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1972年 あさま山荘事件ほか 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局怒涛の1972年

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NEWSなスクープ 三島由紀夫自決 701125 週刊サンケイ 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局 © NISHIDA, Keisuke / HJPI320200000636 www.jpca.gr.jpNEWSなスクープ

 

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#三島由紀夫自決事件
#1970年11月25日
#牛込警察署検視現場
#三島由紀夫
#森田必勝
#週刊サンケイ
#スクープ

高感度モノクロームフィルムと脳裏に焼きついた記憶の潜像 

三島由紀夫自決事件の検視は

牛込警察署のガレージで突然始まった

1970.11.25

三島由紀夫没後50年の10月始めフォトジャーナリストの山本皓一さんのFBで知った
『三島由紀夫事件 検視写真が語る「自決」の真実』宝島SUGOI文庫(※以下三島由紀夫検視)
早速購入して一気に読んだ。

1970年11月25日、ノーベル文学賞の候補にもなった作家・三島由紀夫が「楯(たて)の会」のメンバーとともに東京市ヶ谷自衛隊駐屯地に乱入し、自衛隊に決起を呼びかけた末に割腹自殺を遂げた事件は各紙の一面やテレビ、ラジオ、週刊誌の報道担当者に激震を与えた。

サンケイ新聞と朝日新聞が報じた自決した総監室の現場写真は幾度となく取り上げられたが、住宅街にあった牛込警察署は事件当日も静かだった。
大宅壮一文庫で新聞、週刊誌の記事を探し、撮影した写真プリントを改めて読み込んで二ヶ月、細部のディティールがハッキリした。

1970年能率手帳。宝島SUGOI文庫『三島由紀夫事件・検視写真が語る「自決」の真実』
1970年11.25の能率手帳と
宝島SUGOI文庫『三島由紀夫事件・検視写真が語る「自決」の真実』


週刊サンケイ1970年12月14日号(毎月曜日発行 11月30日発売 特別企画100円)
以下、巻頭グラビア『三島由紀夫 自決への記録』より、原文ママ。

「要求がきかれない以上は、身をもっていさめるしか方法はない。私以外の隊員は釈放してくれ。私は腹を切って死ぬ。自衛隊よ、しっかりしろ」
 と、いったのが、日本を代表する数々の名作を書き、さらに行動で訴えてきた作家、三島由紀夫の最後のことばだった。
 文章でも行動でも、訴えきれなかった三島の主張、思想とは何か。
 日本的な美の探求、天皇へのあこがれ・・・・・・その思想にたいし、新憲法下の自衛隊をはじめ、昭和元禄の日本の現実は三島にとってあまりにもかけはなれていた。
「私は戦後の偽善にあきあきしていた。日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使われた結果、日本ほど平和主義が偽善の代名詞になった国はない」
 その思想を守るには、命を賭けねばならぬと、自ら結成した「楯の会」で説明している。
「行動の河には、書物の知らぬ涙があり血があり汗がある。言葉を介しない魂の触れ合いがある。それだけにもっとも危険な河はこの河であり、人々が寄ってこないのも尤もだ。・・・・・・ただ、男である以上はどうしてもこの河の誘惑に勝つことはできないのである」(行動の河)
 その行動の結果、十一月二十五日正午過ぎ、東京・市谷の自衛隊東部方面総監部の総監室で、三島の首は血まみれの胴体から一㍍離れてころがった。

扉ページの写真キャプション▼
25日夜、三島らの首は検死(※記者ハンドブックでは検視)のため市谷の自衛隊から牛込署にビニールに包まれて運ばれた。

サンケイ新聞本誌写真部のS先輩が撮った写真のキャプション▼
総監室で益田兼利陸将を人質にして脅迫した三島は、要求が入れられないと知ったあと、益田陸将の目の前で切腹、同行した会員、森田必勝(自決)が日本刀で介しゃく、首のない胴体から流失血が床をまっ赤に染めた。

サンケイ新聞701125夕刊1面 701125三島自決 週刊サンケイ12/14号 朝日新聞夕刊1面
左/サンケイ新聞11/25夕刊 1面。 右/週刊サンケイ1970年12月14日号表紙と朝日新聞夕刊

11/25朝日新聞夕刊1面 朝日新聞11/25夕刊1面、左下に2人の首が

JIJI.COM 三島由紀夫事件 写真特集はこちら

NHK 当事者たちが真相を明かす 三島由紀夫事件はこちら

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100大事件SP 録音した文化放送/三木明博さん、三島由紀夫を説得した牛込警察署長/三澤由之さんの話はこちら

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701125 三島由紀夫割腹事件 サンケイ新聞夕刊1面

 

 

「サンケイの方ですか?ご伝言があります」

 

1970年11月25日(水)昼過ぎ、目黒川沿いにあった都内唯一のコダクローム II(Kodachrome II、ASA=ISO感度25のデイライトカラーリバーサルフィルム)指定現像所だった五反田・東洋現像所(現:東京映像センター)に届けた時、受付で大至急会社に連絡をと伝えられた。

受付の並びにあった赤電話に10円を入れ、局番3桁+固有番号4桁のダイヤルを回した。

「おうっ、聞いたか?」
「えっ?」
「お前ニュース聞いてないのか。三島が割腹したんだよ。すぐに戻って写真撮りに行ってくれ!」

電話口の出版局写真部デスクから高揚した声の指示を受けた。

前年の1969年に題号デザインを変えた「サンケイ」の社旗をつけた産業経済新聞社自動車部のラジオから、作家の三島由紀夫が市谷の自衛隊東部方面総監部の総監室で「楯の会」の若者の介しゃくで割腹自殺を計ったと報じていた。

江戸橋にあった出版局に戻り、ロッカーから東京写真記者協会とサンケイの腕章を取り出し左腕に安全ピンでとめた。
カメラバッグにNikon Fといつものレンズ3本、ニッコールオート 24ミリF2.8、50ミリF2、105ミリF2.5を入れ、仕事の合間に用意していたローダー(100ftフィルムを富士フィルムのSSパトローネに約36枚撮りになる長さに切り分けて巻いたもの)で手巻きしたKODAKの高感度モノクロームフィルムTRY-X(トライエックス)を黒の遮光ビニール袋で包んだ100ftトライXが入っていたトライ缶に詰めると12本でピッタリ収まる。
これをカメラバッグに押し込みながらデスクに、何処に行けばいいのか聞いた。

「サンケイ本紙写真部情報によるとこの後、ご遺体は市谷の自衛隊から牛込警察署に移送されるらしい。とりあえず牛込署に行って現場写真撮ってこい」と指示された。
※同日午後5時15分、三島と森田の首と遺体は検死のため移送/三島由紀夫検視140p

「江戸橋の産経新聞出版局に一台お願いします」

無線タクシーを呼んで牛込警察署が何処にあるのかも分からず運転手さんに
「牛込警察署お願いします」と伝えて現地に向かった。

「お客さん、今日は三島さんの切腹取材ですか」 運転手さんは興味深げに聞いてきた。
「運転手さんの方がラジオ聞いてるから詳しんじゃないの」

牛込署に着くまで、運転手さんからラジオ情報を聞いても全貌は皆目見当もつかなかったし何処走っているのかも分からずカメラバッグを後部座席の奥に押し込んだまま、ぼーっとしていると牛込署に着いた。

民放の人気ドラマ『太陽にほえろ!』は三島由紀夫自決から2年後の放映で、小学生の頃よく見ていたのはNHKの連続TVドラマ「事件記者」だけだった。その程度の知識で初体験の大事件が牛込署の現場だった。
非常線のロープもなく近づきにくい厳しさという風でもなく入口あたりに警備の警察官が数名いるだけで各社ともヘリ、地上取材共に総力あげて自決現場にいて牛込署は静かだった。

 

牛込警察署 三島由紀夫事件検視
緊張感は感じられなかった牛込署

正面入り口にいた警察官に挨拶をして、玄関からロビーに入ると刑事風の人やマスコミの記者、ストロボをつけたカメラマンなどがちらほらいるだけだった。
不確かな記憶では腕に「広報」の腕章を着けた、がたいの大きな警察官に


「三島さんのご遺体はどこで撮影させていただけますか」
「あんた!何言ってるの、どこの社?」



右腕の腕章を見せながら

「サンケイ新聞出版局写真部の者です」

応えたが相手にもされず警察官はその場を離れた。そのやり取りを見ていたのか突然現れたサンケイ本紙写真部のN沢さんとメガネのH沢さんが近づいてきた。

「お〜っ、何怒られてんだ」

困ったなーと思ったが助け舟とばかり、ご遺体の写真を撮りに牛込署に行ってこいとデスクに言われてきたものの、どこでどう撮影すれば良いかも分からなく、どこで撮影できますか?って聞いたら、どこの社?って言われました。

「お前!ばっかだなぁ〜。そんなもの撮らせるわけ無いでしょ」
「何、寝ぼけたこと言ってるんだ」
「いゃ〜、指示はされたけど経験もなく何も分からないので聞いてみました」

本紙情報で駆けつけた先輩カメラマン以外、他社のカメラマンも少なく何するわけでもなく手持ち無沙汰でロビーにいた。

「冷え込んできたから、ちょいトイレ行ってくるわ」

先輩が用足しにロビーの奥へ歩き出し駐車場に面した薄暗いトイレについて行った。手を拭きながら駐車場側の窓からすっかり暗くなった表を見ると、左側に牛込署の塀が続き一番奥の角に車が2〜3台入るシャッターを開けたままのガレージの内外に大勢の捜査関係者や警察官が集まって何か作業をしている感じだった。
もちろんその時は人混みで中は全く見えなかったが天井の電球と強い写真照明用の500㍗のフラッド電球が何かを照らしていた。

701125_牛込警察署三島由紀夫自決事件検視


まさか、奥のガレージで検視?

左の塀越しに覗けば世紀のスクープが撮れるかも……

「ちょっと、見に行きましょうよ」

本紙の先輩に提案した。

「お〜っお前、相変わらずだな」で終わった。

僕は単身で牛込署の裏手に周った。
門灯より明るいライトがガレージ横にあり、ランプカバーから溢れる光が裏門の柱を照らし少し眩ししかった。とりあえず1カット撮ってからよく見ると門の外にいた男がじっと中を覗いてた。気づかれないように僕はそっとその場を離れ、トイレから見た塀の方に移動した。

701125 牛込署裏門と人影 裏門から牛込署をじっと見る男がいた

現在の牛込署 赤丸が当時のガレージがあった場所 2016牛込署 裏門
2016年、牛込署の近くであった打ち合わせの後、記憶を確かめるため事件後初めて裏門を見に行った 。建て直された庁舎は近代的に生まれ変わっていた。
左/Google mapの赤丸の位置にガレージがあった。塀沿いにも大きな家が建っており当時の面影は全く無かった。あれほど高く感じた住宅側絡みた外塀も盛土され普通の高さになっていた。世話になったペンキ屋さんを探したが、商店街すら見つけることができ無かった。あれは幻影だったのか?


牛込署の塀は高さ2㍍以上もあった

背伸びしてもガレージを覗くことはできなかった。

そうだ!

長い梯子や脚立を使う職業は植木屋さんか大工、ペンキ屋さんだ。
そこで夕方の買い物途中の奥さんに聞いた。

「この辺りで植木屋さんか大工、ペンキ屋さんのお店、知りませんか」

次にたばこ屋さんで同じことを聞くとペンキ屋さんを教えてくれた。
ご主人が店の入り口で何やら作業をしていたので、名刺を差し出しながら

「週刊サンケイの者です。三島事件であちらの牛込署に取材に来ました。小一時間ほど撮影に梯子をお借りできませんか?終わり次第すぐにご返却いたします」

かがんでいた体を起こしながら、腕章と僕の顔を見て二つ返事で

「そこにある梯子なら構わないよ」と言われた。
「保証金の持ち合わせがこれしかないですが、いかがでしょうか」
「金なんぞ必要ないよ」

快く貸していただいた。
早速大きめの長梯子を担いで牛込署に向かった。
見上げた初冬の夜空は、月も出ておらず署の外塀は庁舎の灯りとガレージの方から少しだけ差し込む明るい光が逆光気味に見え外側からはコンクリの質感すら分からないほど漆黒の壁に見えた。

塀に近づきガレージ裏に梯子を立てかけてみると長さが足りなかった。
それでも左手で梯子を掴みゆっくり登って安全を保てる上段に立ってみたが僕の身長では覗くこともできなかった。次にガレージから少し離れた大久保通り側にも行って梯子をかけると中庭がよく見下ろせ署のトイレから見た光景より高いアングルで狙えた。

ー中略ー

近くで見るとガレージではなく倉庫のようだった。春、秋の交通キャンペーンの立て看板が入った倉庫の中が急に騒がしくなった。

右側の倉庫側で数人の警察官や検視官が、棺らしきものを運び込んでいるように見えた。
TTLではなかったアナログカメラのニコンF。
500㍗の写真用照明フラッド電球も点灯していた倉庫内の照度ならトライXフィルムをASA800相当に増感現像すれば、絞りF4でシャッター速度1/60秒で撮影可能と判断し慌ててシャッターを切った。

直後に、左側の人混みの中にシャツかジャンパーの袖口を折った両手でラップか透明ビニールで包まれた何かを抱えている捜査関係者に気が付いた。露出と縦位置、横位置とアングルを変えながらシャッターを数回押した。
そのシャッター音(クイックリターン方式ミラー音)かフィルム巻き上げ音に気づいたのか倉庫の外にいた刑事風の二人がこちらに鋭い視線を向けて近づいてきた。

701125 牛込署 三島由紀夫検視
高くあげた左手で500㍗のランプを下に向けた検死官がいた

 

これはまずい

ー中略ー

とっさの判断で●●●●●●●●●をカモフラージュして切り抜けた。

二人の警察関係者は塀際からしばらく厳しい目で見上げていたが倉庫の方に戻り、それまで全開だった倉庫のシャッターを大きな音を立てながら半分ほど引き下ろした。

駆け出しの僕は、ひょっとして職務質問を受けフィルム没収ってこともあると感じ、20カットほど撮影したフィルムを巻き戻し左足の靴下の中に収め、新たなトライXフィルムをニコンに装填した。

ー中略ー

 

決定的瞬間はTRI-Xに潜像として記録された

 

撮影済みの2本目のフィルムを巻き戻し、右足の靴下に押し込んで梯子を担いで返却に向かった。

今のデジカメなら早速プレビューして確認できるが、フィルム現像が終わるまで結果はわからない半世紀前のアナログ写真時代。

※使用写真はプリントをデジタル化してトリミング。
 当時は無かったブログメディアも進化を遂げ、いい面、便利な面も多々あるが、ここでは一部を割愛(中略部分)しました。701125 牛込警察署三島由紀夫検視

商店街で梯子を返し、タバコ屋さんの赤電話から一報を入れた。

「何か撮れたか?」

写真部のデスクに聞かれた。

「三島由紀夫か森田必勝のご遺体と
頭部を持った捜査員のカット、2枚撮りました」

 

「本当か。すぐ戻ってこい」

牛込署に残っていた本紙の先輩たちに挨拶もせず、大久保通りでタクシーを拾って江戸橋の社に帰った。

写真部のある4階でエレベーターを降り、ドアを開けると、写真部長と先輩たち、週刊サンケイのグラビア班デスクが振り返った。

「どんなが写真が撮れた?詳しく聞かせて」

編集デスクへの報告が終わると

「分かったすぐ現像してプリント焼いて!」

暗室に飛び込んだ。
本社や出版のフィルム現像暗室はトライX用の現像液D76を100㍑程入れた深タンクと増感現像専用のパンドール深タンク、定着液の入った深タンク、水洗用の4本のタンクがあった。暗闇に目が慣れないと見えにくいフィルムを感光させにくい暗赤色のフィルターがついたセーフティーライトと現像の進行状況を確認する時だけ一瞬踏んで点灯し確認するフットスイッチがセットされていた。
通常はフィルムが感光しないように暗闇の中で手探りで作業する小さな暗室が2部屋あった。

朝晩が冷え込む秋から春にかけての季節は出社して朝一番で棒ヒーターを入れ、液温を20度にセットするのが新人の僕の担当だった。当日はいつも通り10時に出社したが雑用や現像所へのフィルムの届けもあり日課を怠ったため液温は18度を切っていた。
慌てて1本しかない棒ヒーターをD76深タンクに入れたが30分たっても液温が上がらない。
編集部からはプリントはまだかの催促。
1度ぐらい低くても現像時間をちょっと押せば(長く)ASA(ISO)320〜400相当の標準感度で適正露光撮影したフィルムなら大した問題にもならないが、肝心の増感用パンドール現像液も温める必要があり、熱を帯びた棒ヒーターを移動し15分ほどタンクに入れて増感現像液の温度も上げた。

※ アナログ時代の35ミリ用フィルム現像方法には
1:リール現像 
 中高校生時代はフィルムの現像は近所の写真屋さんにお願いしていたが、大学の実習以外では経験は無いに等しくたった一つ購入したステンレス製のタンクとリールは消失した
2:深タンク現像 
 大学1年の暮、サンケイ新聞出版局の臨時暗室バイト要員で初めて出会った
3:皿現像
 新聞社の支局や通信部でたまにある写真現像やプロ野球場に現像車の乗り入れが出来ない場合、試合途中に締め切りが迫ると35ミリフィルムの切り現(撮影済み数カット部分の数十㌢だけを切って臨時の暗室テント内でバットに入れた現像液にフィルムを浸し左右に動かしながら攪拌と現像を行う)。巨人V9を阻止し20年ぶりのリーグ優勝した1974年中日球場で撮影が終わった僕は、本紙先輩の助手をしたことが1回だけあった。外気温に加え大人二人の暗室テント内では指先もバットに入れると気温・液温は20℃をはるかに超えていた。
※ 手ブレが起きやすくなるシャッタースピード
三脚を使わずにストロボなし、手持ち撮影でモータードライブ無しの手巻きあげアナログカメラNIKON Fの撮影で手ブレ(撮影した画像がブレる)が目立たない低速シャッタースピードは僕の場合、通常は1/15秒で左腕や両肘が固定できる場合は1/4秒程度が限界だった。デジタル時代の現在も変わらない。
野球のナイター取材は200ミリ以上のF値が暗い望遠レンズを使用するため三脚を使ってレンズは解放でTRY-Xフィルムでバットや体のブレが少なく撮影するには1/250より早いシャッター速度で撮影し、フィルム感度を上げた増感現像処理で調整するのが常だった。

 

深タンク現像は、フィルム暗室に入ってドアを閉め、表裏が赤黒の遮光用カーテンを引いて暗黒にし、撮影済みフィルムを巻き込んだパトローネ(フィルムを装填した丸い金属製の筒ケース)からフィルムを巻きつけたスプールの突起部を下にしてパトローネの腹を小指以外の右手4本でしっかり握り暗室の隅にある棚にガツンと叩きつける。
すると、突起部分の反対側のパトローネの金属の蓋が外れ、スプールに巻かれたフィルムを取り出すことができる。
これを左手に持ち替えて、フィルムの膜面を下向きにして先端から磁器製の錘(おもり)を通し、フィルムをU字型にしてフィルムの最後を止めたセロテープをスプールから外し、フィルムの最後と最初を浮きとセットになったクリップに挟み、深タンクに入れ浮きの頭を持って気泡がフィルムにつかないよう上下に動かしながら現像液の攪拌と現像をする。
トライ缶一つに入れた12本のフィルムを同時に処理できる超便利な現像方式だった。

左の靴下に忍ばせた棺桶の搬入とラップに包まれた頭部を持った検死官を撮影したフィルム1と、右の靴下に入れた検視中の検死官が覗き込んでいるブルーシートに寝かされたご遺体を撮ったフィルム2。
たった2本の現像だからクリップの浮きにマーク(セロテープなどの印)も付けずD76現像タンクの左右に分けて入れた。トライXフィルムの感度をASA800相当の増感現像なら攪拌しながら10分程度で終わるはずだ。暗闇の中で3度目の攪拌をしようと現像タンクの蓋を開けた時、左右に分けてあった浮きがなぜか中心に集まっていてどっちがどっちか分からなくなってしまった。

「しまった!」

念の為フットスイッチを押して暗赤色のセーフティーライトを点けてネガの乳剤面を見たが何の画像も見えず乳剤面しか見えない。通常のインタビュー取材やタレントさんの取材は光が十分にある場所を選んで撮影しているため現像処理が終わる頃にセーフティーライトを点けて確認すると普段なら24×36㍉サイズのグレーや黒っぽい枠がいくつも並んで見えるはずだった。
牛込署のガレージは暗かったが500㍗フラッド電球の照明が当たっていてシャッタースピード、絞りに間違いはない筈だ。


馬鹿な、と焦った



撮影が成功しても現像処理をミスれば「世紀のスクープ」がパーになる。

原因を考えた。
現像液の温度が20度に少し足らない上、前日までのフィルム処理本数が規定を超えていたにも関わらず補充用現像液を足さなかったメンテナンス不備による自己責任と思い直し、増感現像時間を10分増やしトータル20分ちょっとで一方の現像を止めた。
残った1本を増感用のパンドールタンクに移し、再度浮きを大きく上下に攪拌しながら15分ほど現像時間を押し(長く)た。

暗室の外では

「お〜ぃ、いつまで籠ってんだ」

写真部のデスクが騒いでいる。
僕は2本のフィルムを定着タンクに移した。これで明かりを点けても大丈夫だ。
定着液に浮かんだ2本のフィルムを覗き込み、驚いた。

透明なフィルムベースにポツポツと黒い部分(フィルムに露光された部分)があるだけのD76で現像したフィルム2には検視中の胴体が、30分を超えるパンドール増感現像と再三のセーフティーライトの点灯でベースが少しかぶり気味(フィルムの抜けが悪い)になったフィルム1には検死官が首を持って立ってる様子が写っていた。
明らかに増感現像のし過ぎとわかるネガ現像が終わり、十分な定着とネガ水洗をしてフィルム乾燥機に入れた。

画像が見えなかった理由も分かった。
被写体までの撮影距離が25メートル以上もあり、105㍉のレンズで撮影した1カット24×36㍉のフィルム上の頭部は2㍉にも満たないサイズだった。
これではセーフティーライトでは何も見えない。

ともあれ、

狙ったスクープ写真は写っていた。僕は胸をなでおろした

 

だが、作業はこれだけでは終わらない。
各々20カットほど撮影したネガを並べてどのカットをプリントするか、セレクトする白黒写真にするベタ焼き(コンタクトシート、密着)を作るのが通常のグラビアページ入稿の流れだったが、べた焼きではディテールが潰れすぎて選べなかった。
そこで、10倍の拡大ルーペで直接ネガを覗いて決めた数カットから大伸ばし(拡大プリント)を作ってセレクトしようと考えた。

週刊サンケイではグラビアページの入稿に使用するプリントは富士フィルムの銀塩バライタ印画紙(フジブロマイド、光沢薄手)を使い、サイズはエイトバイテン(8×10㌅、20.3×25.4㌢、六つ切)サイズが多かったが、この日は少し大き目の23×27㌢サイズにプリントするため、引き伸ばし機のヘッドを暗室の天井近く目一杯上部にセットし、印画紙を収めるイーゼルも高さ90㌢の台座を外して暗室の床に直接置くことで、ネガと印画紙の距離を2㍍ほど確保できた。
これで、ネガ全体がB0サイズ(1030×1456㍉)程度に拡大され、検視の様子がわかるように写真をトリミングできた。
パンドール増感現像したネガの調子は濃度も高く(黒く)なり過ぎている上、コントラストはマックスだった。増感現像のおかげでトライXフィルム特有のザラザラした粒子感もあり拡大するとさらに粒子感が出た。
プリント作業は一筋縄では収まらず、軟調のF1印画紙やF2を使って分単位の露光時間をかけた。同時に頭部の焼き込みをしながら一枚一枚丁寧にプリントしたが、調子の良くない没プリントで焼き損じ用のポリバケツも結構埋まってしまった。

「どうだ!」

待ちきれず暗室にやってきたグラビア班のデスクや担当記者が水洗中のプリントを見ながら大声で騒ぐため長時間露光中はお静かに、動かないでとお願いするのがやっとだった。
一方D76現像のネガはF2かF3の印画紙に10秒以上の時間をかけてプリントできたが、写真は●●●●●●●●●●●●●●で肩の肌に艶があり、あまりにもリアリティーがあり過ぎる怖い写真だった。

「生乾きでいいから、この2枚持って編集部に降りてくれ」

カットがわりの数枚を持って階下の編集部に降りると編集長ほかどっと人が集まって写真を覗き込んでいる。あれっ、この風景は牛込署の倉庫と同じだ。

産経本誌のS先輩が撮影した自決で真っ赤に染まった総監室に楯の会の制服がかけられたご遺体写真と、首の無いご遺体が置かれたブルーシートの上から覗く検視官、ラップに包んだ首を持つ検視官の3枚が並べられた。

「あれっ、この写真は三島由紀夫ではなく森田必勝じゃないか、刀傷もなく一太刀で介錯されている」

集まった記者たちは、取材活動やテレビ・ラジオ・夕刊などから得た情報を知っていたが、牛込署の撮影直後に社に戻り現像、プリントに追われていた僕は初めて聞かされた事実だった。

シャツかジャンパーの袖口を二つ折りした検死官が抱えたラップに包まれた頭部は目をつむり鼻筋が天井を向いていたが、ハイコントラストのネガから軟調印画紙に焼き込んだプリントのためハイライトのトーンが白っぽく飛んでいてディティールが分かり辛かった。そのため、パッと見て鼻先を上に向け頭部を抱えている写真と判る人はほぼいなかった。
頭部写真からは三島由紀夫か森田必勝かの判別はつきにくく、残されたご遺族のお気持ちを考えてリアルな胴体の検視写真より頭部を手にしたカットをグラビアのトップにすると決定された。

「よく撮った。撮影クレジットを入れるのはちょっと考えた方が良いと思うが、どうする?」

クレジットを入れて発売後どんな嫌がらせを受けるかわからないと説明を受け、撮影クレジット無しを受け入れた。入稿用プリントにトレペをかけてグラビアデスクに手渡し、帰宅方面が一緒の先輩に便乗して22時に退社した。
当時の能率手帳のメモには三島自殺と鉛筆書きが残っている。50年経っても記憶の潜像だけは残った初体験の大事件だった。



週刊サンケイ701214号表紙 週刊サンケイ 1970年12月14日号 三島由紀夫自決への道
1970年11月25日の三島由紀夫自決を報じた週刊サンケイ。
月曜日発行、発行・発売:産業経済新聞社出版局 特別企画号は特価百円

201125_三島由紀夫没後50年 墓参
三島由紀夫没後50年の2020年11月25日。朝方から小雨混じりの多磨霊園の墓所には学生や大阪ナンバーの若い人、孫を連れたシニアたちが墓参に訪れていた。
手入れの行き届いた植込みに咲く一輪のツツジが心に残った。

 


#三島由紀夫自決事件
#1970年11月25日
#牛込警察署検視現場
#三島由紀夫
#森田必勝
#週刊サンケイ1970年12月14日号巻頭グラビア『三島由紀夫自決への記録』
#別冊宝島編集部編『三島由紀夫事件検視写真が語る「自決」の真実』
#サンケイ新聞1970年11月25日夕刊
#朝日新聞1970年11月25日夕刊
#スクープ写真

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1974年7月17日 ロンドン塔爆発一人死亡、41人負傷

ロンドン塔の宝物館Jewel House 

頭上でド〜ンと鈍い音

1974年の爆破事件、間近で遭遇

1974.7.17

2017年は元旦からイスタンブールのナイトクラブで銃乱射男のニュースで始まり、3月22日ウェストミンスター橋・ウェストミンスター宮殿敷地内で発生したテロ事件、そして5月22日午後マンチェスターで米人気歌手、アリアナ・グランデさんのコンサート会場(マンチェスター・アリーナ)で爆発があり女児ら22人が亡くなり、59人が負傷した。

1974年7月17日、初めてのロンドンで多くの観光客とともにロンドン塔の宝物館を目指していた。

ロンドン塔(Tower of London、正式名称はHer Majesty's Royal Palace and Fortressで女王陛下の宮殿・要塞)の入り口に着いた時はすでにサマータイムの午後2時過ぎだったため、通常順路のホワイトタワー(甲冑などの博物館)を見ていると中世からの王室の王冠などが見られるジュエル・ハウスの閉館に間に合うよう宝物館に直行した。

1974年7月17日 ロンドン塔爆破 大人気のロンドン塔は入り口から内外の観光客でいっぱいだった

大勢の観光客と一緒に巨大なダイヤモンドが埋め込まれた王冠を見るため地下に向かい、入場券売り場の窓口までもう少しで自分の番だとワクワクしていた時、突然鈍い音がした。

券売窓口が閉まり、観光客の行列が止まった。

今の音は何だったのかな?

まさかIRA?

数分すると券売が再開された。

よかったこれで念願の秘宝が見られるとチケットを購入して入り口に向かうと、また行列がストップした。

しばらく待たされてようやくチケットをもぎられてようやく王冠を見た途端

「至急退去してください」の館内アナウンス!

警備員の誘導で外に向かっている時、救急車のけたたましいサイレンの音がはっきり聞こえ、やっぱりあの音はIRAによる爆破?と思い

NIKON Fと24ミリレンズ、フィルムの残りカウントを確認した。

午前中に大英博物館に行きフィルムチェンジしたばかりで撮影済みは5カットのみだ。

カメラを構えたまま表に出た時、フレーミングしたのは銃剣の刃先と背後の現場。

すかさずシャッターを切った。

「カショッ」

シャッター音がいつもと異う。

嫌な予感がした。

当時のPなど安価カメラ?の

シャッターの押し方が悪いとミラーだけ上がってシャッター幕が作動しない時の音に似ていた。

もう1カット撮ろうと構えたらすごい形相の警備員から

「Get away!」

と怒鳴られ、一瞬刺される恐怖が。不安を抱えたまま、帰国後現像したら

6カット目は何も映っていなかった!!!

同じニコンFで何度も空押しテストをしたが、同じ現象は現在まで二度と起きなかった。少し移動して撮ったカットがこれ。

1974年7月17日 ロンドン塔爆破事件現場写真 ©撮影 西田圭介 手前に消防車、右手奥ホワイトタワー前の救急車とけが人

撮影できたのは誘導する警察や警備と観光客の緊張と不安顔だけ。

1974年7月17日 ロンドン塔爆破事件現場写真 ©撮影 西田圭介1974年7月17日 ロンドン塔爆破事件現場写真 ©撮影 西田圭介1974年7月17日 ロンドン塔爆破事件現場写真 ©撮影 西田圭介

1974年7月17日 ロンドン塔爆破事件現場写真 ©撮影 西田圭介1974年7月17日 ロンドン塔爆破事件現場写真 ©撮影 西田圭介1974年7月17日 ロンドン塔爆破事件現場写真 ©撮影 西田圭介

ロンドン塔を出るまでに何台の救急車とすれ違っただろうか。街の中もパトカーやけが人を運ぶ救急車とサイレンと野次馬(この記事のトップ画像)が。

1974年7月17日 ロンドン塔爆破事件現場写真 ©撮影 西田圭介

IRAによる爆破事件は1972年ごろからニュースで聞くようになり1974年に入ると毎月爆弾が破裂、5月にはダブリンで死者が23人。

この事件の詳細はBBCによると

1974年7月17日14時30分、ロンドン塔ホワイトタワーのMortar Roomの爆発により、一人が死亡、41人が負傷。小さな地下展示室で、英国や海外からの観光客の多くが傷つき手足を失い、重度の顔面傷害を受けた。 犠牲者の少なくとも2人は子供で病院で治療を受けた。Robert Huntleyスコットランドヤードの爆弾チーム司令官は、「できるだけ多くのトラブルやけがをする無差別の攻撃だった」と語った。

今日までIRAの犯行と思い込んでいたがどの組織も犯行声明を出しておらず犯人の特定もできず、この日ロンドンでは2度目の爆弾だったらしい。

僕は見学してないため知らなかったが、爆破されたMortar Roomは大砲などの展示室みたい。

事件のメッセージはなんだったのか?

1974年7月17日 ロンドン塔爆破事件現場写真 ©撮影 西田圭介

翌朝のThe Daily Telegraphを読む市民の1面に「Child Victims of tower bomb」の見出し。事件後ホワイトタワーにいた観光客のフィルム検証もあったらしい。

スクープには至らなかったが、プレス関係で現場写真の撮影は世界で一人だけ?の初公開画像。

この頃はテロとは呼ばず無差別爆弾と言われ、現在でも多数の一般人「ソフトターゲット」を標的にした自爆テロ、同時テロが世界中で止むことは無く今後も、2020年の東京五輪・パラリンピックを控え、日本の対策はどうする?

災いは予告無く起き、個人レベルでの事故回避は可能なのか? 

 

ホワイトタワーを最初に見学していたら、僕は生きていなかった。

 

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スクープを撮る 1. 

 

1974年8月30日12:45分 三菱重工本社ビル爆破事件をテレビのニュースで知り

社旗をつけたバイクに飛び乗って丸の内に急行した。

三菱重工業東京本社ビルや向かいの三菱電機ビルの路上に駐車していた乗用車は潰れ、

歩道は窓ガラスの破片があふれていた。

1974〜75年(昭和49〜50年)の日本を震撼させた連続企業爆破事件の始まりだった。

1975年5月19日付朝刊「爆破犯 数人に逮捕状 今朝10ヵ所を家宅捜査」サンケイ新聞スクープ 第23回菊池寛賞 一般社団法人 日本新聞協会賞 受賞

翌年1975年5月19日付朝刊1面トップ、三菱重工本社ビルをはじめとした

「爆破犯 数人に逮捕状 けさ10ヵ所を家宅捜査」のスクープでサンケイ新聞は第23回菊池寛賞、

一般社団法人 日本新聞協会賞を受賞した。

 

▼昭和50年5月19日 サンケイ新聞夕刊に掲載された大道寺将司死刑囚逮捕のスクープ紙面。

昭和50年5月19日 サンケイ新聞夕刊 大道寺将司死刑囚逮捕の瞬間 小野義雄

ここより2015年5月19日付産経新聞より小野義雄さんの記事です。

あの5秒は何だったか

爆破犯逮捕をスクープ撮影 小野義雄氏

捜査員を追跡し、大道寺将司死刑囚の逮捕の瞬間をスクープしたカメラマン

「あの5秒は何だったんだろうか ーと今でも思う。逮捕日の早朝、社会部記者と愛宕署から出て行く警察車両を追いかけた。その車は築地署に入り、空の車が出てきた。陽動作戦だった。こっそり出てきた2人の捜査員を二手に分かれて追跡した。私が追った捜査員はそこからタクシーと徒歩、電車の乗り降りを繰り返し、振り切ろうとした。南千住駅で捜査員が降りた。私も飛び降りたが、傘が電車のドアに挟まれた。やっとのことで傘を曲げ頭を上げた。

 雨の中、捜査員はホームの中程に立ち、こちらを見つめている。その間は5、6秒ほどだったろうか。逃げれば十分振り切れた時間だった。捜査員は小走りに改札口に向かった。改札口を出ると、現場責任者と思われる捜査員が『もう分かったから、ケメラを隠して』と語りかけた。

 駅売店の前に立つと、周囲は変装した捜査員とすぐに分かった。全ての視線が一点に集中していた。まもなく、現場責任者が親指を立てた。どこにでもいるサラリーマン風の男を、さりげなく取り囲んでいく。そして車に押し込んだ。わずか数分間の逮捕劇だった」

三菱重工ビル爆破事件 1975年8月30日 サンケイ新聞写真部 小野義雄

僕が聞いた一番スリリングだった話は電車で捜査員を追跡中に頭をよぎったのが

映画「フレンチ・コネクション」(71年)のワンシーンがヒントになった。

ジーン・ハックマン演じるニューヨーク市警察本部薬物対策課ドイル部長刑事が

フレンチ・コネクションと呼ばれるマルセイユの黒幕を追い詰めるシーン‥‥。

フレンチ・コネクション 1971 French Connection 1971

浅草橋駅?で捜査員が下車した。

ひょっとして降りるフリかもしれないと感じた時、あの傘のシーンが!

閉まる電車のドアに片足をかけてホームを見ると捜査員は車内に戻っていた。

ジーン・ハックマンのおかげで追跡を続けられスクープ撮影につながった。

 

逮捕に向かった刑事たちを乗せた車に次々とまかれた記者たち。

逮捕の瞬間を撮影した小野義雄カメラマンたちをテーマに

特番「連続企業爆破テロ 40年目の真実」が5月22日午後9時、フジテレビ系で放送される。

IMG_3238.jpg 小野先輩に今年もOB会でお会いできました。

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