インターネットも
クレジットカードも無い1973年、
バックパックとニコンFで
格安世界一周 写真旅
1973.08.23. イスタンブール/Hotel
Air France南回り便で
アテネより空路イスタンブール
バックパッカー御用達ホテル「グンゴール」へ
既に帰国時間を超えてしまったので陸路はあきらめ中東、インド、ネパール・・・と空路ストップオーバーの旅は世界一周線を開始していたフランスフラッグキャリア、エアーフランス南回りを使った。
いよいよバックパッカーの先輩森川さんの手紙だけが頼りの旅が始まる。
中近東-1
ヨーロッパ、トルコでは汽車で国境を越えるとヒッチハイクで超えるより通関手続きは簡単です。アテネからイスタンブール、テヘラン、カブール、ニューデリー、カトマンドゥーには不定期便ながら幾便もヨーロッパ人の運転する大陸横断の大型バスが出ているので現地のバスを乗り継ぐより余程簡単です。
乗っているのは全部ヨーロッパ人ですし、通関も皆と一緒にやり、安いホテルにも勝手に連れて行ってくれるので少し割高ですがこれを薦めます。これから書く各都市のホテルにはどこ行きのバスが何日に何ドルででるという張り紙がよく出ています。
アテネ ▶
この街にはまだ行ってないので分かりませんがユースで聞けばイスタンブール行きのバスの便が何時出るか調べられます。ここからイスタンブールまで1日の直通列車が出ています。バスなら11〜12ドルです。
イスタンブール ▶
スルタンアーメッド(地名)のホテル「グンゴール」大部屋、1人8トルコリラ(約160円)。大部屋には時々ノミかナンキン虫が出るがシーツは清潔。ホットシャワーは3リラ(60円、1リラ≒約20円)払うと入れる。
カメラ、ラジオ、車を売りたい時はここのマスターに聞くと便利。セックスブックは自分でバザールに持って行き宝石屋でまずサンプルだけ見せ気長に交渉する。
値段が折り合わない時は別の店で売ると言って席を立つと値をつり上げてくる。反対に買う時は値切る事。
ここのシープススキンコートは刺繍はミシンでアフガニスタンのカンダハル、カブール(量が多い)の方が手刺繍で奇麗。
グンゴールの中にはテヘラン、カブール行きのバス案内はしてないが、となりのカフェ「プディング・ショップ」の壁に紙が貼ってある。
このプディング・ショップには外国人がいっぱい集まり、レジの所で1ドル=14トルコリラで換金してくれる。
ヤミも銀行レートも同じ。他の所ではニセ金をつかまされたり、持ち逃げされたりするので絶対に換金しない事。
物を売る時はドルで貰う事。トルコリラは隣のイランの首都テヘランの両替商で、イランリアルにもドルにも替えられるけど・・・
二人旅ならスルタンアーメッド地区の他のホテルのダブルルーム、シャワー付きを探しても住み心地が良いと思う。なるべく大部屋に泊まらず2人部屋を借り切る事。
カメラ盗難の心配あり。
空港のインフォメーションでマップとグンゴールの場所とバス路線を教えてもらった。
手前が今でも営業中のプディング・ショップ(Divanyolu Caddesi No:6 Sultanahmet, 34400 Fatih/istanbul)。奥が世界中のヒッピーが泊まるホテル・グンゴール。
大部屋は遠慮してシングルに泊まったか誰かと2人部屋にしたか記憶が無い。トイレが一部壊れていたのと、ホット・シャワーを使う時シャワーカーテンを引かず目の前にカメラバッグをおいてシャワーがかからないように出入り口に向かって体を慌てて洗った記憶だけが鮮明に残っている。この週間はユースホステルを利用した時も同じ。
1973.08.24. イスタンブール
ホテル・グンゴールの隣が
バックパッカーの情報オアシス
プディング・ショップ
インドに行きたい人、ロンドンに戻る人達への家族や恋人からの手紙をはじめ、
旅人をサポートする足情報がここの掲示板に貼られている。
インターネットや情報誌の無い時代、安い快適宿、旨いレストランなど旅の情報はバックパッカー同士で交換しないと入手出来なかった。インフォメーションセンターも日本より数十倍優れていたが、穴場情報などは特に入手しにくい時代だった。
カブール行きバス35ドル月曜14時出発、女子2人●●まで同乗希望など国際直行バスの値段や尋ね人まで色々貼ってあった。
画面奥に情報オアシスがあった。
掲示板の一番上に書かれた警告!こういう事か・・・
WARNING
Have a good time in Turkey.
But have absolutely no dealings with DOPE(Hash,LSD etc).
The Consequences are Severe 1Gram-3-4 years. Dealing-10-30 years.
Riff offs happen everywhere......Istanbur is no exception.
This is for your protection.
Pudding shopはオフィシャルサイトもあり現在でも健在です。
ホテル・グンゴールは見つかりませんでした。グンゴールからブルーモスクまで直線で300m、トプカピ宮殿まで600mで一番遠いガラタ橋でも1.2kmで便利な上とても安いホテルなので世界中のバックパッカーが集まる訳だ。何時クローズしたのか残念なり。
1973.08.25. イスタンブール 22:45/FG708→06:15 カブール/Hotel
空港から迷わずホテルムスターファに直行
自由に水が使えるホテル
一歩外に出ると水の現実は
ここHotel MUSUTAFAは森川メモのオススメホテルでダブルルーム150アフガニ、シングル75アフガニ。しかも各階に2つぐらい共同シャワーがあり湯が出なくともマネージャーに言えば湯の出るところを案内してくれるそうだ。
入り口のカウンターにはニューデリー行きのバスの広告が度々貼り出されている。
ランドリーム割合安く朝出せば夕方出来上がる。
ホテル前の道路を渡るとカブールの共同水道。
近所の住民が薬缶やバケツを持って集まる。運ぶのは子供たち。
水道の水をいくらでも飲める東京では気づかない大事なライフラインだった。後ろがホテルムスターファ。
大通りを一本裏に入った路地では下水路みたいな所で歯を磨いたり洗い物をしていた。
これが日常で疑う事も無い子供の表情が明るい。
革袋に30キロを超える水を入れて半日がかりで山の上まで運ぶ人。
ホテルの正面が大きな山となっていて点のように小さな人影がいくつも革袋を担いで運んでいた。
#kabulwater
#water
1973.08.26. カブール
チャン アフガニ?
手刺繍のアフガンコート、ベストに
足型から作成のオーダーメイドのアフガンブーツ
値切りアフガン語で3大記念品をゲット
60年代後半から70年代にかけて新宿風月堂に集まるフーテン(長髪にラッパズボンで定職に就かない若者、和製ヒッピーの俗称)の中ではこのアフガンコートがいちばん人気を呼びファッションのステータス感もあった。何としてもこれが欲しかった。
森川先輩とフランクフルトで再会した時に教わったカブール土産物屋マップと値切る時に必要なアフガニスタン語の数字の特訓も受けた。これで根切り対策万全!
チャンアフガニ? はHow much?
1はヤク 2.ドゥー 3.セイ 7.ハフトゥ・・・10はダー、70はハフタッド、100はヤクサド、1000はハザールまたはヤクハザール。172はヤクサド・ハフタッド・ドゥー。
アフガンコートは現地価格より東京のクリーニング代の方が遥かに高かった。
さすがに現物は残ってないので写真は帰国した12月のタージマハル旅行団の大磯海岸オールナイトクリスマスイベント翌朝の西田。後ろは演奏中のタージマハル旅行団。
このアフガンコートとカブールで購入したオオカミのベストがお気に入りだったが、なめしが悪く10年位で毛が抜けてしまった。真冬の東京で上はTシャツ1枚にGパンでまったくOKだった。これ着てスキーもやってました。いわゆる目立ちがり。
足型をとってこれだけのものが何とニ晩程度で出来上がった。
昨年靴底が傷んでいたので修理した。修理代15,000円でこの靴が何足買えたか分からないがトップのイニシャル「KEI」とアフガンらしい刺繍が私の宝。この時今の女房にも「NAO」サイン入りブーツを作った。
40年近く手入れもせずほったらかしだったためミンクオイルをしこたま刷り込んで何とか履けるようにしたいが簡単に再生は厳しいかも。ハシシを求めて世界中からヒッピーが集まるため、頼めば踵にシークレット加工(御禁制品を隠す)もやってくれると言っていたがボーダーで捕まるだけなので低調にお断りした。
子供用も入れて現存する最後の3枚。このベストを大量に買ってお土産にした。
僕は好んで着まくったが普通の人は困った代物だったかも。
貴重なカブールの土産屋情報とアフガン語の数字。特訓のテキストなり!
1973.08.27. カブール
朝起きると体が痒い
発疹があり、ジンマシンの再発!?
薬を買うため銀行へ行った
カブールに着いた翌朝、体が少し痒くジンマシンが出たと思った。
早速街のドラッグストアに行ってみたがペルシャ文字!
腕の発疹や身振りで痒い痒い!アレルギーと訴えても全く言葉が通じない。
翌日の月曜朝一で銀行に両替で行った時に自分の症状を話してペルシャ語に翻訳してメモに書いてもらった。
このメモをファーマシーで見せると主人は私の腕を見てモスキートだと言った。
「NO.NO!」と答えると棚から2つ薬を持ってきた。一つはどこかのメーカーで安かった。片方はスイス、チバガイギー社の薬で10倍したが心配なので高い薬を買って飲んだ。
夜中にまた痒くなってベッドで考えた。
痒い所は足首や手首と首回り、腕そしてパジャマのゴムひも辺りに集中しているので
「あっ!ひょっとしてのみ?」と思い
部屋の電気を付けた瞬間!!!!! ササさーっと
黒い虫が四方に散らばった。
ベッドの枕を剥がすと血を吸った小指の爪ほどの虫がいた。
これはナンキン虫?
それまで見た事も無く知識も無かった虫だった。
これが森川先輩が言っていたナンキン虫となると、防御策はベッドの周りにDDTのフェンスで囲わないとだめだ。
現地のホテル従業員は平気で縄のベッドに半裸で寝ていられるのは皮膚が硬いのかしら?
ナンキン虫のお陰で寝れずホテルのテラスのデッキでボーッとしていると
「はーい!グッドトリップか? 俺はこの為にはるばる来たけど、毎日見るもの全てエキサイティングでファンタスティックなんでやってないんだ」と気さくなスイス人が話しかけてきた。
「僕はベッドバッドで寝不足なんだ」と答え、バックパック情報をいろいろ交換した。その後
「何故スイスは奇麗なのか?」と話をしたら地方地域によって家のデザインや建築方法など厳しい制約が多く大変で、自由を求めここカブールにやって来たが旅で凄い経験をしたのでこの先ハシシの世話にならずに生活出来ると言っていた。
お土産屋の人は隙あらば値段を上げてくるが、チャイハナ(地域コミュニティーの茶店)に集まる人も商店の人もまなざしが奇麗でいい人が多いアフガンなのに何故紛争が起きるのか分からない。
下記写真は代筆屋のおじさんに若者が恋人への手紙でも頼んでいるのか?今は全く見る事もないが、学生時代には渋谷のQフロントビル辺り?の恋人横町に代筆屋さんがいたはず。
#kabulBedbad
1973.08.28. カブール
食堂の2階に日本人らしき男女がいた
階段を上がって
「こんにちは!」と声をかけた
中近東に入ってから街を歩いて向こうから日本人らしき人に会ったら「こんにちは!」と声をかけるようにしていた。
ヨーロッパにいた時は、それほど日本人に会う事も無いしワザワザこちらから声をかける事は無かった。返事が無ければ中国系かベトナム系で、返事があれば日本人だ。
「あなたはどっちから来ましたか?何時日本発ったの?」と聞いて、
インド方面から着たバックパッカーからは現地のいい情報を聞き、こちらからは何処のユースがいいとか、国境越えのこの夜行列車はスリが多いらしいとか、歯が悪くなったらドーバーを渡れれば治療出来るとかいった情報を路上で交換しあった。
英語が堪能なら情報の質が良くなる事間違い無いが、僕のレベルは全神経を集中しなければ理解出来ないので大変疲れるため、切羽詰まらない限り英会話は二の次で旅を続けていた。
ケバブ屋の2階で声を掛けると「やあ!」と言う返事だったので隣に座らせてもらって話をしたのが森重春幸夫妻(帰国後胡粉と膠(にかわ)という伝統的な素材を用いて独自の技術で創る市松人形作家。工房朋 代表取締役)だった。
森川さんも長期新婚旅行中、パリであった葦原泰二さんも同じく長期新婚旅行中だった。話をしていると彼らもインド方面の予定なので北海道大学出身の森重夫妻と一緒に旅をする事になった。
森重さんが紹介してくれた冒険家の森田勇造(現在公益社団法人 青少年交友協会 理事長、帰国後参議院議員)さんの車でカブール郊外のバザーやテントのような家が点々とある集落等を案内して頂いた。
森田さんは長期の取材旅行が続くため、間もなく帰国する僕はコダックの100ft缶に入れた手巻きモノクロフィルムTRI-Xをお譲りした。
森川さんに聞いた話では中近東のハイウェーでガス欠すると近くで畑仕事をしていた人が鍬を銃に持ち替えて追いはぎされるので、車で走る時は出発前に必ずガスは満タンにし日没前には目的地に必ず着ける日程を組むように注意されていた。
日が陰りだしたこの時間にカメラを向けるのは一人だとかなり心配だった。
もう一人の日本人は京都大学法学部を卒業後、ソルボンヌの留学生で彼は相当たくましかった。
苦学生の彼の学費をの大半はここで仕入れたアフガンコートやベストなどを京都を中心に販売や卸で生計を立てているそうだ。
しかも1969年に開業したばかりのインターコンチネンタルホテルに滞在していろいろ買い付けをしていた。
そろそろ帰国日が近づくと
「部屋にナンキン虫が出た!こんな環境では滞在出来ないので●●ホテルに移動します。何日まで滞在しているので滞在費はお支払いします。責任者の方にお伝えください」
と言って正面玄関から堂々と出て来たと言っていた。
カブールではナンキン虫を完全に除去するのは困難なので取り立ては来ないはずと言っていた。
誰も思いつかないひどい話!だから
バックパッカーの間では静かに旅をしたければドイツ人。寂しくなったらアメリカ人。仲良くなったころ盗難にあうフランス人・・・一番怖いのは何するか分からない日本人だった。
手前が森田さんのワーゲンかも。ワーゲン無しではシルクロードは踏破出来ない。
アジアハイウェー、カブール郊外でセルフポートレート。
1973.08.30. カブール 08:00/FG308 → 11:00 デリー/Hotel
Ariana Afghan Airlies朝8時便で
デリーに向かう
イスタンブール→カブール間も
アリアナ?
航空券はAir France発券だったがエアフランスは世界一周便だからアテネを出たら次の寄港地はデリーの可能性が大なり。
記憶が曖昧で航空券の控えも残っていないためアテネ→イスタンブール→カブールは旅程に合わせてエアーを変更していたかも知れない。
唯一の記憶はイスタンブール→カブールのリコンファームのためにガラタ橋を渡ってエールフランスのオフィス(Cumhuriyet Cd No:197)まで行ってクタクタになった事。今回ネガを詳細に見るとカブール空港の搭乗ロビーからの画像をみると機体は Ariana Afghan Airlinesだ。
その都度国営航空会社のチケットに変更していた可能性がある。以下が当時の飛行ルート。
アテネ→イスタンブール Olympic Air
イスタンブール→カブール Ariana Afghan Aairlines トルコ航空の便が無いため(現在)
カブール→デリー Ariana Afghan Aairlines
インド国内 Indian Airlines 2011年に吸収合併され現在はAir India
ベナレス→カトマンズ→デリー Royal Nepal Airlines 2006年国名改称のため現在はNepal Airlines
デリーバンコク PAN-AM
バンコク→香港 PAN-AM
香港→羽田 PAN-AM
カブール空港は機体まで徒歩だ。バスで移動はそれなりに大きな空港だけだった。
写真下は森田勇造さんの車でカブール郊外を案内して頂いたときのショット。多分レンガを焼く窯から出る煙が印象的で、その後のアフガン侵攻など微塵も感じさせない長閑さだった。
わかる!
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ビジュアル コミュニケーター!
ハッとして、心に残る写真、デザイン、編集します。