺りで「ハロー」と英語で近づいて来る人は
ブラックマーケットのバイヤーだ。
一番人気はサングラス
昨日ハバロフスクからは空路でモスクワ着。
空港から舗装が悪く、だたっ広い道路を走って市内のホテル・レニングラードに着いた。
このホテルはセブン・シスターズと呼ばれるソ連時代に建設されたスターリン・ゴシック様式の七つの摩天楼の一つで17階建て、136メートルの高さで7本中一番低いホテルだ。
昨晩は念のため、部屋の天井や照明に隠しカメラが無いか一応チェックしてから就寝した。
朝食の時に旅慣れたS君が
「チューインガムとかサングラス持ってたらものすごく高く売れるよ。一番高く売れるのはジーンズなんだよ!」
そのため彼は日本からダース箱のグリーンガムとサングラスを持参していた。僕はジーンズは2本しか無いので売る物は無かった。
彼はこのガムさえ売れば、今夜は3人に食べきれないほど御馳走できると話した。にわかに信じられなかったが
「誰に売るの?買い手が分からないと困るのでは?」
「大丈夫! 赤の広場や観光スポットを歩いていれば、必ず向こうから英語で声を掛けてくるのがいるんだ。彼らがブラックマーケットのバイヤーだから全然心配ないよ」
豪華で大理石で作られた巨大な地下駅は核シェルターにもなるという。駅から地下鉄で赤の広場着いたとたんに、革ジャン姿の男やジーンズの男が次々に小声で
「ハロー! ジャパニーズ?」
と声を掛けて来た。
あっという間にガムとサングラスは完売した。僕らが76年に創刊された雑誌ポパイに憧れたように、モスクワの若者達の間では高値の闇レートで西側の象徴として売買されていた事になる。85年のキューバでもジーンズは西側の象徴で若者に絶大な人気があった。恐るべし。
わかる!
いいね!をかなえる
ビジュアル コミュニケーター!
ハッとして、心に残る写真、デザイン、編集します。