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クレジットカードも無い1973年、

バックパックとニコンFで

格安世界一周 写真旅

 

 

1973.08.11. カンヌ→ヴェネツィア/Pen

アドリア海の真珠ヴェネツィアへのアプローチは

心地よい海風を受け

干潟を渡る鉄橋のレール音が止まると

ヴェネツィア・サンタ・ルチーア駅に到着

イタリア本土から全長3850mの自動車専用のリベルタ橋(Ponte della Liberta、自由の橋)と平行している鉄橋はオーストリア帝国支配下の1842年に開通した。
リベルタ橋はムッソリーニにより1933年にリットリオ橋として開通したが第2次世界大戦後ファシズムからの開放を記念して改称された。
駅舎を出るとヴェネツィア島内移動は水上バス(vaporetto、ヴァポレット)や水上タクシー(motoscafi、モトスカーフィ)は利用せずほぼ徒歩。

ヴェネツィア1973 撮影 西田圭介

ヴェネツィア

島内の自動車移動は勿論不可で車椅子や乳母車以外の自転車の使用も禁止らしいが刃物研ぎの自転車だけが許されているみたい。
グラインダーより砥石だと嬉しいけど、日本でも刃物研ぎの職人さんが減っている。

ヴェネツィア1973 刃物研ぎ自転車 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.12. ヴェネツィア/Pen

鳩、鳩、鳩

サンマルコ広場で撮影された

巨大なコカコーラの鳩ロゴ

この旅行で一番ビックリしたポスターはサンマルコ広場に面したジューススタンドで目にしたコカコーラのモノクロポスターだった。てっきり複写したつもりだったがネガが無かったのでググってみたら発見できた写真がこれ!
記憶では完全なコーラのロゴだったが少々違っていた。コーラを飲みながら考えたのは鳩の餌を上手くボンドで広場に貼ってテントで覆い撮影直前に剥がす。しかも観光客の少ない時間帯に大多数の鳩も集める・・・
許可を含めて簡単な撮影ではない。しかもロゴ部分にはびっしり鳩が集まっていた。凄い名作!

サンマルコ広場1973 コカコーラと鳩

Absolutのこんなポスターもあるらしいがコーラは凄い!

サンマルコ広場と鳩 ポスター

 

 

1973.08.13. ヴェネツィア→フィレンツェ/Pen

街中がメディチ家のコレクション

ウフィツィ美術館でプリマヴェーラ、ヴィーナスの誕生

科学史博物館でガリレオの使った実験器具に出会えた

旅をするなら自然の豊かな所が一番だが、美術館は大都市にあることが多い。この時代でも有名な美術館がある都市は観光客も住人も多く概ね騒がしいのと宿泊費が高いのが難。
ゴッホ美術館、アムステルダム国立美術館、ルーブル、イエナ、オランジェリー、プラド、ピカソ・・・。シニョリーア広場に面したヴェッキオ宮殿前にはミケランジェロのダビデ象(レプリカ)達が出迎えその奥にウフィツィ美術館がある。教科書にも載っているボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」と「プリマヴェーラ」を見た。
画集で見るのと違って原画の色は素晴らしく、ガラスケースも停止線も無いためゆっくり観賞でき日本の美術館では考えられない撮影も可能だった。撮影中止で終日美術鑑賞!

フィレンツェ1973 ヴィーナスの誕生 撮影 西田圭介

フィレンツェ科学史博物館("Museo di Storia della Scienza")は、ガリレオ・ガリレイの科学実験器具のオリジナルがある貴重な博物館(2010年にガリレオ美術館に改称。On June 11, 2010, the Institute and Museum of the History of Science reopens and changes its name into Museo Galileo.)ここは地味ですが必見です。

フィレンツェ1973 SL 撮影 西田圭介

久しぶりにSLに出会った。

 

 

1973.08.15. フィレンツェ→アッシジ→ローマ/Pen

バルセロナで一緒だった学生とフィレンツェ駅で再会

シエナのパリオ祭見学、城壁都市アッシジ調査の

ニ択でローマ入りを決める

ローマ行きの列車を待っていたらバルセロナでガウディを案内してくれた東工大建築科の学生とバッタリ再会。彼らは二手に別れシエナ経由とアッシジ経由でローマを目指すそうだ。
どちらの都市も初めて聞いた情報だった。シエナのパリオ祭は1147年から800年以上も続いている祭りで例年8月16日に行われ 祭りのメインは騾馬を使った競馬レース。17のコントラーダと呼ばれる地区に分かれてカンポ広場で行われる競馬レースを見学するコース。
もう一つは城壁都市として見るべきものが多いアッシジコースだった。お祭りもいいが人が多いのはつらいので迷わずアッシジコースに同行した。

アッシジ1973 撮影 西田圭介

1866年に出来たアッシジ駅から5キロ程の正面の小高い丘に城壁で囲まれた都市だ。

アッシジ1973 撮影 西田圭介 

ゴシック建築の聖フランチェスコ聖堂はこの町出身の聖フランチェスコの伝説に導かれた多くの巡礼者が訪れる事で有名。
丘陵地帯に出来たアッシジの街は曲がりくねった路と数多くの階段が迷路のように入り組みカラー写真のような目抜き通りでもパン屋さんや鍛冶屋などの生活商店があるだけで土産物屋もほとんど無く観光客も少なく静かな街だった。
とても気に入って1990年に小学生の娘を連れて家族旅行で再訪した時はビックリする変貌ぶりだった。生活者以外の車の乗り入れ禁止のため街の入り口に新設された巨大な駐車場には数えきれないバスと車! 写真のような坂道一杯にこれでもかと土産物を並べ、いたる所にカフェやレストランが出来、完璧な観光都市になっていた。
92年にも隣町を通ったが車から町並みを見るだけで立寄る気すら起きなかった。と思うのは旅行者のエゴなのか・・・

アッシジ1973 撮影 西田圭介

アッシジ1973 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.16. ローマ、バチカン

バチカン美術館の二重螺旋階段と

システィーナ礼拝堂に差し込む光が

アダムの創造最後の審判を神秘的にさせる

ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画は1979年に試験的な修復作業が始まり、1980年から1999年12月までかけて大規模な修復作業が行われ、その後最後の審判の修復が行われた。
写真(モノクロ)は修復前のロウソクの煤などの影響でモノクローム調になっていた。本来は色彩豊かな作品だったかも知れないがエイジングで抑えられた色調を見る事ができて幸運だった。

バチカン美術館1973 二重螺旋階段 撮影 西田圭介

二重螺旋階段で上りと下りが整然と区別される現代建築にも負けない造形力。

システィーナ礼拝堂1973 撮影 西田圭介

アダムの創造 システィーナ礼拝堂1973 撮影 西田圭介

最後の審判1973 システィーナ礼拝堂 撮影 西田圭介

システィーナ礼拝堂の天井に差し込む神秘的な光が「アダムの創造」と「最後の審判」を際たてる。

 

 

1973.08.17. ローマ/Pen 

テレビのアート担当プロデューサーから

ミロとダリの取材スケジュールのレターを受け取りに

JALローマ支店に向かった

テレビの特別番組企画で「20世紀の巨匠ピカソ、ミロ、ダリ」取材班にカメラマンとして同行できるチャンスがあった。横浜を出航する直前の1973年4月8日にピカソが急逝したため当初の取材スケジュールが組めなくなり、改めてミロとダリの取材スケジュールの組み直しになったが巨匠たちのスケジュールが決まらずバイカル号に乗船する日を迎えてしまった。
早く決まればパリ支局に連絡があるはずだったがテレックスは入って無かった。
遅くても8月中にはバルセロナに集合予定だったのでワクワクしながらトリトーネの噴水が目印の日本航空のローマ支店に行った。

ローマ1973 

パリから初めて会社に電話をかけた7月初旬、相性が悪いデスクがいきなり
「西田!写真撮れたのか?お前パリにいるんだろ」
「えっ!何の写真ですか?」
「ツポレフだよ。パリの航空ショーだ。お前新聞読んでないのか?こんな大事件知らねーのか!毎日遊んでんじゃねーか」
これは6月の3日にソ連の超音速輸送機ツポレフ144が、ル・ブルジェ空港で開催されたパリ航空ショーで墜落し、乗員6名と地上の住民7名が犠牲となった事件の事だった。6月3日はストックホルムにいた頃で撮影出来る訳も無かった。
この電話でフジテレビからの連絡の有無を聞く予定だったが会話が続かずこちらから電話を切った。帰国後にお会いした取材スタッフによると連絡を入れるため電話した時にデスクから
「何だその企画、聞いてないし許可してない。西田から何の連絡も無い。生きてるか死んでるかも分からない」と言われたそうだ。
大事件といえば、7月20日にはテルアビブ空港乱射事件で逮捕された岡本公三の釈放を要求した「ドバイ日航機ハイジャック事件」もあり日本人バックパッカーは空港での検査が厳しくなった。
残念な事にJALに手紙は届いて無かった。
この取材のためにバックパックの一番底に畳んだままのサファリジャケットを着る事も無くなった。
東京に電話(国際通信のKDDによればコレクトコール3分4320円。パーソナルコール8612リラ。大卒初任給4万〜5万)する事も考えたがローマを離れるまでにコンタクト不可だったりスケジュールが合わなかった場合のプランがあった。
第2プラン決行かも

ローマ フォロロマーノ1973 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.18. ローマ→ポンペイ→ブリンディシ

東京とダリ、ミロ取材の連絡取れず

中近東、インド目指して

東に舵をきった

小野田出版局長から
「おめぇ、本当に3ヶ月で帰ってくるのか?」
と出発の前にぎょろりとした目で睨まれて言われた帰国日の8月25日は来週だ。
日本航空ローマ支店にダリとミロ取材の最終スケジュールの手紙は残念ながら届かなかった。
取材用のスーツをこれ以上小さく出来ない位に畳んでバックパックの奥底に押し込んで、中近東・インドに向けて進路を東に決めた!簡単に帰国出来そうも無い。
取り敢えずイスタンブール目指してポンペイ経由でイタリアの踵にある港町ブリンディシに向かった。

ポンペイ1973 撮影 西田圭介

ポンペイ1973 撮影 西田圭介

全財産をバックパックとカメラバッグに入れて昼時のポンペイ見学は疲れた。
アップダウンのあるアルハンブラ宮殿も厳しかったが、真夏の太陽が直接降り注ぐ屋根の無い広大な遺跡内を歩き回ると、ヴェスヴィオ火山噴火から逃れる人のように熱く辛い午後だった。
この時代から娼婦の館などがありポンペイは快楽の都市とも呼ばれる壁画が多数残っているホットな街。

ブリンディシ1973 撮影 西田圭介

ギリシャ・パトラスに向け久しぶりの大型客船。いい感じの日焼け、しかも地中海クルーズ!Ci vediamo!アリヴェデルラ イタリア!

 

 

1973.08.19. ブリンディシ16:00→パトラ→コリントス運河→13:00 アテネ

アドリア海、地中海、イオニア海の航路

甲板でエンジン音を枕に

大の字で仰ぎ見た人生初の天の川

イタリアとギリシャを結ぶポピュラーな航路で北欧以来の久しぶりの客船だった。
日没後甲板で気持ち良い海風を受けながら見上げると満天の星空が広がっていた。甲板の照明を避けて暗がりから見上げると更に星の煌めきがアップした。ロケハンの結果エンジンの排気煙突の根元のデッキが一番暗く日中の日差しで暖かくなったウッドデッキの感触と温度が最高のポジションを見つけ大の字になった。
星が流れる川のようになっているから「天の川」そうか!この時初めてMilky wayを見た。水平線まで見渡す限りの★。
今程東京の空は小さく無かったが子供の頃から何故星座のイラストが思い浮かぶのか全く分からなかった。これだけ星の密度が高いとイマジネーションの優れた古の人なら思い浮かぶのだろうと思った。
残念ながら気持ち良く星座観賞をしていたので撮影忘れました。画像はイメージに一番近いナショナルジオグラフィックの画像です。

天の川

翌朝パトラに着いてバスでアテネに向け移動中バスの中から撮影したコリントス運河。
一直線に削られたコリントス運河は、閘門(こうもん)を 持たない水位が一定の運河で、コリントス地峡の丘を一直線に縦断して掘られている。全長6343m、運河の幅は水面部で24.6m、河底部で21m、深さ は8m、運河の途中に鉄道橋と道路橋があり桁下は52mとなっている。丘の高いところでは標高約79mほどもあり、丘の区間では両側に高く切り立った崖が せまる細い水路を船が通過する凄い運河だ。

コリントス運河1973 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.20. アテネ/Pen

エーゲ海の風が吹き抜ける

アクロポリスの記念写真屋さん

ポストカードサイズ3枚で50ドラクマなり

アクロポリスの丘にいた何人もの観光記念写真屋さん達は皆不思議な「暗箱」タイプのカメラを使っていた。
しかもこの箱の中に暗室機能がついてるみたいだった。フィルムホルダーを使用しているようには見えずどんなプロセスでポストカードサイズのモノクロプリントが生成されるのか謎。ただフィルムチェンジャーのように2つの袖口から両手をいれ何か作業をしていたので、もっと観察すべきだった。
想像ではペーパーネガを作って、密着プリントを作ってるのかと思うがコントラストは奇麗なのでネガにするペーパーは相当軟調なのかしら?
アクロポリス1973 撮影 西田圭介

アクロポリス1973 撮影 西田圭介

アクロポリス1973 撮影 西田圭介

パルテノンの神殿の日陰でバックパックをクッションにエーゲ海からの風を受けてボーッとしながら下した最後の決断は変わらなかった。帰国のタイムリミットは明日に迫っていたが、まだギリシャ。
気持ちは陸路でイスタンブールだが、明日からパンナム南回りで中近東、インドに向かう。
いつの間にか下着のランニングが通常ファッションとは、日焼けして充分汚いヒッピーになってしまった。こんな格好で入国の度に職業フォトジャーナリストと書いても誰も信じない。少なくとも今の自分は・・・

アクロポリス1973 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.21. コリントミケーネエピダウロス/Pen

またしても再々再会した東工大生による

建築学解説付き古代ギリシャツアー編

エーゲ海は打ち寄せる波もなく緩かった

バルセロナで出会いフィレンツェで再会した東工大の学生とローマ、ポンペイ、アテネと何度もコースが一緒になってその都度詳しい解説が聞け勉強になった。
彼らとまたしてもアテネで出会いコリント、ミケーネ、エピダウロスを案内してもらった。彼らとの出会いが無ければこんなには回れなかった。中でもエピダウロスの円形劇場は舞台のセンターで話す言葉がはっきりと最上段の席まで聞こえ、写真のような表面が虫食いの座面がなんとも言えない座り心地に2度ビックリした。
今回この円形劇場のある地名を完全に忘れてしまった。
記憶にあった検索ワードは円形劇場、海のそば?だけだったためパトラからコリント、ミケーネ〜アテネとGoogle Earthと画像検索で懸命に探した結果、上空からこの同心円を見つける事ができた。しかしGoogle Earthにある画像は間違いの多い事も判明した。
コリントやミケーネのエリアにポンペイやフォロロマーノの画像が貼られていたり、他の地域の円形劇場があったりいろいろでした。古代遺跡と言う共通点はありますが、皆さん検索結果を鵜呑みにせず検証は必要です。
エピダウロス1973 撮影 西田圭介

ミケーネ1973 撮影 西田圭介

古代ギリシャの文明力に刺激を受けたあと海に向かった。夕方近くオリーブの畑を抜けたエピダウロスの海岸は人気も風も無く海面は湖面のように平で波も無かった。
誰もいないので裸で海に入ってビックリした。ぬるい!ポルトガルのナザレで触れた大西洋はとても冷たかったがエーゲ海は人肌でぬるかった。後に行ったハワイやフィジーの海水より緩かった。

 

 

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