インターネットも
クレジットカードも無い1973年、
バックパックとニコンFで
格安世界一周 写真旅
1973.06.06 ストックホルム→コペンハーゲン/YH
1973.06.08. コペンハーゲン/YH
デンマーク最大のポルノ制作会社の現場に
日本のマスコミ初の潜入ルポ!
上野アメ横でミリタリー&革ジャンといえばN商店だった。N商店の社長にコペンハーゲンでポルノ雑誌のディレクターをしていた川本さんを紹介された。
川本さんは1949年に渡米し53年にバーモント州立大の政経学部を卒業後に渡欧。スペイン、フランス、イタリアを経て62年よりデンマークに20年以上滞在していた。
スペイン滞在中に絵を学び人物画で生計を立てていたが、1970年のポルノ解禁とともにポルノグラフィー・ディレクターとして初仕事の週刊誌が爆発的売上を記録し一躍有名になった。
この週刊誌●●●●はポルノ解禁国以外では使用禁止の名前とメモに書いてあった。
当時はフリーランスディレクターとして3大ポルノ社のうち2社の仕事をこなす超売れっ子で100册以上のポルノ雑誌を制作していた。本業は翻訳や、天皇陛下訪欧時のデモ学生の裁判の通訳で英語、デンマーク語、フランス語、スペイン・イタリア・ポルトガル語に精通したインテリで日本では考えにくい兼業作家だ。
取材に応じてくれたのはデンマークのポルノ業界最大でエディタールームから自社スタジオまで完備していた。今考えると当時日本には無かったハウススタジオだった。
モデル探しは新聞広告で告知し、オフィスの入り口に陣取ったおばさんが受付担当で応募者が来たらポラをとってファイルにする。給料日前になるとカップルで登録する応募者が多くなるそうだ。モデル代は女性は1日500~1000クローナ、男は500クローナ前後で、当時のレートは1デンマーククローネ=50円、現在は20円。
撮影日のカメラマンは何と元ミュージシャン! 写真でも分かるように手にハッッセル。しかもストロボはスイス製のブロンカラーだった。
川本ディレクションはストーリー性のあるポルノ雑誌のため週刊誌と違って3日ほどかけて撮影。
ビジネスマンが羽田空港でよく没収されていた、ヨーロッパ出張土産の北欧ポルノ雑誌は市民モデルと翻訳家ディレクターと元ミュージシャンの専属カメラマンが創っていた。
1973.06.09 コペンハーゲン→ヘルシンガー/Pen
「あの映画みたか? スッゲーハードだぜ!」
「えっ? ハード? どういう意味?」
コペンハーゲンのユースホステルで昨晩一緒になったアメリカ人が
「暑くないか? 窓を開けてもいいか? 暑い!暑い!」と言って窓を開けてタバコに火をつけた。コペンハーゲンの街はまだ半袖になるほど暑くはなかったが一服するたびに煙を手で払いながら吸っているのでこれはタバコじゃないと分かった。
「あの映画みたか? スッゲーハードだぜ!」
「えっ? ハード? ハードってどういう意味?」
「ハードはハードさ。あんな映画ここでしか見れねーよ」
僕はまだこの時hard-coreの意味を知らなかった。
「タイトルは?」
「Deep ●●●●」
「深い?●●●●?」
繁華街を歩いていたらその映画をやっていた。目を疑うばかりの映画で正直ビックリした。早速看板やチラシを複写してお荷物になっていたペンタックス6×7カメラ1セットと共に原稿第1便に川本さんの潜入ルポと、この映画の記事をオリオンプレスやユニフォトと早く契約すべきと東京に送った。
帰国後に聞いた話では原稿が届いた週の発売で他誌に抜かれてしまった。残念。
翌日軽くなったバッグにハッセルを入れてシェークスピアの戯曲『ハムレット』の舞台として有名なクロンボルグ城があるコペンハーゲンの北30キロのヘルシンガーに移動した。バルト海に面した海岸にあるこの街の目の前はスエーデンだ。
初めてのハッセルにフィルムを入れて、軽やかなシャッター音を聞くたびに楽しくなった。
高校時代に鉄道研究会を創設した「撮り鉄」だったので、先ずは駅構内にいたSLをパシャリ!ハッセルのコードノッチが嬉しかった一枚。
セルフポートレートはヘルシンガーに泊まったペンションでメモと一緒に撮っているのに文字が識別できない!ピンアマだ。
1973.06.11 ヘルシンガー/YH
1973.06.12 ヘルシンガー→コペンハーゲン
1973.06.12. コペンハーゲン0:30→ハンブルグ/Pen
1973.06.14. ハンブルグ→アムステルダム/Pen
大学寮の格安一般開放宿泊施設の
クローク係は既に目が飛んでいた!
ここはヤバい!
アムステルダムのYH(ユースホステル)が自分の前でフルベッドになってしまった。!
受付の人が格安宿泊施設を教えてくれた。
それは学生自治会が運営する学生寮を一般開放してる格安宿泊施設らしく住所をたよりに歩いて行ってみると階段を4階程上ったホール入り口で説明を受けた。
「ベッド無し、シュラフが必要。何ギルダーか出せばマットレス(破れていた)がある。門限は何時・・・」と説明する係のろれつがややおかしいなと感じながら内部の案内をしてもらうと、会議室みたいな部屋の床にバックパッカーが適当にゴロゴロしていた。
大事なハッセルがあるので注意しながら観察をしたが時間も押し迫って来たので宿泊費を払う事に決めた。
手すりが目の高さにある見上げるような高い椅子に陣取った牢名主のような男が宿泊者のIDとして、左手の甲に蛍光インクのスタンプを押した。外から帰った時はこれにブラックライトを当てると光る仕組みで映画のワンシーンみたいだった。
バックパックはクロークに預けろと言われたが、クローク係の男の目は飛んでいて
「イイェーッ!! ハッピー?」
「セキュリティー大丈夫?」
「ノープロブレム」
スタンプが押された手でバックパックとカメラバッグをかついでまた宿を探しだ。
1973年のアムスはドラッグ天国だったのかも。ダム広場には草を求める若者が世界中から集まって来るため日中は何度も散水車で広場で座り込めない様に散水していた。
写真は草でもハシシでもLSD何でも手に入るダム広場のジャンキーとセルフ写真。
1973.06.15 アムステルダム→ハーレム(Haarlem)/YH
古都ハーレムのYH事件。
二段ベッドの下段で寝ていた男が
「昨日お前を刺すとこだった・・・」
ユースホステルの朝食時間にで2段ベッドの下に寝ていた男から
「昨日の夜アムスで手に入れたケミカルを試してみたんだ」
そう言えば夕食後の談話室で一緒にやらないかと誘われていたのを思い出した。
ユースホステルは意外と盗難事故が多く貴重品を寝袋の足下に入れて寝るのが一番危険とバックパッカーの間では言われていた。特に日本人はキャッシュやパスポートを入れる人が多く、シュラフの足下を切られて現金や貴重品を抜かれる事が多いと聞いていた。
僕はカメラがあるのでYHなどではバッグから一切カメラを出さなかった。クロークの代わりにロッカーがあったので下段ベッドに寝た男に許可を得てロッカーにカメラを入れドアを壁側にしてベッドを押し付けて寝ていた。
「一錠はヤバいと思って割ったカケラを試してみたら、2段ベッドのマットを支える十字のフレームがグニャグニャしてきて上で寝ていたお前が象に見えたんだ!」
思わずパンを食べる手が止まった。
「俺が象に殺られる前にこいつを殺っちまえと思ってアーミーナイフを探したけど見つからなっかた。だから毛布被って震えていたんだ」
それ見つかっていたら多分刺していたかもという彼の話を聞いて心底驚いた。
残りの錠剤を分け飲みした連中も、鳥になった気がしたとか色々話していたがほとんど耳に入らなかった。
アムスの大学寮サマー・スチューデント・ホテルではどんな事が起きていたのだろうか?
NYのハーレムはオランダ移民がここの地名を名付けた。トルコ語のハレムはイスラム社会の女性の居室を指し「禁じられた場所」の意味。 「花の町」とも呼ばれ、行き届いた芝生の緑と水路に囲まれた地上の楽園に思えた。
わかる!
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ビジュアル コミュニケーター!
ハッとして、心に残る写真、デザイン、編集します。