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▷ あさま山荘事件1972年 あさま山荘事件 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局

怒涛の1972年1972年 あさま山荘事件ほか 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局

NEWSな人たちNEWSな人たち ヨーコ オノ 週刊サンケイ SPA! Straight. 誌面を飾った方々 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局 © NISHIDA, Keisuke / HJPI320200000636 www.jpca.gr.jp

NEWSなスクープNEWSなスクープ 三島由紀夫自決 701125 週刊サンケイ 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局 © NISHIDA, Keisuke / HJPI320200000636 www.jpca.gr.jp

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NEWSの現場 1972年 あさま山荘事件 

あさま山荘事件 突入の前日2月27日

膠着状態9日目の交代要員として軽井沢に入った

1972.2.27

先に現地入りして膠着状態が続いていた先輩たちからの一番の配給希望は、「横川の釜飯」と「カップ酒」に白金カイロしかなかった時代に水銀電池で暖かになるワカサギ釣り?用ヒートブーツの運搬役だった。

報道用ヘルメット、防弾チョッキに機材はニコンF(24、50、105、200ミリレンズ)とサブにニコンSP(35ミリレンズ)、モノクロフィルムは手巻きTRI-XとカラーはE4時代のエクタクロームとハイスピードエクタクローム(ASA160)。後に各社に迷惑をかけることになった積層電池を使うグリップタイプのストロボ(ナショナルPシリーズの第一世代?)だった。

朝一の信越本線に乗り国鉄で最も急勾配66.7の碓氷峠越えのために補機作業で停車中の横川駅で熱々の名物駅弁、おぎのや製「峠の釜飯」をペン&カメ人数分(益子焼の釜だけでも一つ725g)を買い込んだ。

携帯電話はもちろん無い。
軽井沢駅前から帰りの足確保のため貸切できる草軽タクシーに乗り込んだ。
すでに何度も往復している運転手さんは

「お客さん現場ですか?」
「お願いします」

しばらく走ると新開発された別荘地への道路脇に、マスコミ各社の前線基地になっているテントが何張りかある辺りでタクシーを降り先輩たちを探した。
雪の中に三脚据えて前方の斜面に建つあさま山荘に望遠レンズを向けている先輩を見つけ食料を届けた時にはあれほどアツアツだった釜飯は冷気で冷めていた。

犯人たちが時折周りを囲む警察の動きを偵察するため窓から顔を出す時がシャッターチャンスだがこの日はまだシャッターチャンスがないと聞いた。

「簡単に彼らの写真が撮れるほどここは楽じゃないぞ」

あさま山荘事件 週刊サンケイ3/17号 週刊サンケイ3/17号
警察官が近づくと、三階洗面所の窓から、マフラーで覆面をした男の顔が覗いた。

夜明け頃から日没までが彼らの活動時間らしく、タクシーは待機させず軽井沢警察で毎日開かれる夕方以降の定時記者会見に間に合う時間に迎車をお願いした。小さな村のタクシーは一度権利を放すと台数が少なく日々増えているマスコミ各社で取り合いになるため安易に降りてはいけなかった。

美味しい釜飯の昼食後、状況を理解するため山荘の足元からしばらく観察を続けた後、あさま山荘玄関前の道を挟んだ向かい側の斜面でカメラポジションを探した。
早くから現地入りしていた社は木の根っこなど座り易いスペースや三脚を立てるポジションを創意工夫で構築していた。
その他数十人のカメラマンたちは各々、土を削り即製のダンボールを重ねたクッションで待機していたがが最後に到着した新参者のスペースは皆無だった。

唯一残された場所はあさま山荘前の最前列で足を滑らしたらパイプで組んだ放水用の仮設貯水タンクに一直線の場所だったが、凍りつく足元のグリップを確保しカメラは手持ちでなんとかスタンバイできた。

道路を挟んで十数m先の窓から銃口がこちらを狙っているらしい。

持参したヘルメットや防弾チョッキは彼らのライフルから身を守れるのか?
喉元から顔面はノーマークで撃たれたらお終いと観念して座っていた時

「パーン」と乾いた音がした。

何処から撃ってるのか判らなかったが斜面の上部で騒いでいる声がした。
振り返ると盾の後ろにいた誰かが撃たれた様子。
斜面の上から伝言ゲームで一番下で撮影していた僕が聞いたのは、事件発生当時からTBSとローカル局との合同取材チームだった信越放送のカメラマンだった。
警察の盾は二重にして強度を増していたが撃たれたカメラマンは自社で用意した1枚だったため盾を貫通した弾で負傷したようだった。

会社の防弾チョッキでは身は守れないと思いながら、滑り落ちないようにひたすら下山時間まで座っていたため、すっかり冷え切った体で軽井沢警察の記者会見場に向かった。

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NEWSの現場 1972年 あさま山荘事件 

取材記者、カメラマン数百名の強張った熱気の中

「X Dayは明朝」

軽井沢警察署の仮設記者クラブで発表

1972.2.27

2月26日から、機動隊?による説得を試みるが難航し、僕があさま山荘に到着した日の早朝から犯人たちへ家族による呼びかけも行われていたらしい。
呼びかけは警視庁の意向だったようで、心理学の立場から篭城事件解決のため3人のエキスパートが現場に入っていた。

そのうちの一人は大学で心理学を学んだ警視庁科学捜査研究所技官の町田欣一先生だった。
他のお二方は宮城音弥東京工業大学名誉教授、島田一男聖心女子大教授。
町田先生の忘れられない授業は、火事場の火元確定のため10円や100円コインを探すと聞いた。
コインは金属組成が綺麗に整列しているため火元側と反対側の金属組成が輻射熱変形の差分で判ると教わったこと。先生が現場に居たことを後にTV特番で知りびっくりした。

2月27日の夕方から新聞各社、日本雑誌協会に属する週刊誌やテレビ、ラジオ各局の取材記者やカメラマン数百人?が軽井沢警察署の仮設記者クラブ(柔剣道場)に集まっていた。
氷点下の外気に比べ会場はすごいエネルギーで殺気立っていた。
前夜の2月26日に長野県警本部とマスコミ数十社と「Xディ取材報道協定」の説明と締結の説明があったと先輩記者から聞いていたが、

「X Dayは明朝」と発表された。

「犯人たちは我々の無線やマスコミ各社の無線を傍受している可能性があるため、只今よりこの件に関する情報、連絡に無線使用は厳禁でお願いします」

現地入りしていた日本雑誌写真記者会所属の各社が集まり、取材制限のある撮影場所ごとに希望を募り多数の場合はカラー撮影、モノクロ撮影各々1社ずつ代表撮影をあみだくじで決めた。
僕は事件解決後のあさま山荘の内部カラー撮影代表に選ばれ、モノクロは週刊朝日だった。

現場が軽井沢のため各社撮影済みフィルムを必要に応じ東京に持ち帰り現像していた。
デジタル時代では考えられない手間と時間と入稿締め切りとの戦いだった。

モノクロの場合は撮影担当社が現像し、コンタクトシートを作り写真を必要とする各社が雑協の会議室に集まり必要カットを決定後に改めてプリントを配布した。

カラーは現像後のポジフィルムをライトボックスに並べ決定的瞬間のカットを最初に決め、代表撮影に応じた各社向けに必要カット数を密着ヂュープ(各社同じ写真)した。
残りの写真は抽選順に各社が欲しいカットをルーペで見ながら切り分けて持ち帰るシステムだった。この時使える写真か否か、自社のメディア特性を考慮して選別する眼力も必要な留守番部隊の重要な仕事だった。

翌朝からあさま山荘から200mほど離れたNHK保養所前で待機が決まった。

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NEWSの現場 1972年 あさま山荘事件 突入 

引きずられた担架には左手を頭上で丸め

右袖口を隊員に引っ張られ、体をくの字に曲げた

警視庁第二機動隊長の緊迫した搬送

1972.2.28

月曜日の2月28日早朝からNHK保養所の玄関前で、あさま山荘籠城事件で人質になっていたM田さんを無事救出後の山荘内部撮影のため、代表撮影の週刊朝日のカメラマンとともに極寒の中でひたすら待機していた。

NHK保養所から河合楽器の保養寮「浅間山荘」へはS字に曲がりくねった別荘地の林道を200mほど下ったとこにあった。数メートル先に非常線もあり、玄関前に駐車していたNHKの中継車を覗き込んでも音はもちろんモニターも見えず救出作戦の進捗状況は全くわからなかった。
立てこもりと銃撃戦で日本中をブラウン管にくぎ付けにした ”モンケン” の活動など知る由もなかった。

昼前、突然下の警察車両の陰から十数名の機動隊員が走ってくるのが見えカメラを構えた。
無我夢中でシャッターを切った。先頭隊員の左の白い腕章に救護の文字。
ヘルメットの色も紺と白ヘルに帽子も混ざり、足下を泥まみれにして近づいてきたため24ミリのワイドレンズに交換し16㎜のアイモを回すテレビのカメラマンとぶつかり合いながら並走撮影した。

ファインダーの中に、左手を頭上で丸め引きずられた担架からずり落ち、極度に緊張した隊員に右袖口を引っ張られ、隊長の両足は二人の隊員が各々腹の高さで抱えられたまま体はくの字に曲がり、眉間を撃ち抜かれくすんだ血の色に覆われた内田尚孝警視庁第二機動隊長の顔を見た。

ハンドレシーバーで何かを叫びながら交信する隊員、素手のまま、軍手、革手袋をしている者。
雪道の滑り止めに土踏まずと甲を縄で縛りつけたブーツ。
催涙ガス防止のメガネをヘルメットにひっかけた隊員も数名いた。
最後に見た隊員のヘルメット後部の数字は「2」だった。

救護班のヘルメットが何色も混じっているのは機動隊ほか関東各県警からの応援だったと思う。撮影時点で凶弾に倒れたのが、土嚢を積み上げた最前線で指揮をとっていた機動隊隊長だとは知らなかったが、狙撃されたことで現場の動揺はピークに達していた。

担架は前後4名で掛け声かけて持ち運ぶはずが、先頭の隊員だけが一途に前だけを見て一刻も早く救急車へ搬送すべく走ったため、後ろのグリップを掴み直すこともできず担架を引きずっていたことも気づいていない様子だった。

脳裏に焼き付いた眉間のあたりに黒褐色の6〜7ミリの跡。
1968年10月21日新宿騒乱。1971年11月19日の日比谷松本楼炎上など火炎瓶闘争を取材してきたが、この瞬間全身のセンサーにスイッチが入り長い一日が始まった。

週刊サンケイ72年3月17日号 「あさま山荘」籠城の全記録 週刊サンケイ 3/17日号

連合赤軍の中でも筋金入りの幹部が武装して、牟田泰子さんを人質にして山荘に立てこもった。救出には困難が重なり、これを打ち破るために警視庁から応援に駆けつけたのは”はやて”の異名をもつ第九方面隊と、安田講堂の”解放”を手がけた”カッパ”の第二方面隊。

午前11時31分警視庁特科車両隊の高見繁光警部、同55分に内田尚孝警視庁第二機動隊長がいずれもライフルで盲管銃創をうけ手当のかいもなく殉職した。

心より合掌。

※犯人が使ったライフルは米マスターオートマチック社製、22口径五連発。
 アメリカでは初心者の練習用で、ウサギなど小動物を撃つためのものだが機動隊使用のジュラルミン製の大ダチでは二枚重ねないと貫通してしまう威力があった。

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NEWSの現場 1972年 あさま山荘事件 突入 

あさま山荘の入り口は大量の放水が凍結し

階段はツルツルで氷瀑みたいだった

暗闇の籠城現場でストロボが発光しない

1972.2.28夜

進捗情報もないまま日が落ち辺りが暗くなるまで、NHK保養所前でひたすら待っていた。
籠城現場の雑誌写真記者会代表撮影担当の僕らは周りの動きが変わったのを察知し、行き交う警察関係者から人質の無事解放と犯人確保の話を聞き、ストロボのバッテリー状態や発光テストしながら出番に備えていた。

あさま山荘事件籠城の全記録 72年2月28日 週刊サンケイ

警察官の先導であさま山荘に近づくと、辺りは涙が出るほど催涙ガスが充満し霞がかかっていた。
クレーン車や放水車の横を抜けめくれ上がった屋根、壁が剥がれ露わになった木部などを撮影しながら、正面玄関への階段は足の踏み場もないうえ放水で凍結した氷瀑のように表面はツルツルになっていた。一段一段慎重に下りて犯人が立て籠もった場所を探した。
たっぷり水を吸いよじれた畳が何枚も通路を塞ぎ、壁が半分以上なくなった3階の談話室といちょうの間を撮影し始めた時事故が起きた。

ストロボがシンクロ(発光)しない。
カメラとストロボを繋ぐシンクロコードを何度か抜き差ししたが発光しない。

全く無反応だ。

モノクロ担当のA社はバシャバシャ、軽快にシャッターを切り続けている。
A社のカメラマンも異変を察知したため「オープンストロボ」のお願いをした。

これは二人が同じ方向にカメラを向け僕が始めにバルブ(シャッターを開けたまま)でシャッターを押し、次いでA社の撮影ストロボの光を使ってカラー・モノクロ同時撮影後、開いていたシャッターを閉じるアイデアで難局を切り抜けた。これで僕と機材が貧しかった会社の評判はがた落ちした。

機動隊のガス銃と犯人が乱射した銃弾で穴だらけになったバルコニーに面した天窓や天井裏へ逃げ込んだ穴など1ロール撮影できた。

週刊サンケイ臨時増刊 72年3月27日号 特価200円

後に公開された映画では押入れ?で布団にくるまって狙撃していたと知った3階のベッドルーム。

立ち入り禁止だったのか?撮影した記憶も全く無かった。
部屋の照明もなく暗黒の闇にストロボが光る一瞬しかみえない。
各社に配信された掲載写真を改めて見ると手前の部屋には天井板が破れ垂れ下がった下に奥を覗き込む白ヘルに長野地方検察庁の腕章をした2名、壊された壁の奥に見える2段ベットの前で懐中電灯で現場検証?中の4名の警察官と布団が写っていた。
床は柱や垂木が床に写り込むほど水浸しで映画以上の突入の凄まじさがリアルに伝わってくる。無事救出後何時間か経っていたが室内の催涙ガスは全く抜けず最後まで目がしょぼしょぼの環境だった。

人質だった管理人泰子さんは大量の放水、ガス弾で呼吸もままならないなか恐怖と戦っていたと思うと言葉もない。

撮影した写真の記憶があまりにも少ない理由は、撮影したフィルムは各社への配信のためその日のうちに東京に持ち帰って現像するため上がりのセルフチェックができなかったためだろう。

週刊サンケイ臨時増刊 72年3月27日号 特価200円 週刊サンケイ臨時増刊 72年3月27日号 特価200円

週刊サンケイ臨時増刊 72年3月27日号 特価200円 週刊サンケイ臨時増刊 3/27号 特価200円

事件の概要は週刊サンケイ 72年3月17日号巻頭グラビア"あさま砦”の決戦から引用

昭和45年の東大事件、46年のハイジャック「よど号」事件に成田攻防戦。そして、今度の「あさま山荘」籠城事件と過激派・機動隊の対決は、いよいよ戦争なみの大がかりなものになってきた。平和ニッポンのなかの憎悪と流血。無法な彼らの行動は、狂気としか言いようがない。
山を追われた連合赤軍が逃げ込んだのは、長野県南軽井沢のレイクニュータウン。追い詰められて「あさま山荘」の管理人夫人、牟田泰子さん(三一)を人質にした彼らは、ピストルや銃で威嚇しながら籠城、ついに、”不落最長記録”をつくってしまった。
警察の必死の強行偵察や説得にもナシのつぶて。泰子さんの安否が確認できないまま不安な日々がつづいたが、ついに二月二十八日、決死隊が「あさま山荘」に突入した。
午前九時五十五分、最後通告が出され防弾チョッキと鉄カブト、ピストルで完全武装した四十人の突入隊が大ダテを先頭に正面玄関に接近。建物破壊用のクレーンの先に直径六一㌢、重さ一・五㌧の鉄のボールをつけた”モンケン車”が突破口をつくった。放水とガス銃の総攻撃。猟銃で必死の応戦をする犯人。このため、突入隊員の警視庁特科車両隊本部付の高見繁光警部(四二)と内田尚孝第二機動隊長が殉職、報道カメラマンを含め、多くの重傷者を出した。
正午すぎ、”特攻隊”は一、二階と三階の大部分を占拠したが、ベッドルームと屋根裏に隠れた犯人たちは、手投げ弾を使用、救出作戦は停滞した。
ピストルとライフル銃の使用許可命令が出され、三時三十分すぎ、体制を立て直して最後の攻撃が再開された。
そして、戦いは日没まで続き、五人の犯人は逮捕され、泰子さんは無事救出された。

人質の安全を守りながら、犯人を逮捕する。その目的達成のためにとられたのが”物量作戦”だった。放水車、投光車、輸送車、無洗車などの車両が百九十二台。防弾タテ千四百三十九枚、防弾チョッキ八百四十一着で身を守りながら、二十八日の”攻略”には放水量一〇〇㌧、ガス弾約千発、ピストル十五発を発射。機械力ではヘリコプター三機のほかに、ビル解体用の一〇〇〇㌔のおもりのついた”モンケン”も主役として登場した。
レンジャー部隊も動員されて、警察側の実働延べ人員は一万二千九百七十五人。費用は一億円を軽くオーバーする大捕物だった。

 

以下は事件の要約と動画のリンクです。

懐かしの毎日ニュース 1972年2月28日 あさま山荘事件 泰子さん無事救出

朝日新聞デジタルの解説と動画

あさま山荘事件の中継を担当した松川洋右アナのNHKアーカイブ話と動画

テレビ中継の裏話

フジテレビ系、長野放送の連合赤軍あさま山荘事件犯人逮捕スクープ撮裏話

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NEWSの現場 1972年 あさま山荘事件 最終回 人質無事救出 

「人質を放して、すぐ出てこい」

1972.3.3

あさま山荘の犯人は、人質の泰子さんには危害を加えなかったが、包囲した警官たちに対しては”一人でも多く殺す”のが目的のように、ライフル、猟銃を乱射した。
午前十時からの攻撃から八時間後の午後六時過ぎ、ようやく犯人を逮捕泰子さんを救出した。

その夜収容先の軽井沢病院の廊下に報道各社が溢れていた。警察官が立って規制している廊下の突き当り右側の部屋が病室らしいことが分かり、 先輩に提案し二人で病院の裏手に回ると門灯が消え、玄関が暗いままの旅館があった。

「ごめんください」

奥からご主人が出てきた。

「突然ですが、こちらの2階の部屋を使わせていただけませんか?」

「この時期営業してないのでお受け出来ません。布団も湿気ってる可能性もあり寝れませんよ」

僕らは宿泊ではなく2階の部屋をお借りしたいだけですが、せめてお部屋だけでも見ることは出来ませんか? 宿の主人は渋々2階に案内してくれた。目的の部屋は大広間だった。
部屋の電気を点けようとしたご主人に

「暗いままで結構です」

そのまま窓辺に近寄りほんの少し障子を開け目前の病室を見ると、窓の外縁に牛乳瓶が1本置かれカーテンの隙間から病室が見えた。

「ご主人!このあたりから二人で一両日ぐらい撮影するだけですが、いかがでしょうか?」

懸命にお願いを続けた結果、少しだけ可能性が見えたため夕食後に再度お伺いした時結果を教えてくださいと伝え食事に行った。食事の帰り先輩が酒屋の前でつぶやいた。

「そうだ、酒持って行こうか」

片手に一升瓶を持って旅館に着くと

「お仲間の方々が2階におります」

えっ。誰っ?
ご主人に手土産を渡し階段を上っていくと大広間には、電気を点けて新聞のカメラマンと伝送室の技術者が旅館の電話線から伝送機への接続作業をしていた。

「おうっ!戻ってきたか。素晴らしい前線基地、出版もやるね〜」

その晩も翌朝も、牛乳瓶は天然の冷蔵庫に置かれたままだった。

入院後翌々日?に病室インタビューが可能となり、ごった返す病院の廊下の隅で雑誌写真記者会の代表撮影の抽選会が行われた結果、また僕が当たった。

「S社さん、お宅のストロボ大丈夫なの?発光しないストロボ使ってんなら辞退だよね〜」

先日のあさま山荘での代表撮影事故は各社に知れ渡っていた。
新しいストロボも届いていたが、高感度フィルムTRI-Xなら最悪ストロボ不発でも撮影が可能のため

「ではカラーを辞退し、モノクロ担当で撮らせてください」
「しょうがねーな〜」

カメラマン人生で最初で最後のストロボ事件だった。

連合赤軍全調査 72年3月27日 週刊サンケイ臨時増刊 牟田康子救出 週刊サンケイ臨時増刊 3月27日号 連合赤軍全調査より

この写真のキャプションは
二百十八時間ぶりに救い出された牟田泰子さんは、最初の診断では「意外なほど元気」だった。
しかし、日がたつにつれて恐怖感がぶり返すようで、口数が少なくなり、犯人のことも話したがらない。

静かな軽井沢から一週間ぶりに帰京。東京駅で降りタクシーで社に向かった。
その時耳に入ってきた東京のノイズと車の排気ガスで一瞬めまいを起こした。

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