インターネットも
クレジットカードも無い1973年、
バックパックとニコンFで
格安世界一周 写真旅
1973.08.05 バルセロナ→ナルボンヌ→グリンデルワルト/YH
モロッコ行き断念
予定外のスイスでスキー
マドリッドで下痢を起こした理由が8月6日スピッツ駅からポストしたハガキ発見で記憶がはっきりした。原因は下記の文面にまかせるが、体調不良でモロッコ行きを断念した代わりにスイスのサマースキー体験に予定変更した。この後世界に空手を普及させるために活動していた空手家の加瀬泰治七段をカンヌ取材する日程調整と体調復帰のプチバカンスだ。
8月6日の文面は
行かないはずだったスイスについに来てしまい 、昨日よりアイガーを目前にしたユースに1泊、本日7:00よりユングフラウに登頂成功!
バツグンの天気、雪質はザラメ、風やや強し。
スペインのマドリッドで下痢のため1週間休養。その後セビリアで酒(サングリア)を飲んでジンマシン。これが治ったり再発したりで未だ完治せず。本日も午後より少々痒し。
スペイン製の薬(セビリアからマラガに向かう乗り換え駅のコルドバで時間待ちの間に市内のファーマシーで購入)を飲んでいるがどうなるやら?でも心配無いと思います。
これよりツェルマットに向かい2日間ほどスキーをしに行きます。
何と言ってもアルプスで滑るんですから菅平なんて問題ではありません。
多分ジンマシンも治るのではないでしょうか?体の疲労が原因だと思います。(この病気の原因はアフガニスタンで解明された!8月30日ゴロアップ予定なり)
スペインは暑くて全くCRAZYです。
ますます元気ですよってに心配いらず。東京には9月中旬の予定。なんといってもツェルマットでスキーだもんね! 8月6日 スピッツ駅にて
これは7月20日マドリッドからポストのアエログラム
パリ出発前日に刺身、鉄火丼、うな丼、ところてんetcを食べ過ぎ現在2〜3日正露丸のやっかいになってます。
スペイン料理はオリーブ油を使用するため普通でもおかしくなるのになかなか治らず困っていますが取材先の長嶺泰子(フラメンコダンサー)さんにお粥を作ってもらい梅干しとサラダでなんとなく持ちかえしてます。でも食欲はあるので心配は無い様です。
今週は仕方ないのでマドリッドに足止めで休養です。やはりナマモノは注意せねばいけません。いくら刺身が食べられるといっても日本まで我慢しなくては。今晩はこれよりフラメンコ見物に連れてってもらいます。長嶺さんの撮影は明日、そして日曜は闘牛です。
ではADIOS!
追伸:アセムーチョカロールは「暑い」のスペイン語。日本的です。
ユーレイルパスでもスペイン国内は座席予約が無いと車掌とのトラブルが時々起こるため、バルセロナの中央駅で長蛇の列に並んで予約を済ませ駅舎を出ると外はクレイジー豪雨。その時雨を逃れて走り込んできたのは何と乃村工芸社パーティーで知り合った日本人。この旅行で唯一出会った知人だった。
バルセロナからフランス経由でスイス、グリンデルワルトへ。
360度、何処を見ても絵はがき! 夕食後のユースホステルのロビーではピアノを弾ける男が一番もてた。
朝7時発の登山電車で上ったユングフラウヨッホ3454mにて。オーダーメイドのカメラジャケットはフィルム、交換レンズ、露出計などの収納を機能的にデザインした。このジャケットのおかげでアテネ以降の空路の機材のウェイトオーバーをチェックされずに済んだ。ファスナーを開くとニコンF2台、ハッセル1台をぶら下げているため不格好な様子でテロリストの疑いでインドの空港内バスでカービン銃を構えた兵士に両腕を掴まれた事も。
1973.08.06. グリンデルワルト→ユングフラウヨッホ→グリンデルワルト→ツェルマット/Hotel
1973.08.08. ツェルマット→ミラノ→カンヌ
朝一番のゴンドラで
ナショナルチームと一緒に
マッターホルンのスキー場へ
Gパンに長袖Tシャツの重ね着、レンタルスキーを担いで始発のゴンドラに乗るためにツェルマットの街はずれに着くと、きっちりとレーシングウェアを着込んだナショナルチームの若者集団がいた。
身長の高い彼らと一緒に立ち席だけのゴンドラに乗ると日本人の僕は子供サイズだった。乗り換えのフーリー(Furi 1,864m) 駅で次のトロッケナーシュテグ(Trockener Steg 2,927m)駅まで支柱無しの1本ロープで深い谷を渡る。写真を撮りたかったが選手達に窓側を占拠されていたので不可能だった。おかげで高所恐怖症にならずに一気に上空に着いた。
ここには雪は無く選手達は一気にクラインマッターホルン(Klein Matterhorn 3818m)エリアに向かった。リフトに乗って雪のあるエリアにようやく着いたが雪に見えたのは氷だった。
ザラメ状態の場所と、完全なアイスバーンの表面が太陽でポツポツと丸く溶けて円周が鋭いナイフエッジに! しかも氷の下を溶けた水が流れていた。グローブも無しで転んだら間違いなく大怪我だ。
眼下に見えるトロッケナーシュテグ(Trockener Steg 2,927m)からかなり上がってもザラメで歩くのも難しいほど良く滑る。
長いTバーリフトを乗り次いでようやく雪らしくなった所(3500m?)でもきっちりエッジを効かせないと全面アイスバーン状態だった。正面はアイガー、メンヒ。
この辺りの雪もやや重めだったが上越の湿雪よりはコンディションが良い。
シーズンのゴルナクラートからのダウンヒル滑ったらニセコでも叶わない上質のアスピリンスノー。オススメです!
ドピンカンのマッターホルンの夏スキー。森林限界を超えた標高にあるため見渡す限り人気無し。Gパンまくって半袖、軽装過ぎてレッドカード!
天気が急変せずに良かった。日本のスキー場のように周りにお店は全く無い。
無音の青空とマッターホルンだけだった。
列車で一緒になったスキー初心者を連れてここで特訓した人が送ってくれた記念写真。一応ウェデルン、ひざの繰り出しが今ひとつなり。
1973.08.09. カンヌ
「人格と技(力量)、オリエントの精神」を求めて
アフリカ、東欧、全ヨーロッパから集まる
全ヨーロッパ空手合宿のビッグ・ボス
加瀬泰治7段(44歳)
亡きブルース・リーが演じた空手映画『ビッグ・ボス』がヨーロッパでも空前のカラテ・ブームをひき起こしていた。映画のポスターは街中に貼られ子供達は日本人と見るや「ジャポネ・ビッグボス」と集まってくるほどで、僕自身も何度も試合を挑まれ困った。
これは加瀬泰治(当時44歳)さんが語ってくれた海外における日本武道全般にいえる話だった。
ヨーロッパ人にとって空手は「強さを要求」され「日本の師範のようなただ座っているだけ」では指導できない。
「五尺の小寸をもって大男を一撃するだけの強さ」、そして「全人格的に優れている」事が求められる。日本の空手のように技巧に走ったのでは体力的に優れた者と対峙した時にかなわない。
戦前のような強い空手がヨーロッパでは求められている。
かつて学生時代に空手を学んだ者が空手を教えてもすぐ弟子の方が強くなってしまう事が増えている。もっと体系的、技術的にしっかりしたものを持った人が来ないとヨーロッパにおいて日本の空手は馬鹿にされる。彼らを理解し、溶け込み、友人として師として力量のある技を持って指導に当たらねばならない。
道場では「強く」「厳しく」、離れたら「友達」「溶け込み」「理解」
ヨーロッパに住んで空手を教えていると教え方がヨーロッパ的になり、日本の空手と少々異なりヨーロッパとの中間的なものになってしまうギャップが起きる。
しかし「空手を通して世界の人間が集まって一つになる」と考えれば、それも一つの空手の方向性ではと考える。
ヨーロッパの空手が流行る事で本家日本の空手を技術的に体系化をしっかりする事に繋がる。
週刊サンケイ1974年6月20日号
取材から一年ほど遅れて掲載された。カンヌの合宿にはミラノから白井寛さん、ロンドンから榎枝慶之輔さん、ブリュッセルから宮崎哲さん、日本からは1969年第一回全日本空手道連盟優勝者の飯田紀彦さんと加瀬さんの5名が指導にあたった。
加瀬泰治さんのプロフィール
1929年生まれ
松涛館流を白井寛氏から指導を受け日本空手協会で指導員の師範となる白井寛氏から指導を受けた1964年より南アフリカ、ケープタウン・ヨハネスブルグで指導
1965年より一年半をかけ世界を回る
空手道連盟(国の連盟)コンセー テクニック(師範)
全ヨーロッパ空手道連盟 ディレクター テクニック(技術部門長)
ユーゴスラビア国家公認ユーゴスラビア空手道連盟ディレクターテクニック
1971年ユーゴスラビア・パンチェゴ市名誉市民
1973年3月モンパルナスに道場を開く
1973年6月日本空手協会世界大会(日本)ヨーロッパ選手120名を連れて参加
練習の合間に加瀬さんに連れて行ってもらった地元民が利用する海岸はカンヌの隣フレジュス(Fréjus)。このころヨーロッパでは熱病のように一部のセレブ?に蔓延したトップレスがここにもいました。
加瀬泰治さんは2004年逝去されたようです。合掌
わかる!
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ビジュアル コミュニケーター!
ハッとして、心に残る写真、デザイン、編集します。