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1972年 あさま山荘事件 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局▷あさま山荘事件

1972年 あさま山荘事件ほか 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局怒涛の1972年

NEWSな人たち ヨーコ オノ 週刊サンケイ SPA! Straight. 誌面を飾った方々 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局 © NISHIDA, Keisuke / HJPI320200000636 www.jpca.gr.jpNEWSな人たち

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Jane Barkinさんの訃報を聞いて
1977年6月の不確かな記憶を辿った

2023.07.17

僕は当時、国際出版提携雑誌の仏マリークレールアルバム社『100 IDEES』(サンイデー、100のアイデアのクラフト雑誌)の編集担当でJane Barkin & Serge Gainsbourgさんの来日に合わせてフランソワーズ モレシャンさんにインタビューをお願いしていた。

が、肝心の掲載誌が無く確認できず。
昨年川添象郎さんが自伝出版された「象の記憶」DU BOOKS刊にも書かれてますが、ご本人のからのFBで確認。


770621撮影

西田
Dベイリーさんもいた二人のスナップ見つけました。
記憶では六本木のディスコでの77年パーティーのはず????

川添象郎
そのとうり!
六本木の会員制ディスコ・クラブ「キャステル」で行ったパーティーです。
この時は写真家デビット・ベーリー夫妻、パリのブランド、レノマ夫妻も一緒でした。
懐かしい1970年代の想い出です。

フランスの才人、映画監督・音楽家のセルジュ・ゲンズブールと彼の妻で女優のジェーン・バーキン。僕が日本に招待した時の、ディスコクラブ、キャステルでの写真です♪♪♪

Jane Birkin 31歳、夫婦揃ってヘビースモーカーなのに素敵だった。

David Bailey(66年の映画「欲望/Blow UP」のモデルと言われていた写真家)さんのカメラ?ストロボは?
Blow UPしてもよく分からん。長徳さんに聞かないと。


僕のスナップは下手だけど、
それにしてもJバーキンは素敵でした。


R.I.P.  Jane Birkin

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__________________________________________

24歳の出版写真部カメラマンが考えたこと、知りたかったこと  

1: 細江英公の名作『鎌鼬』と異なる視点で
   暗黒舞踏家「土方巽」を撮りたい

2: 暗黒舞踏を言葉によって自らを神格化した
   「肉体の思想家」のレトリックとコミュ術   

3: 目黒の稽古場アスベスト館は
   締め切りまでの3日間、寝袋持参で密着取材したい

2023年.03.25

60年代後半に土方さんの舞台を観て以来、土俗的な舞踏と使用する衣装、楽曲、舞台美術に強烈な衝撃を受け離れられなくなっていた自分がいた。

1970年の暮れに暗黒舞踏派創世期の土方作品によく出演していた小林嵯峨さんを撮影したグラビア企画「才女が脱ぐ」や週刊サンケイの通称女子大生ヌード『キャンパスの妖精たち』(71年4月5日完売号)のモデル探しでお世話になった暗黒舞踏派の一部の方とは面識があったが土方さんとは一度も話もしたことは無かった。

1972年11月当時、人物グラビア企画「暗黒舞踏派 土方巽」のような企画が採用されることはグラフ誌を除く週刊誌ではめったになかった。

11月7日〜9日の3日間の取材許可が出た時に考えたのが上記3つだった。


以下は撮影の合間に土方巽さんから聞けた貴重な言葉。
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幼少時代は藁で作られた籠に入れられたまま
親の農作業中はあぜ道に放置されていた
遊び道具は自身の手首や足先だけ。
籠の中でのたった一人の遊びこそが土方巽の舞踏の原点

土方さんは1928年東北・秋田市旭川字泉八丁(現:保戸野八丁)に農家の11人兄弟の10番目(六男)として生まれ、両親が農作業中は畦道に放置された藁で編んだ籠に入れられたまま育った。

そのため遊具の代わりに自身の手指や籠に押し込められ不自由になっている足を動かしたり曲げ伸ばしをする自身の肉体、関節遊びを覚え、籠の中から見た空と風の気配が舞台を構成していた。
これを好きなだけ自由に動かして遊んでいたことが後の暗黒舞踏に繋がっていると話してくれた。

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僕の舞踏は、めちゃくちゃ踊っているだけ

という人がいるが、
それなら

「一日中めちゃくちゃ踊り続けてください」

そして来る日も来る日もできますか?

お茶を飲む。行為だけで僕は何時間でも踊れます

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「振り付けやイメージを伝える時はどうするんですか?」
「舞踏に言葉はいらない」

これだけは聞こうと思っていた。
2:「肉体の思想家」のレトリックとコミュ術

しかし、深夜の稽古中に聞こえた

「ニジンスキー」、「ニワトリ」、「ウサギ」・・・

なんと日本語で次々と発していた。

弟子たちはこの言葉から、インスピレーションを受け舞踏化した動きを一斉に始めた。
言葉を解釈するために全神経で一言一句聞き逃すまいと土方さんに集中していた。

アスベスト館の稽古場

3番目の

アスベスト館の稽古場は「弟子以外、入室禁止」だった

寝袋持参の密着取材を土方さんが許していただいた事を半世紀後の先日知った。
今となっては暗黒舞踏界のスクープ写真になった。

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稀にみる肉体の思想家
土方巽のレトリックを理解することは
自分の能力を超えていた

言葉でうまく解説することもできないため、
YouTubeで見つけた
『土方巽 - 風の遺言 Tatsumi Hijikata butoh dance documen』
のリンクを貼りました。

これは1960年に細江英公さんが監督した「へそと原爆」も収録されている貴重な動画。

土方巽 風の遺言

1: の細江英公の名作『鎌鼬』(限定1,000部、1969年、定価:12,000円、現代思潮社刊)は当時まだ学生だった僕には手も出せない価格で直接観た記憶はないが、目にしたのはアサヒカメラかカメラ毎日の特集だったと思う。

このブログを書き上げひと月ほどした2023年5月3日、

本棚から何気無く取り出したぶ厚い一冊

細江英公写真集『鎌鼬』復刻版(500部、2005年、青幻舎刊) 細江英公写真集『鎌鼬』復刻版(500部、2005年、青幻舎刊)

それは、細江英公写真集『鎌鼬』復刻版(500部、2005年、定価:31.500円、青幻舎刊)だった。

購入した記憶は無く、突然真っ新で発掘された両観音開きの写真集。
改めてこの写真集を見て心に残る写真は稲架(はさ)に止まった土方巽だけだった。

細江さんのオリジナルプリント販売を扱う「ときの忘れ物」によると、
僕の脳裏に焼き付いている鎌鼬は1965年撮影のこの1カット(下左#8)だけ。

なんでだろう?

復刻版 鎌鼬 細江英公写真集『鎌鼬』復刻版(500部、2005年、青幻舎刊) 細江英公写真集『鎌鼬』復刻版(500部、2005年、青幻舎刊) 細江英公写真集『鎌鼬』復刻版(500部、2005年、青幻舎刊)
『鎌鼬』2005年 復刻版(500部、定価:31.500円、青幻舎刊)

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申し訳ありませんが、来年4月頃退職させて頂きます

1970年11月25日の「三島由紀夫 自決への記録」で検視現場のスクープ写真、
通称、初の女子大生ヌード「キャンパスの妖精」(71年4月5日号)を経て硬派なグラフジャーナリズムからヌード写真まで多くの経験を積み、
24才の年明けに取材した陶芸家のゲルト・クナッパーさんから学んだ
「人は節目を迎えるごとに冒険が難しくなる」(週刊サンケイ / 720218号)をきっかけに

突入の前日2月27日、膠着状態9日目の交代要員として軽井沢に入った「あさま山荘事件

美の極致を追求する指針を学んだ「人形師、辻村ジュサブロー」さん(週刊サンケイ72年5月5日号)

1972年あたりから取材撮影対象との距離感やアプローチなどが変化し始め、
秋頃、上長に海外渡航のため長期休暇の相談をした。

「10ヶ月も! 残念だけどそれはちょっと無理ですね」

「承知しました」

退路を絶ってからは渡航費用ファンドの理解者探しと、
編集部の先輩たちから紹介された旅費を作る数少ないバイト撮影が始まった。

自分自身も「怒涛の1972年」だった。

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土方巽さんに始めてカメラを向けた

1972年11月7日、燔犠大踏鑑14日目の新宿アートシアター控え室。
側にあった机の下にスーッと潜り込んだと思ったら、
ひらりと机上の角に佇みファインダーの中で美しいポーズを決めた

細江英公写真集『鎌鼬』復刻版(500部、2005年、定価:31.500円、青幻舎刊)

一瞬デジャブかと思ったが「鎌鼬」稲架(はさ)に止まった土方巽に見えた。

「細江英公さんのコピーは撮れません」

生意気にも、
舞踏家「土方巽」が纏った肉体に宿している魔力の源を撮りにきました。

と、

土方さんに伝えてしまった。

以後シャッターチャンスは深夜の稽古場アスベスト館まで無かった。

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27日間、同じように踊ることは無い

ある日は舞台の上手から下手に横切るだけの日もあるとも言われ、

舞台裏でスタンバイしていた取材2日目、
幕が開いてしばらくすると舞台下手袖の幕に頭を入れ、
こめかみの周りで指先をくるくる動かしながら
構想を練っているように感じた土方さんを見て、

ここだと思いファインダーを覗いたまま忍び足で右サイドに迫った。
その時レンズを右手で遮られシャッターが押せなかった。
このシーンこそが土方巽がもがきながら舞踏を創造していた空間だったと感じたが、
この聖域に土足のまま踏み込むことをためらって良かったとも思っている。

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721108_土方巽 以下は週刊サンケイ721208号  取材 : 721107〜09より

暗黒舞踏の幻術師 土方巽

自ら「生命がけで立っている死体」という土方巽。四十歳を過ぎてもその肉体は若々しい

暗黒舞踏家、狂人、天才、苦行僧と
土方巽をめぐる毀誉褒貶は数多い。

しかし、〝前衛舞踏の教祖〟という伝説は、増々巨大になった。というのは、今回の第二次暗黒舞踏派結束記念公演『燔犠大踏鑑(はんぎだいとうかん、1972.10.25〜11.20)』という二十七日間の連続公演のためである。

土方巽が、四年間の沈黙を破って愛弟子の芦川羊子や小林嵯峨など〝幻の軍団二十七名〟を従えて東京・新宿のアートシアターに姿を現したとき、ファンは延々長蛇の列をつくった。

秋田出身で四十四歳のこの舞踏家は、水も断つ厳しい断食を行い、睡眠時間は三時間以下、すべての関節をはずして眠る。

ひとたびインスピレーションがわくと東北の怨霊が闇を這うように踊り、
さながら死の幻影を垣間見るような強烈な印象を残して去るが、彼の肉体の酷使と禁欲は、
すべて禁欲のためで、必要なら自分の〝伝説〟さえも演出する。

まさに、〝暗黒舞踏の幻術師〟とでもいおうか。

この恐ろしいまでの土方の魔力が、弟子にものりうつるのか、彼の本拠地アスベスト館は、妖しい霊の祈祷場のようだ。

二十七日間の興行と二十七人の弟子たちと、
まるで「二七のカブ」に意味があるかのような土俗的で猥雑な今回の公演は、
荒廃久しい新宿の夜の街に、またしても、

〝芸術的スキャンダル〟を巻きおこしたようである。


教祖、土方巽の稽古は厳しい。
深夜2時ごろから夜明けまで毎日のように続く(東京・目黒のアスベスト館)

721108_土方巽
土方巽と彼の魔力に心酔するお弟子さんたち(東京・新宿)

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稽古場の土方巽は暗黒舞踏界のスクープ写真だったのか?

1986年、享年57歳。
肝臓ガンで死去して数年後、
講談社の書籍編集部から大岡信著『美をひらく扉』土方巽——キラキラ輝く沼田の言葉——に
写真を使用したいと連絡があった。

この写真は週刊サンケイのグラビアページ入稿後に
取材謝礼として未使用の写真に無断転載禁止のスタンプを押して土方さんにお送りしたものを
編集担当者が選んだカットだった。

今思うと土方巽を撮った写真は舞台や細江英公さんの「鎌鼬」などはあったが稽古場の撮影は不可だったと最近知った。

土方巽 アスベスト館の稽古場で 大岡信著『美をひらく扉』の土方巽の項目/295P深夜に稽古中のカット

美をひらく扉 ハードカバー – 1992/8/1
大岡 信 (著)

言葉によって自らを神格化できた「肉体の思想家」が深夜に発する言葉を弟子たちが必死に聞き解釈して踊る様を以下、大岡信著『美をひらく扉』土方巽——キラキラ輝く沼田の言葉——より抜粋。

物書きのはしくれである人間としては、
土方巽という人はあまり近付きになりたくない人だった。

この人は肉体の全部分が言葉でできている人だったからである。

しかしながら、

土方巽の踊る姿といえば、
これまたみごとなほどに言葉にならないもので満ち満ちていて、
思えばそれこそ、
肉体の全部分が言葉でできているということが
真に意味するものであった。


私たちが普通考えている「言葉」というものは、要するに言葉になる言葉のことであって、
言葉にならない言葉で充満している肉体なんてものは、
そういう通俗言語観の世界の住人からすれば、当惑し、迷惑するほかないものである。

私は俗人だから、おおむねのところ右のごとき通俗言語観を肯定して暮らしている。
この世はその手でいかないと、しばしば煩わしくてならないからだ。
そういう人間が土方巽という、言葉にならないもので満ち満ちているところの 全身これ言葉そのものである人物と付き合うとすれば、ピービング・トム的に 「覗き」 の姿勢で行くしかないのである。

しかし私は、 俗人である<せに覗き嗜好のひどく乏しい人間であるため、
この側面からも土方巽に日常的に接触することができなかっ た。
だいたい、土方巽はいつも熱烈に好意的な人垣に取り巻かれているように見えたから、

中略

それでは私は土方巽を嫌いだっ たのかとい えば、とんでもない。
これほど傑出した人物はざらにはいなかった。
「私の作品は私ですからね。たとえばちょっと写真をとらしてくれないかといわれれば、ちょっと作品をみせてくれないかということになる。
土方巽が宇野亜喜良にこう語っているのを、二十年ほどむかし松岡正剛が編集していた高校生向けの月刊誌「ザ・ハ イスクール・ ライフ」 の誌上で読んだ時には、うー んと唸ってしまった。気を取り直して読み返せば、まさに仰言る通りだった。

でも、今までどんな役者も舞踊家も、こんな当り前の真理を口にした人はいなかっ た。写真は写真、オレはオレ、アタシはアタシ。皆そう思ってきたから「おれの顔は右斜め前からだけしか撮っちゃいけない」とか、新聞社や雑誌社に自分の方から写真を届けてそれだけを使うように要求するとかいう人々(これなら物書きにもけっこういるか )が多くて、むしろそれが正常な感覚であると思われてさえいる。

土方は、写真はワタシ、
ワタシは写真だと言っているのだし、どんな写真も作品だし、
ボーズも作品だと言っているのだ。

中略

「自分の腕を自分の腕でないように感じとる。ここに重要な秘密が隠されてるんです。舞踏の根幹が秘められている。」
彼がこの時、自分の腕でないように感じとっている腕は、ではどこにいるのか。腕はきっと自分の中にあってはぐれている。しかし同時に、カンブリア紀の海底で不思議な甲殻類の姿をして海藻を食っている。

「春先になりますと、また独特な風になって、びしょびしょに濡れた泥の上を吹くんですよ。そうすると、わたしが春先の泥に転んだときの、芯から情けない子供の身体がそこに、ボワーッと浮かんでくる。泥のなかに入っていますと、「俺はなにかの餌食じゃないだろうか」と思えてしまいます。ところがこれは、身体のなかの切ない思いが、表に出てくると同時、に泥のなかで妙な形を帯びてあらわれている。」

中略

土方の 肉体から溢れ出た言葉は、
どう避けようもなく人々を犯し、浸透した。

彼の故郷のすぐ隣の土地で、昔一人の放浪詩人が、あんまり閑かなので蝉の声が岩に浸み透っているよ、と呟いた。ほんとはすべてのものが、あらゆる瞬間に、何かに浸み透ることをやっているのだが、人間は一人残らず俗人なので、よほど有難い瞬間に恵まれなければ浸透作用を目撃することはできないのだ。
してみれば、あれだけ強い浸透作用をもつことのできた土方の踊り=言葉は、ほんとに脱俗的だったのだ。 彼が祖霊として祀られるのは、深い意味で必然なのである。

土方巽があの世へ忽然と去ってしまうよりもほんの少し以前だが、アスベスト館をオクタヴィオ・パス夫妻が訪ねたことがある。その夜の土方は、
いつもと変わらないようだったけれどもやはり変わっていた。

衰えがありありと感じられた。

私の前に坐った彼は、何を思っ たのか、弟子たちについて、「ヨーロッ パに広く紹介したいんですよ、大岡さん、よろしく頼みますよ」と真面目な顔つきでくり返した。
私にどんな力があると思っているのだろう、この人は。

しかし私は言っ た、

「あんたがまた踊ってくれるんならね、
それが何てったって第一条件でしょ。
みんなどんなにそれを待ってるか。」

知らぬこととはいえ私は残酷なことを言ったのだった。「いやいや 、私はもうだめ」と顔の前で手を振っ た彼の仕草が、あまりにも淡泊だっ たので、それがひどく印象的だっ た。
もう完全に余生を生きている人なのだっ た。

ああいう人には、
世俗のいう 「闘病」なんて言葉ほど
似合わない言葉はなかった。

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暴力性、反社会的、
猥雑で危険な魅力に満ち満ちた
土方巽の舞踏の原点


重心の低い独特な踊りはつま先で立つバレーと好対象だった。

籠の中で自分の身体をオモチャにしていた幼児の頃
夕方畑から帰るとき籠から体を持ち上げられても足は折り畳まれて立てない。

世界の踊りは立つところから始まるが、
暗黒舞踏は立とうにも立てない所から始まる。

折り畳まれた足はどこに行ったのか?

ガニ股は喋っても喋っても喋りきれないことを身体が知ってしまう。

「口篭もる」 これがガニ股の由来

ガニ股の由来未だ理解できず。

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220412 現在のアスベスト館

2022年4月、半世紀前の手帳を頼りにアスベスト館を訪ねてみた。
現在はどなたがお住まいか知りませんが以前のアスベスト館を発見。


土方巽さん最期の舞台は入院先のベットだった

※ 未完の「東北歌舞伎」最終段階では
暗黒を突き抜けた向こうにミュージカルのような
明るい世界をイメージしていた

※ 彼らの本拠地の目黒のアスベスト館は、かつて慰廃院というハンセン氏病の病院だったそうだ。

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以下は土方巽について語る麿赤兒、松岡正剛、澁澤龍彦さんの動画

「没後36年 土方巽を語ることⅪ」の記録映像/慶應義塾大学アート・センター 2022年1月21日

松岡正剛の千夜千冊/976夜 土方巽『病める舞い姫』白水社 

澁澤龍彦・土方巽

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最後の最期まで暗黒舞踏家を貫いた
土方巽さんに改めて尊敬と感謝を捧げます。

 

 

芦川羊子 小林磋硪

暗黒舞踏派一番弟子の芦川羊子、小林嵯峨。
72年「大駱駝艦」創立、旗揚げに参加した室伏鴻(1947-2015)が中学の同級生だった。
第2弾を模索中

 

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美の極致を追求する指針を学んだ 

人形師、辻村ジュサブローさんの三つの教え 

1:美の追求は健康な肉体に宿る不健康な精神

2:人形作りの原点は、サイエンス

3:美の極限には物差しがある。物差しがあればなんでも創れる

2023.0213

人形師 辻村ジュサブローさん(5日に89歳で死去)の訃報をNEWSで知り、
半世紀前に教わった大事なことを鉛筆が薄れて読み辛くなった当時のメモを頼りに纏めました。

人形師辻村ジュサブローさんをグラビア企画し密着取材した週刊サンケイが発売(1972年5月5日号)され一ヶ月ほど経た午後、

社の電話が鳴った。

西田さんの周りで最近変なことが起こってませんか?
僕は今回のグラビア企画発表後、人形が創れなくなってしまいました。
これから高野山に籠る予定ですがよかったらご一緒しませんか?

と言われびっくりしたが、取材の予定があり同行出来ない旨を伝え電話を切った。

この後、何度かお会いする機会もあったがその後の話を聞くことは無かった。

取材の2年前に撮影した三島由紀夫自決の検死現場など話した記憶はない。

生涯人形作家として病魔と闘いながら89歳まで広島・三次(みよし)で新たな創作に励んでいたと思います。

合掌

駆け出しカメラマンだったこの頃、三島由紀夫自決あさま山荘事件、時の人を始め俳優や政治家、財界人、スポーツ界、彫刻家、日本画家、洋画家など第一線の人物を中心に日々早朝から深夜まで撮影と暗室作業に時間を忘れて撮影をしていた。

グラビアページネタとして提出した人物もの人形師辻村ジュサブローさん企画が無事編集部(当時の手帳をみると1ページ前に四谷シモンさんの電話番号のメモがあった)を通過して大変嬉しかった。
辻村さんに電話で企画の趣旨説明し信濃町にあったアトリエから取材開始の段取りが決まり早速お邪魔した。

大学の恩師を始め彫刻家、日本画家、洋画家とジャンルは異なってもクリエーターのアトリエ訪問は少ない取材時間とはいえ毎回作品のバックグランドを見せてもらえる取材冥利だった。

初日はカメラはバッグに入れたまま横に置いて、仕事場に置かれた人形を一体づつ鑑賞させていただきながら辻村さんの指先の動きや創作姿を両目で覗き込みながら陽が傾く時間まで話を聞かせていただいた。撮りたい衝動を何度も抑えてシャッターを切ることは一度もなかった。

少しずつ変化する室内の光と陰の中に1ページ目に使った『扉のない窓』の少女の眼差しが気になって、吸い込まれるほど長い時間見つめていた。
そんな時間に聞いた話が

辻村さんの個展に能面師が来廊した折、
一つの面でなぜ悲しい顔も喜びの顔も表現できるのか?と尋ねた。


「美の極限には物差しがある。物差しがあればなんでも創れる」

が応えだった。

名前を尋ねたら遭いたいと念ずれば必ず遭えると言い残して去った、という逸話。

西田さんはまだ若いから分かりにくいかもしれないが、
このまま前向きに突き進めば手に入れられる時が訪れると言われ今日まで愚直に精進してきた。

この取材で考えた辻村さんのページ構成は扉ページと最終止めページのみご本人が登場するが残りのページ全てアトリエの陽射しで撮った人形と漫画家●のだじろうの仕事場の一部屋にあった祭壇のライティングで撮影することに決め一般的なスナップ写真を排除した。

半世紀を経て振り返ってみると1978年30歳の週刊サンケイ編集部時代にフジサンケイ経営会議より総合出版委員会Bプロジェクトを委嘱されこの頃からカメラからデザイン、編集への道を歩むことになり現在まで様々な美の極限を測る物差しを求め、新たな世界を放浪してきた。

 

人形餓鬼 辻村ジュサブロー

人形餓鬼 辻村ジュサブロー
作品『扉のない窓』と辻村ジュサブロー 週刊サンケイ72年5月5日号(サンケイ出版刊)

辻村ジュサブロー、38歳。
生まれながらの人形師である。
彼の創りだす作品は、妖しい幻想をかき立てる魔女の群れと童人形。

満州生まれのジュサブローが、怨念と呪いをこめて精進し、到達した“美の極致”である。
人形の面(おもて)は冷ややかな童女のように見えて般若。
その胴体は即物的な女の塑像を装いながら。怪奇なエロスをふりまいている。

人形餓鬼 辻村ジュサブロー ガラスボールの中の人形は、娘道成寺の「清姫」。恋に狂った哀れな娘である

「人形は、綺麗であるだけでなく
内面的な醜悪さも表現できなければ美ではない」

と彼はいう。
魔女制作のきっかけは、

三島由紀夫の鮮烈な死だった。

ジュサブロー自身、ボディービルにこり、


「健康な肉体と不健康な精神」


を持つことが、
人形師の生き方と思いさだめてきただけに、

彼の受けた衝撃は大きかった。

以来、いよいよジュサブローは、

フィーリングで人形をつくることを拒否し、

己の生命を切りきざんで伝説、フィクションの主人公に精霊を吹き込もうとしている。

その手法は、浄瑠璃人形の研究で発見した技法である。 一面、

人形作りの原点は、サイエンスなのだ。

ジュサブローは、

技術の極限を求める。

技術が彼の情念と同水準に到達したとき、ジュサブロー人形は息づきはじめる。

人形餓鬼 辻村ジュサブロー 写真右/とくに作品名はない。ブランデーなどの瓶の栓がわりになるように工夫されているマスコット魔女 
左ページ右/魔女シリーズの作品の中から、スコットランドの悲劇の女王「メリー・スチュアート」と「マダム・ボルジュア」(左)。いずれも悲惨な死をとげた女性だ。


1971年 三島由紀夫の死後(701125)手がけた魔女シリーズ。

綺麗なものだけでなく、 醜悪と美の両面が出てないと本当の美にはならない。
魔女は内面的な醜悪さを持つ美の極地。

華麗な魔女像は、妖気と狂気で迫り、芳しい死の匂いをただよわせる。
醜悪の表現をいいながら、美を必死に求めている。
なのに、醜さがにじみ出る。本物のグロテスクの作家といえるのではないか。

人形餓鬼 辻村ジュサブロー 写真右/テーマはない、普通の童女人形である
左ページ/辻村ジュサブローにとって、女流作家、樋口一葉はなんとなく気になる存在だという。
彼女の作品の登場人物借りて、日本人のけなげさと怨念を追いつづける
(上)みどりの姉の大巻(おおまき)、
(下)左からおりき、みどり、信如

樋口一葉の作品になぞらえたみどりや真如などの一連の人形には、
幼年期への郷愁と夭逝した児童の呪いが込められている。

華麗な魔女像は、妖気と狂気で迫り、芳しい死の匂いをただよわせる。
醜悪の表現をいいながら、美を必死に求めている。
なのに、醜さがにじみ出る。

本物のグロテスクの作家といえるのではないか。

 

■ 辻村人形の技法
ぬいぐるみ人形の一種。デパートで売っている桜人形などと同じ作り方だが、
いままで次元が低いものとされていたぬいぐるみ人形を芸術的に高めようとするところに苦心がある。 辻村人形の特徴は、チリメンを使っていること。
ヨーロッパを旅して西洋の人形を研究した結果、彼が使いはじめたもの。

「日本人の作った人形だという意味で国籍をはっきりしたいから」

と彼はいう。毛はすべて絹。

ベニヤで型を作り、チリメンでくるんで作るが、人形の中身は木毛(もくげ)という木の繊維を切り刻んだ材料がつめてある。一体を約一週間で作る。

人形餓鬼 辻村ジュサブロー 創り出した人形を祭ったジュサブローの祭壇。彼は創造主であり司祭でもある

この部屋は漫画家●のだじろうの仕事場の一部屋にあった。伏せ字にしたのは当時は公にされてなかったためだった。


現在、辻村さんの作品を受け継いでいる
辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界
をみると、70年代の作品はレリーフになっている作品が多く、このほかにも古い時計の中身を抜いて人形を納めた物などもあります。この作品は漫画家のつのだじろう氏の所有で2007年に補修を依頼された折りに撮影しました。つのだじろう氏と辻村寿三郎のおつきあいは古く、まだ人形作家としてそんなに有名でない頃から寿三郎の作品を評価いただき、作品も随分コレクションしていただきました、現在も時々ジュサブロー館に遊びにいらっしゃいます。もう何十年もまえのことですが、つのだ氏の自宅が漏電で火事になったときに不思議なことに寿三郎の人形が飾ってある部屋だけ燃え残ったということがあり、そのときにこの作品もその部屋にあったものと思われます。この話はつのだじろう氏自身が漫画に描いておられます、興味のあるかたは探してみてください。うしろの始皇帝(2006年、学習研究社刊)活字本新刊
このお話はテレビのオカルト番組などでもとりあげられ、知っている方も多いと思います。わたしも火事がおこるまえに一度だけつのだじろう氏のコレクションルームにおじゃましたことがあります、当時まだ中学生くらいでした。一階の薄暗い部屋に所狭しと寿三郎の作品が飾られており、不思議な空間でした。そのごすぐに火事が起きましたので、伺ったのはその一度きりでした。

2007年の修復で似ても似つかない魂のない顔になってしまった。残念。

■ 略歴
昭和八年、満州の朝陽(ちょうよう)で生まれた。
父は醤油問屋を営むかたわら鉱山開拓、母は料亭経営。五歳で父を失い、十一歳のとき広島に引き揚げた。学童疎開で三次(みよし)に住んでいたため原爆はまぬがれた。
三好中学卒業後、映画館館の看板を描いて家計を助けた。
二十歳で母を失い天涯孤独。三十年に上京すると前進座の河原崎国太郎宅にころがり込み、仕事を手伝う。彼の紹介で歌舞伎藤浪小道具制作へ。
そして職業を転々とかえ、三十五年、二十五歳で結婚。
人形師として一本立ちになる。
婦人雑誌の人形制作やテレビの人形劇の作品をつくっていたが、三島由紀夫の死にショックを受け、特異な新境地を開いた。
本名、辻村寿三郎さん。

■ みなさん驚かれるけどNHK人形劇といえば
「新八犬伝」や「真田十勇士」などの作品が有名だけど、
僕の手帳には、NHK人形劇『ブーフーウー』(1964ー65年)を担当していたとある。現在はググっても出てこない。
人形デザインは土方重巳となっているが、『ブーフーウー』は、『おかあさんといっしょ』の初代ぬいぐるみ人形劇として、1960(昭和35)年9月から6年半放送されていたが64〜65年の間だけ辻村さんが人形制作を担当していたのかも。

『ブーフーウー』の脚本は劇作家として第一線で活躍中の飯沢匡が担当。
声優陣は、わがままでおこりん坊、ぶつぶつ屋の長男・ブーに大山のぶ代、弱虫でくたびれ屋の次男・フーに三輪勝恵、元気で働き者、がんばり屋の三男・ウーに黒柳徹子という顔ぶれだった。

NHK人形劇『ブーフーウー』 NHK人形劇『ブーフーウー』

#人形師辻村ジュサブロー
#辻村ジュサブロー

 

 

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寛斎さんのクリエーションに対する熱い思い  

夢を持とう!前へ進もう、未知なる未来へ 

『人間は、無尽蔵のエネルギーを持っている』

どんなに苦しい時であっても、

その気持ちを忘れずに、果敢に挑戦し続けよう

2020..07.27 / 2019.12.20の続き

 

昨夜、山本寛斎さんの訃報をTV NEWSで知った。
今年の2月から急性骨髄性白血病で闘病生活だったらしい。

イベントプロヂューサーと若きファッションデザイナーKANSAIの
同時進行形の才能を感じた画像をようやく探し出すことができた!

ちょうど半世紀前の1970年5月18日、特別嘱託カメラマンと工業意匠学科の学生としてWワークしていた頃、週刊サンケイのグラビア企画がようやく実った『クールエイジのアイドルたち』から。
撮影はロンドンで日本人として初めてファッションショーを開催する前年の70年5月。

「カンサイ・ルック」の教祖。

世界を創造する魔術師。

服飾界のゲバラ。

当時、取材中に聞いた寛斎語録で忘れられない一言

「ファッションデザイナーは数多くいるが、男として仕事をしているのは世界中で唯一僕だけ」

#KANSAI
#山本寛斎
撮影©NISHIDA Keisuke カメラはNIKON F、フィルムはTRI-X。

寛斎さんは1971年に日本人として初めてのファッション・ショーをロンドンで開催。74年PARISコレクション、79年NYコレクションに参加。

 

#KANSAI
#山本寛斎
#KANSAI SUPER SHOW『太陽の船』2007
撮影©NISHIDA Keisuke #KANSAI
#山本寛斎
#KANSAI SUPER SHOW『太陽の船』2007
撮影©NISHIDA Keisuke

#KANSAI
#山本寛斎
#KANSAI SUPER SHOW『太陽の船』2007
撮影©NISHIDA Keisuke カメラはNIKON D2X。

上のカラーは夢を追い求め、

彷徨する青年の旅を描いた2007年1月に東京ドームの

KANSAI SUPER SHOW『太陽の船』を観に行った時の写真。

大型イベントプロヂューサーとして93年モスクワ、95年ベトナム、97年インドにてスーパーイベントを開催し、武道館に次ぐドームイベントを観ることができよかった。

 

以下は事務所のイベント告知HPより

「太陽の船」とは?
山本寛斎が旅したチベットの標高3800メートル地点。
360度見渡す限り果てしなく続く大草原地帯の中心にある大きな湖。
その湖水は塩の味がする。
ヒマラヤ山脈をのぞむこの辺り一帯は、かつては「くじら」が悠々と泳ぐ海だった。

酸素ボンベを片時も手放せない旅路。
遠い昔、かつては海であった湖。
過酷な自然環境でも幸せそうに暮らしているチベットの人たち。

山本寛斎は生命力溢れる人間の力強さに猛烈に感動。
はるかな太古の海で堂々と回遊する「くじら」の姿を思い、インスパイアされて、「太陽の船」をデザインした。

スーパーショーのクライマックス、「太陽の船」は旅立つ。
はるか彼方へ。
はるか未来へ。

「太陽の船」とは、全ての人々の夢の集合体、「夢の乗り物」なのだ。
人生という果てしない旅のなかで青年が確信したのは「夢を持つことの素晴らしさ」。
人間は夢を持ち、夢に向かって前へ進んでいくことで光り輝く。元気が生まれる。
そして、青年の夢は「夢を説くこと」になった。

「夢を持とう!前へ進もう、未知なる未来へ。」
青年は、夢の船=太陽の船に飛び乗って、今再び旅立つ・・・


山本寛斎に関するご報告  [ 2020.7.27 ]

弊社代表取締役である山本寛斎が、急性骨髄性白血病のため、2020年7月21日に享年76歳にて永眠いたしました。
闘病中も、皆様にもう一度「元気」な山本寛斎の姿をお見せしたいという本人の強い意志のもと、前向きに治療に励む傍ら、クリエーションに対する熱い思いをスタッフに語っておりました。

『人間は、無尽蔵のエネルギーを持っている。』どんなに苦しい時であっても、その気持ちを忘れずに、果敢に挑戦し続けました。

長きにわたり、山本寛斎を応援して下さった皆様に、心より感謝を申し上げますとともに、謹んでお知らせいたします。

そして

2020年7月31日 World Wide Streaming
『どんな未来も着こなしてやる!!』は予定通り開催。

 

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TVをつけたら『老人と海』の格闘シーンだった。

ハバナ近郊の漁村コヒマルで会った漁師

グレゴリオ・フエンテスさんと

ユーサフ・カーシュ撮影のヘミングウェーの写真

2020.06.19 2021.01.25追記
以下はキューバとアメリカとの国交正常化交渉が始まった2014年12月20日のFB投稿の再録と補足です。

 

キューバといえばアーネスト・ミラー・ヘミングウェイ Ernest Miller Hemingway。

 

『老人と海 The Old Man and the Sea』は1951年に書かれ、

1952年に出版、1954年ノーベル文学賞受賞後、1958年に映画化された。

原作の老いた主人公サンチャゴのモデルと言われている、

漁師だったグレゴリオ フエンテスさんをハバナ近郊の漁村コヒマルの自宅で

フジテレビ「なるほどTheワールド」(1985年)に益田由美さんに同行取材した時の記念写真。

ヘミングウェイのピラール号の船長「キャプテン・グレゴリン」

Gregorio Fuentesさんは1897年生まれで、撮影時はすでに米寿の88歳だった。

ヘミングウェイが1939年にキューバに移住した頃から船の操縦や料理、

釣りのお供をして、2002年に104歳で亡くなったご長寿でした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/グレゴリオ・フエンテス

 

アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ Ernest Miller Hemingway
老人と海の主人公 サンチャゴのモデルの一人グレゴリオ・フエンテスさん アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ Ernest Miller Hemingway
老人と海の主人公 サンチャゴのモデルの一人グレゴリオ・フエンテスさん

アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ Ernest Miller Hemingway 
老人と海

映画「老人と海」は観たことなく、今回はラスト30分しか観られなかった。残念なり。

 

Havanaのヘミングウェーの邸宅は博物館として1961年から屋敷の一部が公開されているが

岩手県立大学看護学部専任講師の高野泰志さんのブログによると

2002年秋,世界中のヘミングウェイ研究家の間に大きな衝撃が走った。
キューバのヘミングウェイ邸,フィンカ・ビヒア
(現在はヘミングウェイ博物館として一般に公開されている)の地下室の
キャビネットにはヘミングウェイの大量の原稿が保存されている。
それらの原稿の存在は,これまでは政治的な理由から
西側の研究者には一切知らされてこなかったものである。
その文字通り闇に覆われていた地下室に,
ついに合衆国とキューバの合同プロジェクトチームが足を踏み入れたのである。
22年間のうちに書きためられた未公開の原稿,下書き、手紙、写真、ノートなど、
数千ページにも及ぶこれらの書類は、
確実にこの空白のキューバ時代の謎を解き明かす一端となるに違いない。
その際,我々の前に姿を現すのは,果たして共産主義者ヘミングウェイなのだろうか、
あるいは単にキューバという土地を愛した典型的アメリカ人の姿なのだろうか、
それともいまだ知られざるまったく別の姿なのだろうか。

1961年7月2日の早朝、散弾銃による自殺の原因を、僕はこの博物館で見つけた。

この話はまたいずれ。高野さんのブログの詳細はこちら

 

博物館で見たこの額装写真、ユーサフ・カーシュのオリジナル、シルバー・プリント?

コピーとは思えない綺麗な黒の締まりがあったと記憶。

Yousuf Karsh - Ernest Hemingway
Yousuf Karsh - Ernest Hemingway 1957

2021年初追記
額装写真は両肩まであるがオリジナルはトリミングが異なった縦位置で
サイズは 60.4 x 50.6 cmのようだ。
先日FBで確認したカーシュのオリジナル画像はこちらのサイトからご覧になれます。


以下は画像の説明
Hemingway (1899-1961) needs little introduction, since his books have been translated into nearly every language in the world. His economical and understated style had a strong influence on 20th-century fiction, while his life of adventure and his public image influenced later generations. Hemingway produced most of his work between the mid-1920s and the mid-1950s, and won the Nobel Prize in Literature in 1954. He published seven novels, six short story collections, and two non-fiction works. Additional works, including three novels, four short story collections, and three non-fiction works, were published posthumously. Many of his works are considered classics of American literature.

Hemingway was raised in Oak Park, Illinois. After high school he reported for a few months for The Kansas City Star, before leaving for the Italian front to enlist with the World War I ambulance drivers. In 1918, he was seriously wounded and returned home. His wartime experiences formed the basis for his novel A Farewell to Arms (1929). In 1921, he married Hadley Richardson, the first of his four wives. The couple moved to Paris, where he worked as a foreign correspondent and fell under the influence of the modernist writers and artists of the 1920s "Lost Generation" expatriate community. He published his first novel, The Sun Also Rises, in 1926. After his 1927 divorce from Hadley Richardson, Hemingway married Pauline Pfeiffer; they divorced after he returned from the Spanish Civil War where he had been a journalist, and after which he wrote For Whom the Bell Tolls (1940). Martha Gellhorn became his third wife in 1940; they separated when he met Mary Welsh in London during World War II. He was present at the Normandy landings and the liberation of Paris.

Shortly after the publication of The Old Man and the Sea (1952), Hemingway went on safari to Africa, where he was almost killed in two successive plane crashes that left him in pain or ill health for much of his remaining lifetime. Hemingway maintained permanent residences in Key West, Florida, (1930s) and Cuba (1940s and 1950s), and in 1959, he bought a house in Ketchum, Idaho, where he committed suicide in the summer of 1961.



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今朝、FBを開けたら

1970年に26歳の山本寛斎さんを取材した 

「クールエージのアイドルたち」の過去投稿が出てきた

2019.12.20
以下は2014/12/20 14:20のFB投稿より再録。

 

昨夜入浴後テレビを入れたら、NHKファミリーヒストリーが山本寛斎さんだった。

寛斎さんの人並み外れた才能の一端を知り、

ロンドンで日本人初のファッションショーをする前年の

1970年5月に取材させていただいた刷出しをスキャンした。

山本寛斎 1970年 「クールエージのアイドルたち」週刊サンケイ1970年6月8日号

 

オトナを信じず、だから体制に反し、理屈は嫌いで、自由だけが好き。

そんな世代の感覚派の偶像たちを撮影させていただいた「クールエージのアイドルたち」

デザイナー 山本寛斎26歳、

世界を創造する魔術師、服飾界のゲバラ。

この時点で原宿のマンションの一室に会社を構え、20代の若者たち30人で年商1億円。

 

このほかジャズの日野皓正(27歳)さん、

写真家の森山大道(31歳)さん、

#森山大道
#DaidoMORIYAMA #森山大道
#DaidoMORIYAMA

以下は2020年6月4日のFB

31歳の森山さんを撮影した場所は
写真家細江英公(森山さんの師匠)さんの事務所の屋上だった。
2カット目の森山さんが構えているカメラはどうもニコンS2の特注ブラック?らしく、
オールドカメラやレンズは全くわからないけど、
市場で100万以上もする珍品らしい。
ニコンS黒は朝鮮戦争時代に従軍カメラマンから狙撃されにくい
命を守る黒塗り仕上げのリクエストからできた希少品種らしいが、
世界のMORIYAMAさん愛用のカメラとなると今も健在ならいくらするのでしょうか。
レンジファインダーカメラのニコンS3とかSP+35ミリを会社から貸与されていたけど、
このレンズは見たことない(解像度悪くて読めない)ため
チョウトク(田中長徳)さんに聞かないとわからないが、多くの名作を生んだワイドレンズかも?

チョートクさんからの即レス2件
田中 長徳 このブラックのニコンエスツーはもともとは東松照明さんの所有物でした。
レンズはニッコール2.5センチの広角レンズ。
森山さんがこれを借りて使っていて最後に売り払って飲んじゃったそうです。
これはお二方から直接聞いたお話なので正しいと思います。
東松さんが名作占領大撮影したのもこのブラックニコンエフツーでした。

ストロボはエスツーですね。報道関係のスタンダードでしたね。

流石チョウトクさん、貴重なお話ありがとうございます。

#森山大道
#DaidoMORIYAMA

マンガ家の秋竜山(26歳、この時描いていただいたマンガは額装して大事にしている)さん、

21歳の集三枝子さんほかで企画がようやく通過した思い出のグラビア。

 

この時寛斎さんから聞いた言葉

「男で女性のファッションをデザインしているのは世界中で僕だけ」



ちょうど半世紀前の1970年5月18日、
週刊誌で学生カメラマンだった僕の企画がようやく実った思い出の画像でした。

 

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遅い昼飯を食べながら偶然観たBS映画「テス」

クラシックで美しいカメラワークと色彩

以前撮影した?気もする女優さんの名前が出てこない

2018.10.04

昼食中キッチンとテーブルを往復しながら途切れ途切れにTV観ていたけど、女優の名前が思い出せず番組ガイドのリモコン押したらロマン・ポランスキーの「tess」だった。
タイトルは知っていたが観た記憶無し。

テス ナスターシャ・キンスキー テス ナスターシャ・キンスキー テス ナスターシャ・キンスキー

記憶の奥底にどこかで会った気もしたが思い出せない。
海外の女優さんを撮影した経験なんてそうないのに誰だっけ?
画面の女優は少しふっくらしている。曖昧な記憶が喉元あたりでもやついてんだけど。
やっぱり歳のせい、勘違いかな〜。

う〜ん

いつもは水切れの悪いヤカンのためキッチンで淹れてるコーヒー、気になってTV観ながらテーブルで淹れてたらヤカンからお湯が溢れて大失敗!

おかげ思い出した。「ナスターシャ・キンスキー」

1980年8月映画「tess」の公開に合わせて来日した際、帝国ホテル前の日比谷公園で表紙撮影の時間をもらった。
映画の公開は同年の10月25日で多分公開に合わせた発売号にしたはず。
この映画観なきゃと思っていたけど予告編見てなぜか前向きにならなっかた。

Nastassja Kinski 1980年8月初来日 映画テス ナスターシャ・キンスキー 撮影/西田圭介 1980年 映画「テス」公開時のスナップ 

僕はヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』(1984年製作)が好きだな。

思い出せてすっきりした。

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朝丘雪路さんが「11PM」でボインちゃんだった頃 
俺はフジテレ深夜の「テレビナイトショー」
『風土とヌード』レギュラーカメラマンで巨乳だった

わっかるかなぁ〜 わかんねぇだろうなぁ イェ〜イ!

2018.5.26

朝丘雪路さんが4月27日に82歳で亡くなられていたことをNEWSで知り、
デザインを学ぶため工業意匠学科に再入学していた23歳の駆け出し学生カメラマンの僕が撮った
週刊サンケイの完売号『初公開!有名8大学から選んだ女子大生ヌード!』とメディアミックス企画『風土とヌード』関連の事実確認のため久しぶりに八幡山の大宅壮一文庫に向かった。

1971年3月末、ベランメーのO田出版局長から内線電話で

「西田!すぐに来い」

と呼び出され、 局長室に入ると

「おい、西田。フジテレビがお前をカメラマンとして番組で起用したいそうだ。部長に伝えて、すぐにここに連絡しろ」

と、メモを渡された。急いで階下の写真部に戻り部長に伝えたが

「いや〜西田くん。やりたいだろうけど君は若すぎるし、この話は難しいね」

と写真部長は即答した。
2日後、局長と廊下ですれ違った時

「おい西田、あの話はどうなった?」

「無理だと言われました」

「何言ってるんだ!俺の部屋にすぐ来るよう部長に伝えろ」

語気をあらげて局長室に戻った。

フジテレビから電話があった数日前、
1971年3月22日(月)発売の週刊サンケイ4月5日号『キャンパスの妖精』で巻頭から巻末まで16ページを使ったグラビア企画

『初公開!有名8大学から選んだ女子大生ヌード!』

表紙にもタイトルが踊り、完売になるほど世間を賑わした。


週刊サンケイ1971年4月5日号 表紙は和田誠画伯の加藤登紀子さん。

国立大学を始め有名女子大の現役女子大生がヌードで誌面に登場することは前代未聞の事件だった。
この手の企画が得意な平凡パンチや週刊プレーボーイですら手つかずの企画だった。
モデル探しは困難を極め、撮影後のキャンセルもあり、学生証を必ず確認しながら数ヶ月もかけて8名の妖精たちが選ばれた。
2月の雪混じりの晴海埠頭や東雲の野外ロケでも僕と同世代のキャンパスの妖精たちは健気に頑張ってくれた。

初公開!有名8大学から選んだ女子大生ヌード!
国立大学を始め有名女子大の現役学生がヌードで誌面に登場
週刊サンケイ1971年4月5日号
企画・撮影 西田圭介 
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日本写真著作権協会 会員
わかる! いいね! をかなえる ビジュアルコミュニケーター 初公開!有名8大学から選んだ女子大生ヌード!
国立大学を始め有名女子大の現役学生がヌードで誌面に登場
週刊サンケイ1971年4月5日号
企画・撮影 西田圭介 
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女子大生。体いっぱいの初々しさのなかに、いくぶんかの熟れた感じをかいまみせる。
いまを盛りの体の美しさに対する誇りがにじみでる……”女であること”の歓び、勇気、自負……。
これは、そういう彼女たちの、青春のモニュメント。

中央大学独文科 かな子さん(19)
❤️ ワルプルギスの夜に
かなたからやってくるトロッコのきざみに似て、ドイツ語の呼びかけは音楽。ゲーテのワルプルギスの夜に、旅ゆく時、大学は黒くゆらめく炎の嘘。
あんみつ屋のテーブル越しにあからさまな由紀子の嘘。ブルトン学の教授も、マイクに嘘をぶつけ続ける。
ワルプルギスの夜に旅ゆく時、だから私は赤裸な私になる。

フジテレビ 金曜 テレビナイトショー レギュラーカメラマン
週刊サンケイ 風土とヌード 西田圭介 撮影
モデル 池玲子 東映ポルノ
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この娘は本学に在籍しているのか? 

今のようにTVのワイドショーが少なかった時代、スポーツ紙や週刊誌が発売日当日から関係方面への問い合わせが多数あり、春休み中の津田塾大学英文学科は臨時教授会を開いて該当学生探しで大騒ぎだったと女性週刊誌記事で知った。

記事が出て2ヶ月経った
5月21日
僕はフジテレビの1スタに入った

11PM』は1965年11月放送開始当時、僕たち受験生にとって禁断の深夜ワイドショーだった。大橋巨泉とアシスタントの朝丘雪路(ボインちゃん)の第2期金曜コンビは1968年〜1982年まで続いた日本テレビ制作(月水金)のオバケ番組に対抗してフジテレビが制作した「テレビナイトショー」に23歳の僕がカメラマンとして金曜日の「風土とヌード」コーナーのレギュラーでデビューした。

メークさんからどうしますか?と聞かれ、芸能人じゃないからとノーメークでスタンバイした。
金曜の司会は井上順之さんとケロンパのうつみみどりさん。

井上・うつみ こんばんわ!
井上     金曜日の夜十一時十五分!
       若さあふれるテレビ・ナイトショー
       司会はうつみみどりさんと井上順之です。
うつみ    (井上に)今夜もよろしくネ。
       ※以下 生放送らしい話題短くあって……。

フジテレビ 金曜 テレビナイトショー 風土とヌード レギュラーカメラマン
週刊サンケイ 西田圭介 撮影
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わかる! いいね! をかなえる ビジュアルコミュニケーター フジテレビ 金曜 テレビナイトショー 風土とヌード レギュラーカメラマン
週刊サンケイ 西田圭介 撮影
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わかる! いいね! をかなえる ビジュアルコミュニケーター

レギュラーは僕のほか、和製ブリジット・バルドーと呼ばれた渥美マリさんや変調田原坂でレギュラー仲間入り同期生となった南こうせつとかぐや姫がいた。
名曲「神田川」を2年後の1973年にリリースした南こうせつさんは一年後輩だったけど、ものすごい自己表現エネルギーの塊だった。
彼の行動を間近で見てこの世界で自分が取材対象になるのはほど遠いと理解した。

『風土とヌード』コーナーはモータースポーツの黎明期にレーシングドライバーとして大活躍した滝進太郎さんが同録アリフレックス16ミリカメラ(ロケで使えるENGビデオカメラはまだなかった)でご当地ドライブガイドの紹介コーナーを担当。僕がロケ先でヌード撮影し、フジテレビの放送と週刊サンケイとのメディアミックスの試金石となったコラボ企画になった。

映像の初出にこだわったフジTVは金曜日深夜の生放送で10カットほどの写真を僕と二人の司会とのトークで紹介し、週明け月曜日発売の週刊サンケイのグラビアページで取り上げ、次回放送の告知を担当した。
今でも変わらない生放送電波と印刷を経て世の中に流通する紙媒体との物理的なタイムラグを身を持って勉強した。
この経験を基に扶桑社設立プロジェクトやニッポン放送出版、フジテレビ出版が誕生した。

レーサー達が運転する初回のロケ先は金沢。
免許は持ってなかったけど、ロケ帰りの東名高速上り車線は生憎の豪雨。
ポルシェを先頭にして、一列に連なるハンドルさばきで2台目以降のフロントガラスには雨を感じない車間走行は、先日の平昌オリンピックでスピードスケート女子団体パシュート決勝の金メダルのように3台が綺麗に入れ替わるもので先頭車のフロントは滝のような雨を避けるため狂ったようにワイパーが動いていた。
素人は手が出せないこのドライビングテクニックで燃費がかなり下がると聞いた。

 

「風土とヌード」が始まった!


井上とうつみ。
横に滝進太郎と西田圭介

フジテレビ 金曜 テレビナイトショー 風土とヌード レギュラーカメラマン
週刊サンケイ 西田圭介 撮影
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日本写真著作権協会 会員
わかる! いいね! をかなえる ビジュアルコミュニケーター

うつみ    続いて”風土とヌード”のコーナー。今夜は 金沢地方だそうです。
井上     北陸ですね。……ボクね 最近このコーナーのおかげで
       日本の地理など研究するするようになりましたね。
       そこでボクは いろ々と面白い地名など発見しました。
うつみ    たとえば?
井上     埼玉県にあるブタのオッパイ
うつみ    え?
井上     秩父……。

中略

うつみ    ……なぁんてバカな駄洒落はこれくらいにして”風土とヌード”本編に入りましょう。
井上     担当レポーターの滝さんと 週刊サンケイのカメラマン 西田圭介さん……
       (と紹介)

スタッフはこれをきっかけに後々、大変お世話になったワイドプロモーションのPD/I島さん、AD/A山さんたちだった。

人生初のテレビ出演もアントニオ古賀の「クスリ・ルンバ」とともに無事終わり、グループ初のメディアミックス誌が発売された。


俺が週刊サンケイでNUDEだった頃
『風土とヌード』で出現した巨乳モデルは
東映ポルノで池玲子になった

わっかるかなぁ〜 わかんねぇだろうなぁ イェ〜イ

フジテレビ 金曜 テレビナイトショー レギュラーカメラマン
週刊サンケイ 風土とヌード 西田圭介 撮影
モデル 池玲子 東映ポルノ
公益社団法人 日本広告写真家協会 APA 正会員
日本写真著作権協会 会員
わかる! いいね! をかなえる ビジュアルコミュニケーター フジテレビ 金曜 テレビナイトショー レギュラーカメラマン
週刊サンケイ 風土とヌード 西田圭介 撮影
モデル 池玲子 東映ポルノ
公益社団法人 日本広告写真家協会 APA 正会員
日本写真著作権協会 会員
わかる! いいね! をかなえる ビジュアルコミュニケーター 九谷焼の窯元で。瓦屋根の上にいる池さんわかりますか?

故郷の風景を思い浮かべる時、人々は心に安らぎを覚える。
田舎町の、造り酒屋の長い白壁に立てかけられた、人間よりも大きい酒樽の列。
麦を干した庭で、お茶を飲み、お新香を食べながら、半日も雑談している村人たち……それは限りない郷愁を呼び起こす、日本の匂いだ。
その匂いを求めてヌードの旅を試みた。
まずはじめは、風雅に生きる町、加賀百万石のおヒザ元、金沢。
兼六園、金沢城などの華美な世界の裏で、ひっそりと息づいている庶民の歴史に親しむために……。

フジテレビ 金曜 テレビナイトショー レギュラーカメラマン
週刊サンケイ 風土とヌード 西田圭介 撮影
モデル 池玲子 東映ポルノ
公益社団法人 日本広告写真家協会 APA 正会員
日本写真著作権協会 会員
わかる! いいね! をかなえる ビジュアルコミュニケーター
週刊サンケイ1971年6月7日号 表紙は和田誠画伯のミヤコ蝶々さん

掲載号が発売されると

「東映のものですがこのモデルさんで映画を撮りたく、連絡先を教えてください」

と電話があった。

この時のモデルが池田玲子(本名)さん、後の東映ポルノ『温泉みみず芸者』(1971年7月公開)で映画主演デビューした池玲子さん。Wikiにも書いてある通り東映の天尾完次さんと鈴木則文さんが週刊サンケイ1971年5月24日発売 6月7日号 / テレビハイライト『風土とヌード 百万石の城下町 金沢』のグラビアで池を見つけたことがきっかけとなった。

フジテレビ 金曜 テレビナイトショー レギュラーカメラマン
週刊サンケイ 風土とヌード 西田圭介 撮影
モデル 池玲子 東映ポルノ
公益社団法人 日本広告写真家協会 APA 正会員
日本写真著作権協会 会員
わかる! いいね! をかなえる ビジュアルコミュニケーター 人通りが少なかった廓町

びっくりしたのは、連絡先を伝えて1か月程度で映画は封切られた。映画史上最速制作期間ではないかと思った。彼女の映画を見たこと無いけど東映ポルノの女王として長く活躍を続けた。
日活ロマンポルノは同年11月スタートの後追い企画だったらしい。

思いがけない記事が見つかった!

スポニチ マジックベール=5月21日=  より 掲載日/ 710523
◇テレビナイトショー(フジテレビ後11・15)
テレビ番組に女性のヌードを出すのに、いろいろとテクニックがあるとみえ、NET※1 の「23時ショー」の場合、はじめは看板だったヌードが、次第に露出度を少なくしてしまい、いまでは水着のピンナップ・ガールと、大佐はないまでになった。
ところが、この「テレビナイトショー」では、昔からヌードを見せるのが、一つの名物。※2 今回も、写真家の西田圭介氏が、モデルを連れて北陸の金沢に飛び、江戸時代の情緒がいまに残るこの古い町を背景にヌードをとりまくり、番組で紹介。
白昼の廓(くるわ)町でヌードの撮影とか、かつての武家屋敷の土べいを背に、花はずかしい乙女が裸身をさらすなど、主として、ショッキングなポートレートの展示である。画面では、金沢の名所を滝進太郎が説明、九谷焼をつくる人たちの仕事ぶり見学もつく。紀行番組とヌードの奇妙な組み合わせである。
こちらのヌードはよくて「23時ショー」はなぜ引っ込めるのか。ポートレートは動かないが、もう一方は動くからか。昔、レビューの揺籃(らん)期に、パンティーのマタ下何寸が取り締まりの基準になったというが、現代のテレビでは、動くか動かぬかがヌード自主規制のものさしなのか。(白井隆二)

注釈
※1 NETは現テレビ朝日
※2 僕のTVデビュー日で写真家立木義浩さんとバトンタッチ

フジテレビ 金曜 テレビナイトショー レギュラーカメラマン
週刊サンケイ 風土とヌード 西田圭介 撮影
モデル 池玲子 東映ポルノ
公益社団法人 日本広告写真家協会 APA 正会員
日本写真著作権協会 会員
わかる! いいね! をかなえる ビジュアルコミュニケーター

TV生放送を一番喜んでくれたのは西千葉駅前で毎日野菜たっぷりタンメンを長年作ってくれた北京亭の若き店主だった。

23歳の『キャンパスの妖精』『テレビナイトショー』のPart2はいずれ。

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ヨーコ・オノと  
プラスチック・オノ・スーパーバンド
郡山ワンステップ・フェスティバル最終日

2017.5.26

ヨーコ・オノさんがレビー小体型認知症と朝のNEWSで知り、「NEWSな人たち」のバナー写真で使っている1974年8月10日の郡山ワンステップ・フェスティバル最終日を思い出した。

内田裕也さんの紹介でステージに現れた小野洋子さんを撮影したくても目前のステージが高い壁となってファインダーを覗いても顔しか見えない。全国から野外競技場に集まった聴衆が興奮しても駆け上がれない高さに設定されていた。野外ロックは日比谷の野音しか経験がなく困った。

郡山ワンステップ・フェスティバル 1974年8月10日 小野洋子 ヨーコ・オノとプラスチック・オノ・スーパーバンド  youTubeの郡山ワンステップ・フェスティバル冒頭の赤丸が僕かも?

ピント合わせてノーファインダーで何枚か撮った写真に聴衆とのWイメージで構成。会場には熱狂的な同世代が集まっていた。

郡山ワンステップ・フェスティバル 1974年8月10日 小野洋子 ヨーコ・オノとプラスチック・オノ・スーパーバンド 撮影/西田圭介 郡山ワンステップ・フェスティバル 1974年8月10日 小野洋子 ヨーコ・オノとプラスチック・オノ・スーパーバンド 撮影/西田圭介

「奇跡の十万人集会」といわれたロックコンサート”ウッドストック”が日本に蘇った。郡山ワンステップ・フェスティバル最終日の八月十日、会場の開成山陸上競技場は四万人のヤングの汗と熱気でむせかえるよう。
午後九時過ぎ、「ヨーコ・オノとプラスチック・オノ・スーパーバンド」がステージに上がると場内は湧きに湧いた。白のノースリーブにパンタロン。胸まで届く髪を振り乱しての彼女の熱演に「ヨーコ」「ヨーコ」の絶叫が応える。上半身ハダカで狂ったように踊り出す者もいる、全員総立ち。空きカンやビンが飛び交いケガ人も出たらしい。
オノ・ヨーコ。安田財閥の血を引く名門に生まれ、学習院大を卒業後渡米。二百何十人かのお尻の写真を撮りまくったり、三番目の夫ジョン・レノンとのベッド・インを公開したりの奇行で知られる前衛芸術家にして”ロックの女王”。
「日本の若者とコミュニケーションしたくてやって来たの。自分のありのままを見てもらいただけ。理屈抜きに私の身体を持ってきたということだけでも若者にコミニュケーションすることになると思う。いいたいことがあって来たというよりお互い感じあいたい」。
おさえた絵や口調で若者へのメッセージを語る彼女には教祖的な雰囲気すら漂う。「抜かずに大事にしている」という白髪が目立つ四十一歳の”若者”の姿があった。
週刊サンケイ 四万人が見た「ヨーコ・オノ」の熱演 郡山ワンステップ・フェスティバル

週刊サンケイ 1974年9月5日号 本文より

ヨーコ・オノさんのメッセージ動画はこちら
Yoko Ono-The message from Fukusima,Japan.

残念ながら参加できなかった1971年ピンク・フロイドが出演し た 「箱根アフロディーテ」 が野外フェスと郡山が黎明期のフェスだった。

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松宮一葉さん 
FBの問い合わせがきっかけで
45年ぶりにシャンソニエで再会

2017.1.25

1月の初め友人のFBを通じた問い合わせで半世紀ほど前の古い記憶と大事件を思い出した話。

1972年2月、札幌・銀巴里で歌う新人シャンソン歌手の松宮一葉さんの大ファンだった乃村工藝社札幌のデザイナーMさんたちの紹介で一葉さんを撮影した。
当時の手帳には2月20日〜22日札幌出張となっている。ガラ刷りは見つけられなかったが、’72年2/21撮影が7本、73年3/11撮影のTRI-Xネガが9本見つかったので早速デジタル複写した。

19720221撮影/西田圭介 松宮一葉

そのやり取りをメーッセンジャーでしたところ、銀座のシャンソニエ「蛙たち」で彼女のステージがあることがわかり急遽集まることになった。
彼女のレコードデビューはポリドールから1973年2月21日発売「口紅 b/w 愛のくらし」で、作詞=岡崎英生/作曲=小林亜星だった。サブに同棲時代と書いてありまさに昭和で、この年にデビューした歌手はとても多く僕がわかるだけでこんな方々がいました。
秋川リサ、あのねのね、あべ静江、安西マリア、石川さゆり、海原千里・万里、海老名美どり、江本孟紀、海援隊、小坂明子、桜田淳子、城みちる、杉田かおる、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、なぎらけんいち、夏木マリ、西川峰子、左とん平、ぴんから兄弟、フィンガー5、藤 正樹、水沢アキ、南 佳孝、みなみらんぼう、ミミ (ミミ萩原)、桃井かおり、山口百恵さん他。結構当たり年みたい。

松宮一葉 ポリドール DR 1748 「口紅 b/w 愛のくらし」同棲時代 

1973年2月21日発売 作詞=岡崎英生/作曲=小林亜星

手帳のメモだと19歳で札幌に出て、46年2月から銀巴里で歌っていた。
謎はデビュー1年も前になぜ札幌に行ったのか?
デビュー直後の写真は東京の三軒茶屋近辺で撮影。わからない事だらけですが45年のタイムラグ写真がこれ。

松宮一葉 撮影/西田圭介

雪の札幌と銀巴里、同棲時代風写真がこちら。

松宮一葉 撮影/西田圭介 松宮一葉 撮影/西田圭介

松宮一葉 撮影/西田圭介 近頃は全く見かけない電話ボックスが昭和。

松宮一葉 撮影/西田圭介

改めて額装写真をお渡ししたらCDをいただきました。

松宮一葉 撮影/西田圭介 「私にバラを」CROWN CDP-1080

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イザベラ・ロッセリーニさん
マーティン・スコセッシ監督(73)の
第28回高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)受賞で
表紙撮影を思い出した

2016.10.18

10月18日、第28回高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)を受賞したマーティン・スコセッシ監督(73)のニュースを聞いて女優のイザベラ・ロッセリーニ(女優イングリッド・バーグマンを母に父はイタリアの映画監督ロベルト・ロッセリーニ)さんの撮影時を思い出した。


初来日した1980年の冬、映画でしか見たことがないイングリッド・バーグマンがスタジオに現れたと思った。親子とはいえ容貌は母の面影に満ちていた。

イザベラ ロッセリーニ 撮影&AD /西田圭介 週刊サンケイ表紙

モデル / イザベラ ロッセリーニ  撮影&AD / 西田圭介 1980年3月27日号

Google検索で今知った!撮影時はすでにマーティン・スコセッシと結婚(1979〜83)していた28歳の若妻だったんだ。衝撃。

撮影中は「カサブランカ」のハンフリー・ボガード気分で
「君の瞳に乾杯!Here’s looking at you,kid.」

いいね!

いいね!

いいね!とシャッッターを切ってあっという間に約束の時間になってしまった。

来日目的はすっかり忘れてしまったが、 デヴィッド・リンチ監督作品『ブルーベルベット』出演などを経て、 2016年3月よりLANCOMEのミューズに再度就任した。

マーティン・スコセッシ監督は’76年、ロバート・デ・ニーロ主演「タクシードライバー」で第29回カンヌ国際映画祭パルムドール最高賞を受賞。

最新作は「沈黙 サイレンス」、 遠藤周作「沈黙」の映画化を敬虔なカトリック教徒として知られる監督が20年にわたって温めてきた企画。

17世紀の日本を舞台に、隠れキリシタンと信仰心を試されるポルトガル人宣教師の苦悩を描いた作品。 日本からは窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也が参加。

2017年公開予定。

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ゲルト・クナッパーさん 
「人は節目を迎えるごとに冒険が難しくなる」

1972.1.26

24才の誕生日を迎えたばかりの1月、西ドイツからやって来た陶芸家ゲルト・クナッパーさんを取材に益子を訪れた。

5歳年上のクナッパー/Gerd Knäpperさんは1965年にアメリカ・ニューアーク美術館で作陶を学び、世界35カ国を巡りながら加藤唐九郎、濱田庄司、バーナード・リーチを訪問し、68年 島岡達三の援助で益子で修行・築窯。1971年 第1 回日本陶芸展で最優秀作品賞、文部大臣賞を受賞。このころ益子の里にはアメリカ、イギリス、スウェーデンから十数名の若者が集まっていた。

益子の陶芸家ギャート・クナッパーさん : Gerd Knäpper 撮影©西田圭介 益子の陶芸家ギャート・クナッパーさん : Gerd Knäpper 撮影©西田圭介 週刊サンケイ / 720218号

日本脱出を漠然と考えていたこの頃、クナッパーさんの言葉で自分の行くべき道が見えた。

「人生の節目を迎えるごとに冒険が難しくなる」

「結婚すると一つ冒険が出来なくなり、子供が産まれるとまた冒険が難しくなる」

愛妻のキエさんとの新婚生活をスタートしたばかりだったクナッパーさんからの人生の指針となったアドバイスだった。

考えていても何も始まらない! 行動しなきゃ。1972年1月26日人生の歯車が一つ動いた。

取材時は電気窯だったためクナッパーさんの良さを表現しずらかったと感じたが、現在の公式サイトを見ると1975年茨城県大子町に移住し念願の登り窯を築窯したと書いてある。行動なくして何事も始まらない。2012年11月2日、病気療養中の入院先の病院にて死去、享年70歳。合掌

これをきっかけに日本脱出は’73年の5月頃と決め 海外への足がかりを求めて動き出した。が、インターネットも海外旅行情報誌もましてや渡航費用の蓄えも全く無い時代の ヨチヨチのフォトジャーナリストが目指したバックパッカーの格安世界一周写真旅のブログはこちら

この後、立て続けに起きた重大ニュースに立ち会えた「怒涛の1972年」のお宝資料が出てきたためタイムラグが+45年のブログを今日から何回かアップ予定。

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歌手白川奈美さん 
「歌手である前に一人の人間である事を考える。
他人を蹴落とさない普通の女」

1972.2.18

♪ ねんねん坊やの 住む里は
  こがらし吹いてる 山の村

全国36万人のホステス嬢を相手にこの歌を歌ってたちまちスターになった白川奈美。二十四歳。
歌が歌だけに”ホステス歌手”なんて言われているが、彼女にはその経験がない。
ただ9人兄弟の長女として、小さいときから苦労を続け、お金だけがほしかった。そこでおもいついたのが歌い手稼業。それからというもの、銀座の洋裁店などに勤めながら踊りと歌を学んだ。しかし、それだけでは金にはならない。とプロのステージ歌手になった。一人で重い衣装カバンを抱え、北海道から九州まで、日本全国をキャバレー巡り。そのうちに認めてくれる人が現れるだろうと……。

それから四年、やっと今のレコード会社にはいることができた。東京・上野のナイトクラブで歌っていたときである。彼女は、そのとき「こんなに早くレコード歌手になれるとは……」と大喜びした。が、初めてレコーディングした『恋の灯が消える』は、まったく鳴かず飛ばず。それでも彼女は、平然としていた。苦労は知りつくしていたのだ。二曲めに取り組んだ。それが『遠く離れて子守唄』。売れに売れて、ついに五十万枚突破。

白川奈美 遠く離れて子守唄 撮影/西田圭介 週刊サンケイ ’720317号 歌手 白川奈美 遠く離れて子守唄 撮影/西田圭介 週刊サンケイ ’720317号 歌手 週刊サンケイ ’720317号

キャバレーめぐりをしていたころの安宿の汚らしいシミを思い浮かべる余裕が出てきた。この歌は、俗に”子持ち女の出稼ぎ歌”と言われている。故郷に残した子供を想う母心を歌っているからである。
この歌がそんなにウケるわけは……などと彼女は、考えない。それなら次は全国五十万人もいる出稼ぎ男たちを相手に歌おうと思った。そこで出したのが『男がつぶやく子守唄」である。

「なんといわれても、レコードが売れなくてはなんにもならないでしょう。私はお金がほしいだけ。売れなくなったら、また別の仕事を捜します。でも、歌はやめられないなあ。一日も早くワンマンショーを開けるような歌手にならなくては……」

彼女、それを実行した。東京・新宿でホステスたちを集めてお礼リサイタル。といっても、これはキャバレーの中でのこと。まだまだ夢は結ばれない。

♪ ヨチヨチ歩きの坊や見て
  捨てたオレの子思い出す

果たして出稼ぎ男たち、彼女の歌をどれくらい好きになってくれるだろうか。

原稿にはならなかった手帳のメモに、

歌手である前に一人の人間である事を考える。
他人を蹴落とさない普通の女。
二重人格にはなれないからこの世界には長くはいない。

彼女の魅力は持ち歌とは反対に、とても明るい性格だった。

週刊サンケイ ’720317号

台湾土産のジョニ赤(当時の贅沢品^_^)持参で出社した前々日、
2/15付け毎日新聞の記事(スクープ?)「京浜共闘 榛名山にもアジト」で16〜18日にかけ捜索隊とともに、雪の群馬県妙義山を越えて長野県軽井沢「あさま山荘」に向け各社が動き始めていた。
これが後の連合赤軍リンチ事件だった。

白川さんを掲載した週刊サンケイ3月17日号表紙に「緊急!あさま山荘籠城の全記録」

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