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クレジットカードも無い1973年、

バックパックとニコンFで

格安世界一周 写真旅

良く晴れた1973年5月26日、横浜港の大桟橋からソビエト連邦(現ロシア)のナホトカ港への連絡船バイカル号に乗船して、バックパックにニコンFと格安チケットで世界一周の写真旅を始めた。
このナホトカ航路はシベリア鉄道への連絡航路として1961年に定期旅客航路としてソビエト連邦崩壊の1991年までは時間がかかるがヨーロッパに渡る格安のルートだった。夏期は週1便、冬期は月二便で11時に横浜を出航して2泊3日53時間後に殺風景な港ナホトカに着くコースだ。
旅に出るきっかけはここからだった。

 

 

 

「人は節目を迎えるごとに冒険が難しくなる」 ギャート・クナッパー

24才の誕生日を迎えた1972年の早春、西ドイツからやって来た陶芸家ゲルト・クナッパーさんを取材に益子を訪れた。

5歳年上のクナッ パーさんは1965年にアメリカ・ニューアーク美術館で作陶を学び、世界35カ国を巡りながら加藤唐九郎、濱田庄司、バーナード・リーチを訪問し、68年 島岡達三の援助で益子で修行・築窯。1971年 第1 回日本陶芸展で最優秀作品賞、文部大臣賞を受賞。

日本脱出を漠然と考えていた頃、取材中の会話で背中を押してくれたクナッパーさんのアドバイスは
「人生の節目を迎えるごとに冒険が難しくなる』
『結婚すると一つ冒険が出来なくなり、子供が産まれるとまた冒険が難しくなる』
愛妻のキエさんとの新婚生活をスタートしたばかりのクナッパーさんの言葉に大変な説得力を感じた。
『考えていても何も始まらない! 行動しなきゃ』

これをきっかけに日本脱出は73年の5月頃と決め 海外への足がかりを求めて動き出した。
が、インターネットも海外旅行情報誌もましてや渡航費用の蓄えも全く無い時代の ヨチヨチのフォトジャーナリストが目指したバックパッカーの格安世界一周 写真旅のブログスタート。
1943年生 / 2012年11月2日没
ギャート・クナッパー ©Keisuke NISHIDA 撮影 西田圭介 週刊サンケイ / 720218号

 

渡航資金はバイトと、ある時払いの催促無し

マイクロファイナンス投資個人ファンド設立!

70年代のヨーロッパ最安バックパッカーコースは、横浜港からナホトカ経由のシベリア鉄道で行くのが一般的で、モスクワ・レニングラードを経て北欧、ヨーロッパ、北アフリカ、中東~インド、ネパール、アジアでおよそ10ヶ月間の計画だった。
旅のもう一つの夢はスエーデンで6×6カメラ、ハッセルブラッド500CMを買う事だった。記憶ではプラナー80ミリとボディセットで東京価格は40万円弱の高価なカメラで月給4万円に満たない僕には高嶺の花だった。関税について詳しくは分からなかったが外国人なら免税で買えるはずなのでうまくすれば旅費ぐらい出るかもと期待が膨らんでいた。
カメラに50万、一日10ドル(当時のレート1$=265円)×300日約80万、船賃・ユーレールパス・インドからのストップオーバー航空券が20万円であわせて150万円ぐらいと考えた。
しかし貯金もたいして無かったので思いついたアイデアがマイクロファイナンスの自作自演版
「ある時払いの催促無し!一口5万円の融資」を募ること。
一口5万円(現在だと一口20~25万円相当)の借金を皆様から融資?してもらうが、帰国後お金が溜まったら返金するが借金返済の催促は受けられません! というチャッカリアイデアだった。
利子は世界各地のお土産に期待してもらった。
先輩でも月給は5万ちょっと程度だった時代に同級生や会社の先輩の他に、なんと有り難い事に仕事でお世話になっていたフィルムのカラー現像所や大日本印刷の営業の先輩達までもが1~2口出資してくれた。
海外への外貨(ドルやドイツマルク)持ち出しも制限があってパスポートに金額を書く欄(写真参照)まであり、外為窓口のある銀行にパスポート持参でキャッシュやトラベラーズチェックの交換をした。
クレジットカードも確か1983年まで日本ではサービスが無かったため、キャッシュ以外の金は全てトーマスクックのTC(トラベラーズチェックも使えるお店は少なく、市内の銀行や大都市のトーマスクック支店であらかじめ現地通貨に換えておく必要があった)に換えた。その後AMEXのサービス開始と同時にカードを作ったが85年のキューバ取材では全く使えなく(国交が無いから?国内でも利用出来る店が限られた)、ヨーロッパのレストランはカルトブルーが多かったので85年から私はVISAカードです。
アルバイトも先輩達がいろいろ面倒をみてくれたおかげで貯金が増えだした。
TC&Cash渡航費用に関する証明

 

 

10ヶ月の世界一周写真旅が、

突然期間短縮の3ヶ月海外出張になってしまった!

1972年の秋頃、上長に長期休暇の相談をした。
「10ヶ月も! 残念だけどそれはちょっと無理ですね」
「解りました。申し訳ありませんが、来年の5月頃退職させて頂きます」
それからは渡航費用ファンドの理解者探しと、数少ないバイト撮影を丁寧にさせて頂いた。

「おい時間があったら、昼でも食いに行こう」
73年の春先に編集長から突然声をかけられた。
「ところで、海外に行くという噂を聞いたが何処行くんだ?」
「期間はどの位なんだ?」
と、矢継ぎ早の質問に応えていると
「なんだたった10ヶ月か、中途半端な期間だな。2~3年なら止めやしないが社員の出張にするから3ヶ月で帰ってこい!」
当然の提案に正直ビックリした。
総務部長から聞いた説明は、渡航費用は自己負担で別途精算無しの1日10ドルの取材費(日当?)と期間中の給料、ボーナスが全額支給だった。

身に余る良い話だったが、その頃既に進めていた事が・・・

学生バイトだった1968年夏、新宿淀橋浄水場跡地の整備が整い毎週末の深夜ともなると辺り一帯が暴走族の集会場と化していたのをルポした企画「爆発する青春広場」で運良くグラビアデビューが出来た。
週刊サンケイ/ 680930号 週刊サンケイ / 680930号

1970 年11月の「三島由紀夫自決」のスクープや71年春の国内初の女子大生ヌード企画「キャンパスの妖精たち」が立て続けに完売したため、フジテレビの月~金 の23時枠の人気番組『テレビナイトショー』プロデューサーから、毎金曜のご当地ヌードの人気コーナー「風土とヌード」の担当カメラマンに立木義浩さんか らバトンタッチして欲しいとの出演依頼だった。

第1回目の金沢ロケ放映翌日に東映広報室からモデル嬢の問い合わせを受け事務所を紹介した。彼女は2ヶ月もしないで封切られた東映ロマンポルノの新人から女王となった「池玲子さん」だった。

週刊誌カメラマンとして刺激的な日々を過ごしていたが、新聞社や雑誌社、広告代理店のカメラは社カメと呼ばれる組織に属した人が仕事をこなしており、フリー はごく少数のスターカメラマンだけだった。そのため帰国後の食えるカメラマンを目指してAPA(日本広告写真家協会)の公募展に応募しながら会社訪問を始 めたところ、運良く大手広告代理店の内定直後に出張が決まった。

「採用条件は円満退社です」
「こんなに楽しい活躍の場があるのに、朝から晩まで毎日が物撮りの世界でいいのか?」
と専務取締役から念を押された。

 

 

 

1973.05.26. 横浜大桟橋

快晴の1973年5月26日(土曜)

横浜大桟橋からバイカル号で青年は荒野をめざす!

40年前の天気も今日と同じく朝から快晴だった。
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特製のカメラジャケット。スリから貴重品を守る内ポケットに露出計やレンズの出し入れが楽なポケット。旅の後半飛行機を利用する時ウェイトオーバーになるカメラ機材全てをこのジャケットに入れて?無事入国、出国審査をパスできた。我ながら機能性の高いジャケットになった。

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テープの投げ方はプロ並み。まず芯を抜いて芯を持って投げると良く飛ぶ。グループサウンズの取材でファンに教えてもらったワザ。

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カメラは渡辺達生(東京に送ったフィルムの現像処理で大変お世話になった)さんと都立武藏丘高校鉄道研究会、日本初のハンググライダーのフライトを成功させた東京ハンググライダー研究会の後輩たち。

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秋葉原のニッピン(日本用品株式会社)か新宿の好日山荘で買った海外ブランド(イギリス?)のバックパックと、銀座の谷澤鞄店(1890年初代谷澤禎三が「鞄」という文字を考案し銀座に店を構えた。100周年の1974年に銀座タニザワになった)で購入したカメラバックはベルトの付け替えだけでリュックとショルダーバッグに変身する優れもの。以来ジュラルミン製のトランクやセミオーダーバッグで大変お世話になったお店。
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写真は横浜の出国印パスポート、ユーレイルパスインツーリスト乗船バウチャー、傷害保険証

当時のメモによると、バックパックには大学ノート1冊にジーンズ2本、Tシャツ3枚、下着のパンツ5枚、シャツ5枚、歯ブラシに石けん、パジャマ、薬は風邪薬に胃腸薬、バンドエイド、メンタムそして正露丸。

20世紀の3代巨匠パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、ホアン・ミロを取材するためだけに購入したサファリジャケットを入れた。
夢のようなフジテレビの取材クルーとスペインで合流予定だったが、出発直前の4月8日にパブロ・ピカソの急逝によりロケのスケジュールがバラされたままで出航日を迎えてしまった。この話は後述予定。

谷澤カメラバッグにはニコンFボディー2台、レンズは24㎜・35㎜・105㎜の3本、アサヒペンタックス6×7に55㎜・150㎜・300㎜レンズ3本、コダックのブローニーカラーフィルムEX60本、EH20本、EHB20本。35㎜モノクロTRIXを100本、カラーはメモが無いので不明だがEX・K2・EHB・EHを各20本ぐらいとストロボや電池等25キロぐらいだった記憶。

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10ヶ月の旅程が3ヶ月に短縮したため出航時の予定では5.26横浜→5.28ナホトカ→モスクワ→6.1ヘルシンキ→6.3タンペレ→6.4ツルク→6.5ストックホルム・・・となっているが、パスポート、1等3ヶ月有効のユーレイルパス、横浜からナホトカ、モスクワを経てヘルシンキまでのインツーリストのバウチャー、バックパッカー必携のロングセラー日本交通公社刊「POCKET INTERPRETER6カ国語会話 2」(定価360円 初版昭和43年、47年10月20日9版発行)と期間短縮のため急遽購入したパンアメリカン航空(通称PANAM)の南回りアテネ発イスタンブール、デリー、ジャイプール、カジュラホ、アグラ、ベナレス、カトマンズ、デリー、バンコク、香港、羽田の航空券に住友海上火災保険株式会社の海外旅行傷害保険(4ヶ月、入院給付2,000万円の傷害保険。保険金は36,616円)を持ってバイカル号に乗船した。

 

 

1973.05.27. バイカル号

ソ連への通関時に許されるのは、

カメラ一人1台以内!

受信機1家族1台!

バイカル号2日目。波もなく穏やかに船はNakhodka(ナホトカ)に向かっていた。
朝起きてビックリしたのはまだ千葉県沖だった。明日27日にナホトカ港なので半分納得。

当時最も安くヨーロッパに渡る手段としてあったのが横浜→ナホトカ→モスクワ→ヘルシンキか、モスクワ→ウィーンだった。時間のある人はナホトカからシベリア鉄道経由で渡欧していたが日程短縮のためハバロフスクからモスクワはアエロフロートで空路利用にした。

1973 年5月10日に株式会社 日ソ ツーリスト ビューローで購入したチケットは、ナホトカ→ハバロフスク→空路モスクワ入りして2日間のモスクワ観光(ファーストクラスのホテル泊)を含む食事付きの2 等5日間で162ドルと書いてある。当時のレート1ドル=266円で換算すると43,092円だ。

バイカル号の船賃の資料がまだ見つから ないが乗船時に渡されたカードによると4人部屋のキャビンで9:30に朝食。ランチは13:45、ティータイム17:45、ディナーが20:00となって いる。同じキャビンに日本人2人と、家族と共に新しい赴任地に向かうためのアメリカ人宣教師が同室だった。


バイカル号バウチャー             

日ソツーリスト ビューローの領収書とバイカル号の乗船券

ソ連経由で旅行するためにはインツーリスト(当時はソ連政府観光局)のお世話無しでは旅行ができなかった。もらったパンフには、以下原文で

「ソ連の旅をつうじてみなさまは、ソ連邦を構成する15の共和国の名所、旧跡、すばらしい自然に接し、大建設の状況、国民経済の成果、史跡、文化の遺跡、ソ連邦に居住する100の民族の芸術と文化を親しくお知りになることができます。
『インツーリスト』がお勧めしておりますコースは多様ですが、中でも、・・・一部略」

外国人旅行者のための税関規制
ソ連邦の出入国に際して外国人旅行者が携帯を許可される製品は、本人にとって必要な日用品だけです。
旅行者は、次の製品に限って、無料で、登録なしで通関することが出来ます。
衣服、靴、下着類、ツーリスト及びスポーツ用具、化粧品、美容品その他の細かな日用品   ソ連滞在中あるいは外国旅行中に必要な、しかもそのシーズンに応じた数量たとえば、
○ウールあるいは化繊のセーター、ジャケット、カーディガン、チョッキ、スカート、スーツ、ワンピース   1人3着
○スカーフ、ネッカチーフ、マフラー   1人3着
(注) ソ連国内に定住していない人が毛皮製品を持って入国するさいには登録する必要があります。出国のさいに誤解のないようにするためです。
○受信機          1家族1台
○カメラ          1人1台以内
○シネカメラ        1人1台
○カメラとシネカメラの備品 カメラとシネカメラ所持の場合各1組
○携帯用タイプライター   1人1台
○アコーディオン、バヤン  1人1台
○その他の楽器(ピアノは除く) 1人1個
○時計(ふつうの金属製のもの) 1人2個
○各種のスベニル      適量

無税で通関できる嗜好品
○アルコール飲料      1人1リットル
○ワイン          1人2リットル
○タバコ          1人250本(その他のタバコは1人250グラム)
○キャビヤ         1人400グラム
上 記の数量をこえる(ただし度をこさない程度の)物品、および第三者に渡すための物品は関税を払った(ルーブルあるいは外貨で)うえで、持ち込みが許可され ます。無税で、および関税を払って通関を許された同一種類の物品の総量は、上記の規定数量の2倍をこえることは許されません。

カメラが3台も・・・

 

1973.05.27. バイカル号

迷惑でなければ友達のために助けて欲しい。

宣教師さんからの突然の告白!

地味なバイカル号の食事に出た酸味のある黒パンはほとんどの日本人客からは不味いと評判が悪かったが、特にあの酸味のある黒いライ麦パンとボルシチは相性 が良く美味しかった。帰国後は加藤登紀子さんのご両親が亡命ロシア人救済のために始めた新宿のロシア料理「スンガリー」や芝公園にあった「ヴォルガ」や神 保町「バラライカ」には良く通ったがヴォルガとバラライカは区画整理で閉店になってしまった。
食事の後は船員さん達総出のショーが手作りながら楽しくコサックダンスは真似しても全く踊れなかった。

バイカル号操舵室

翌日の下船が近づくと気になるのは入国審査で、
ソ連国内持ち込み制限のカメラは1人1台と書いてあるが、3台もあるカメラをどうしようと思っていた所、同室の聖職者から告白されたお願いは何とか持ち込みたい物がある・・・

インツーリストのガイドには持ち込みを禁止されているもの
a. あらゆる種類の軍用兵器とその弾薬
b. アヘン、ハシシュおよびその吸引用具
c. わいせつ本、春画、エロ写真
d. ソ連にとって有害な政治・経済図書、ステロ版、ネガ、写真、レコード、映画フィルム、原稿、絵その他。
インツーリストのパンフより。

現在のようにインターネットも海外旅行情報誌も全く無い時代数少ない情報は
日本交通公社の六カ国語会話2(日本語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語)のチャプターごとに付いているメモだけだった。

それによると「空港で」
※ 無料で運べる手荷物は
1等・・・・・・・30kg
エコノミー級・・・20kg
機内に持ち込むショルダー・バッグ類も上記の制限量に含まれる。ただし、次の品物は計量しないで機内に持ち込むことがせきる。
婦人用ハンドバッグまたは薄い書類入れ1個:オーバー類1着:ひざ掛け1枚:コウモリ傘またはステッキ1本:小型カメラ(35ミリ、6×6判などの一般カメラ)または双眼鏡1個:飛行中の読み物若干:幼児用食物および保育用バスケット。

巻末にあるソ連旅行の手引きには
ソ連旅行の特色
ソ連を旅行する人は、すべてソ連国営旅行社インツーリストのクーポン式旅行券を買わなければなりません。この旅行券は、特等、1等、ツーリスト・クラスの3等級に分かれており、料金の中には次のものが含まれています。
 ホテル代、食事代、2個までの荷物運搬料、空港・ホテル間の送迎料、観光見物料
空港または湊に着くと、インツーリストの係員が出迎え、お客をそれぞれのホテル・駅に案内します。主要ホテルにはインツーリストの案内事務所がありますから、困ったことがあれば何でもここに行き、相談すればよいわけです。
なお、このクーポン券類は、それぞれ1日分がセットになっているので、サービスを受けた都度、そのクーポン券で支払ってゆけば良いのです。

ナホトカ航路
船内案内
◆ ソ連の船は、等級によるサービスの差はないので、食事内容も全部同じ。1等船室で毎晩行うダンスパーティーや映画会なども、各等の船客が自由にさんかできる。等級の差は船室の広さと施設だけ。
◆ 船内の売店では、ドルでも日本円でも通用する。売店では安い酒やタバコ、ソ連のみやげ品などを売っている。
◆ 服装はスポーツシャツ、セーターなどの軽装でよく、ネクタイや上着の着用は不要。
◆ 船内のアナウンスは日本語で行われる。

入国手続
◆ 1等船室で、前に預けた書類(旅券・鉄道乗車券など)返してもらい、同時に列車の指定、食堂車の食券、荷物札をもらう。
◆ この荷物札を船室の自分の荷物に付けておくと、後はポーターが列車に運んでくれる。
◆ 税関申告書が配られるから、それに所持金(ドル・日本円の一切)、宝石、貴金属、カメラ、トランジスタラジオなどを、正確に記入する。
◆ 税関吏が1等船室から順に検査に回ってくる。検査はカメラ、テープレコーダー、トランジスタラジオの有無を聞く程度で簡単。なお、テープレコーダーはなるべく持参しない方がよい。カメラは1人2台(インツーリスト情報では1人1台以内)まで。
◆ 税関申告用紙にスタンプを押して返してくれるが、この用紙は両替の都度必要であり、また出国の時もひつようだから、絶対に無くさないように。
以上で入国手続きを終わり下船する。

巻末にある、ソ連旅行の注意
◆ 航空機からの写真撮影は厳禁されている。観光物件の撮影は自由だが、空港・橋等は禁じられているので、十分注意したい。なるべくガイドに聞いてから撮る方がよい。
◆ チップに気をつかう必要はない。
◆ 病気の時は、ホテル内に医者がおり、原則として無料で、診察・治療してくれる。
◆ ソ連では英語はほとんど通用しないから、ロシア語の会話集を持って行くと便利。ただし、サービスビューローの係員は英語を話す。
ルーフデッキで

前置きが長くなったが、宣教師の方の話は
ソビエト社会主義共和国連邦、略称ソ連では西側に対して信教の自由を認めるスタンスでも、実際は厳しい政府の管理下にあり聖書が大変不足しており、今回友人の要請で聖書を何冊か持ち込んでいる。
聖書は無くてはならぬもので信者の方もとても必要としており、何とかして聖書を届けたいが、我々に預けると発見された場合迷惑をかけると大変悩んでいた。

私のカメラは3台もあったのでこちらは同室の日本人学生にニコンを1台持ってもらう事になった。

 

 

1973.05.28. ナホトカ

ナホトカ港に接岸するとソ連兵と入国審査官が乗船。

隣のキャビンに移動した宣教師家族は・・・

朝食を済ますと2泊3日の船旅の目的地ナホトカが見えてきた。
娯楽施設は輪投げぐらいで何も無く日中はデッキで日光浴・読書に船内スナップ。ディナー後の船員総出のアトラクションはシンプルながら楽しいショーだった。
船上パーティー

キャビンに戻ると宣教師の方は
「アメリカ人は入管手続きに時間がかかる可能性があるので、私は家族のいるキャビンに移動します」と言って隣の船室に移動した。
「聖書は没収されるかも知れないが、嘘は言えないし皆に迷惑をかける事もあり得るのでただ祈るばかりです」
ナホトカ港に接岸

バイカル号が無事ナホトカ港に接岸されるとカーキ色のソ連兵らしい人達が乗り込んで来た。

ガイド通りに特等船室から順番に手続きが行われているようで、ツーリスト・クラスの順番はすぐには回って来なかったが、カメラ1台を同室の日本人に託してドキドキして待っているとようやく隣の宣教師家族のキャビンに係官が入った。
突然動きが少し慌ただしくなり、軍服?を着た若い係官たちが両手に一杯の書籍や荷物を他に移動させ始めた。
相当長い時間耳をそば立てて待っていると、ようやく2名の部下を従えた係官が我々のキャビンに入ってきた。
部下がベッドの中をあらためていると、椅子に座ったまま手荷物やバックパックを一瞥して
「タバコは?」
すかさずソ連旅行2回目のS君がセブンスターを1本差し出すと、にっこり笑って一服付けたまま動かない。
「味はお好きですか?良かったらこれどうぞ」
と未開封のセブンスター一箱を無言で受け取り
「良いカメラだな。日本製は優秀だからな」
とカメラを触りながら言われても黙っていた。
酒は持ってないか?ラジオ持ってないか?と物欲しそうに色々聞かれたが3人の入国許可がおりた。

荷物をパッキングして廊下に出たがアメリカ人宣教師の家族の姿は見えなかった。ハバロフスクへ移動するシベリア鉄道でも見かけなかった。

下船時に船員さんの帽子を借りて記念写真。脅威のシベリア鉄道トイレに続く。

バイカル号下船

 

1973.05.29. ナホトカ→ハバロフスク 

シベリア鉄道で駅舎等の撮影は禁止。

見つかるとフィルム没収!

バイカル号を下船してナホトカ駅( 42°50'29.53"N/132°56'7.00"E)からシベリア鉄道に乗ってハバロフスクへ向かった。
街は活気が無くとても殺風景に感じた。

これが同世代の学生運動家達が声をからしてアジっていた理想郷なのか? 
現地を見ながら学生運動経験者に話を聞きたかったので、船中でも同世代の人達に声をかけたがノンポリばかりで彼らが目指していた世界観は今も解らない。

僕より早くシベリア鉄道経由で渡欧した友人の話では、夜中に寝台車から身をそっと乗り出して駅舎や人々を撮影していたら翌日係官がやって来て
「あなたは昨晩、列車から撮影してましたね!」
と言われフィルムを没収された。
彼は見つからないようにカーテンの隙間からレンズだけ出して撮影していたのになぜ発見されたのか全く解らない。もしかしたら寝台車に盗聴機やカメラがあるかも知れないので十分気をつけるようにアドバイスをもらった。

確かに駅や踏切には戦車が配置されていた。
バイカル号の入国係官の真似をして、ベッドマットの下や備え付きの灰皿の裏側など4人部屋の寝台車中探してみたが素人には発見できなかった。
でもマイクがあったらと思うと何かジェームス・ボンド気分だった。

シベリア鉄道


1973.05.29. シベリア横断鉄道 

バックパッカーの鉄道旅行史上、

最初で最後の食堂車と寝台車

長距離国際特急列車でも食堂車が連結されている列車はうまく選ばないと出会えない。

最近のTGVなどほとんどカウンターがあるだけのカフェテリアやビュッフェ式でサンドイッチやスナック、カフェサービス程度で日本と変わらない。人件費の問題かも。
有名なのはスペインのバルセロナ、マドリッドから、フランス、スイス、イタリア、ポルトガルに向けて走る国際夜行列車

1975 年3月の新婚旅行で利用したデュッセルドルフ→ローマ。ウィーンに行く予定デュッセルの駅に向かったが、あまりの寒さで暖かそうなローマに行く先を突然変 更した時だけだ。この時も得意の1等21日間のユーレイルパスだったので、乗務員が座席までメニューを持って注文を聞きディナーは何時からと言われ、時間 に食堂車に行くと映画オリエント急行みたいな毛皮をまとったセレブ達ばかりだった。

シベリア鉄道なのでヨーロッパ並みの豪華さは無かったが、70年代の新幹線よりはリッチな感じがありリラクゼーションとか非日常に対する感覚は未だに日本には無い感じがする。
写真のようにクロスがあるだけで楽しい。

シベリア鉄道食堂車

そこでテーブルサイドにあったのがこれ!
ロシア語は読めないのでなんと書いてあるか分からないけど、プラスチック製とはいえ海外に爪楊枝を発見。ガラクタコレクション第1号。
シベリアの爪楊枝

一番ビックリしたガラクタコレクション2号はこれ!
これもキャッチコピーは読めないけどサンドペーパー並にザラザラで痛くなるトイレットペーパーだ。
文字や話では到底伝わらないので永久コレクションにした珍品。
とても紙とは思えない。質感が伝わると良いのですが・・・

シベリア鉄道のトイレットペーパー
シベリア鉄道のトイレットペーパー

 

 

1973.05.30. モスクワ

赤の広場辺りで「ハロー」と英語で近づいて来る人は

ブラックマーケットのバイヤーだ。

一番人気はサングラス


昨日ハバロフスクからは空路でモスクワ着。
空港から舗装が悪く、だたっ広い道路を走って市内のホテル・レニングラードに着いた。
このホテルはセブン・シスターズと呼ばれるソ連時代に建設されたスターリン・ゴシック様式の七つの摩天楼の一つで17階建て、136メートルの高さで7本中一番低いホテルだ。
昨晩は念のため、部屋の天井や照明に隠しカメラが無いか一応チェックしてから就寝した。

レニングラードホテル

朝食の時に旅慣れたS君が
「チューインガムとかサングラス持ってたらものすごく高く売れるよ。一番高く売れるのはジーンズなんだよ!」
そのため彼は日本からダース箱のグリーンガムとサングラスを持参していた。僕はジーンズは2本しか無いので売る物は無かった。
彼はこのガムさえ売れば、今夜は3人に食べきれないほど御馳走できると話した。にわかに信じられなかったが
「誰に売るの?買い手が分からないと困るのでは?」
「大丈夫! 赤の広場や観光スポットを歩いていれば、必ず向こうから英語で声を掛けてくるのがいるんだ。彼らがブラックマーケットのバイヤーだから全然心配ないよ」
豪華で大理石で作られた巨大な地下駅は核シェルターにもなるという。駅から地下鉄で赤の広場着いたとたんに、革ジャン姿の男やジーンズの男が次々に小声で
「ハロー! ジャパニーズ?」
と声を掛けて来た。
あっという間にガムとサングラスは完売した。僕らが76年に創刊された雑誌ポパイに憧れたように、モスクワの若者達の間では高値の闇レートで西側の象徴として売買されていた事になる。85年のキューバでもジーンズは西側の象徴で若者に絶大な人気があった。恐るべし。

 

1973.05.31. モスクワ

ナホトカから同行したインツーリスト嬢の悩みは、

資本主義社会とソ連邦との

生活感のギャップが埋められない事だ。


昨日からソ連大学やボリショイバレーなどモスクワ観光。
ソ連旅行に欠かせない国営ガイド(監視役?)のインツーリストは同世代の女性だった。
あと数ヶ月で結婚する、いつもにこやかな彼女の彼に会うたびに言われる事は
「仕事で見聞きする西側の人達の話は、この先の生活を考えると相当なストレスになるから早く仕事を辞めた方がいい」だそうだ。
確かに街には商品はほとんど無く、グム百貨店の棚は肉も野菜もガラガラだった。軍人や白系ロシア人の身なりはそれなりに良かったがモンゴリアン系の市民の服装は厳しそうに見えた。これはナホトカもモスクワも同様に感じた。
肉体系の仕事に携わっているおばさん達が大勢いるのにも驚いた。
彼女のような流暢な日本語を学んだ高学歴の人は、おばさん達の生活レベルに比べたら雲泥の差があると思った。少なくもソ連型社会主義で叶えられるはずの自由で平等な社会は幻想としか見えなかった。
結局ブレジネフによる長期政権下で社会主義の矛盾が拡大し、経済も停滞したのでインツーリスト嬢の彼の指摘も正しかったのかも。

インツーリスト嬢

赤の広場でチューインガム長者になった僕らはS君の案内でルーブルで支払える立派なホテルで食事をした。そこに集まっている人々も軍人が多くモンゴリアン系は皆無だった。食事の後はホテルレニングラードに戻って紅茶を飲んだ。

赤の広場の子供

この子供隊がソ連崩壊の歴史の証言者になるとは・・・赤の広場で

モスクワの信号

モスクワの信号

 

 

1973.05.31~06.01. モスクワ11:30→レニングラード→ヘルシンキ/YH

ソ連側の長い森林ボーダーを抜けると

車内から一斉に拍手!!!

なぜか心が明るくなった


モスクワからレニングラード(サントペテルスブルグ)経由で翌朝ソ連側最後の駅で出国手続き。
出国手続きというよりも検問だった。
持ち出し禁止について、おなじみインツーリストのガイドには、
●世界の、諸民族の、そしてあらゆる時代の絵画、彫刻、版画の名作。
●イコン(聖像画)および、その他の教会用品。
●歴史的、学術的および芸術的価値のあるロシア語と外国語の草稿、肉筆本、16~17世紀のソ連邦民族の出版物、17~18世紀のロシア版画、、装丁技術の名作限定版装丁・・・。
●吹奏楽と減額の名器、『ステンベイ』『ベッカー』・・・の諸会社のピアノとグランドピアノ。
●金貨、銀貨、銅貨そのほかの古銭、金属その他の印判、勲章、メタルその他の表彰章。
通過ルーブルの持ち出しも出来ないと言われ両替所で交換するようにいわれたが1ルーブルを記念に靴下に入れた。
駅に着くと銃剣を持った兵士と出入国管理官らが乗車してきた。ナホトカの下船時より厳しく車両通路のカーペットの下に銃剣の先を入れて裏側まで全てチェックされ、長時間の手続きが終わると列車は動き出した。
バリカンを掛けた跡の深い森に線路が敷かれ、自由に向かって黙々と列車は走った。国境通過の初体験だった。

ソ連国境

この先に自由が!国境を通過。
濃い針葉樹の森を抜けるとすかっとした野原が現れ、フィンランド領に入ると列車中から一斉に拍手が鳴った。
同じ太陽が注いでるのに全く違う景色が眼前に広がった。
色が違う。
しかも明るい。
日光浴しているトップレス(死語だ!)の女性達がいた。何とも言えない開放感を皆が感じていた。何とも言えない不思議な感覚に包まれた欧州の第一歩だった。
写真は数少ない鉄のカーテンを超えるモスクワーヘルシンキ間を結ぶ列車。

ヘルシンキ駅

 

1973.06.02. 森川メモ 1

インターネットも海外旅行情報誌も無い時代、

唯一のガイドは先輩から

出発直前に届いた手紙のみ

横浜港出発直前の5月のGWにフランクフルトから4月30日に投函された1通のエアメールが届いた。
差出人は60年代にオートバイで世界一周をしていた格安旅行の達人森川章二先輩からだった。
森川さんはこの1973年に新婚旅行をかねて2度目の世界一周のため夫婦で海路インドを経て、陸路フランクフルトに着いて新車のフォルクスワーゲンを購入したようだった。
高価な新車を購入した理由は簡単だ。ワーゲンの新車が一番故障せず、帰国時に世界中どこで売っても高く売れる!からだ。売買の差額は中古車を安く買ってメンテナンスしながら旅行するより間違いなく経費がかからないからだった。しかもどの国で売る時はこうしなさいと細かく注意事項が書いてあった。
この他通貨の交換レート、宿泊費、タバコ・・・など情報満載だった。

中近東情報満載!森川さんからのエアメール

前略、お元気ですか、そろそろ出発の時が近づいたと思いますが、準備は順調に行ってますか。私達は今やっとドイツのフランクフルトに到着しました。遅ればせながら今までに得た情報を送ります。
1. ヨーロッパ : 
 まだパリとフランクフルトにしか滞在してませんが、物価が大変高く特に北欧はベラボーでユースでも他の国より高いようです。車があればまずオートキャンプ場、次がユースホステルでホテル等とても泊まれません。ドイツでも同じです。
 タバコはドイツで200円、北欧はその1.5倍から2倍します。日本を出る時各人10箱(200本)はカバンの一番底に入れて北欧で使う様残しておき、ソ連に着いたら割合安いので(一番安いのはまずくてのめない)日本と同じくらいの中くらいのを探して大量に買い込みヨーロッパで吸うと安く上がります。
 ソ連からフィンランドへ汽車で超える時フィンランド側の税関は荷物検査をしないはずですが一応タバコはいつもリュックの下の方に入れておいて下さい。
 日本からソ連へ入国する時、所持金は正直に申告しないと見つかった時取り上げられます。
アメリカタバコはフィンランドからスウェーデン(ヘルシンキ→ストックホルム、ツルク→ストックホルムの北100kmの町)へのフェリー、スウェーデンからデンマークへのフェリーの中でウィスキー(多分2本まで)と共に各人1カートン(10箱)を購入する券がフェリーのチケットにくっついているはずです。多分数箱ずつバラで買う時は何回でも買えるようです。
 オランダ、ベルギーは他の国に比べてタバコは安いと思います。
 
日本円の交換率はあまり良くないので帰国した時のタクシー代くらいを除いて全部ドルに換えておいた方がトクです。
 ドイツで車を買うのだったら丸の内(多分)のドイツ銀行でマルクを買って行くと率が良いと聞きます。円で買えるはずです。今ドイツでは1USドル=2.75ドイツマルクですので、これより良い様でしたらぜひ買っておくといいです。少し多めに換えてもマルクならどの国でも使えます。
 ヨーロッパではレストランはたとえセルフサービスのスナックでも高いので食料品は必ずスーパーマーケットか街の広場に出る朝市で買う事です。
 スウェーデン、デンマークのSex Bookはイスタンブールのバザールで10倍くらい(ねばれば)で売れると聞きましたが、買った時はどこの国境でもカスタムに見つからない様、体の中なりどこかいい所にうまく隠しておかないと取り上げられます。何十冊か運んで売った奴がいるそうです。
 スイスでは後に書く中近東、インドの交換レートより良ければ前もって買っておくと大変便利です。これはぜひ勧めます。
中近東、インド情報は次回に続く。

 

 

1973.06.03~04. ヘルシンキ→ STOCKHOLM port./Pen

地図も無い

現地通貨無し!

接岸したストックホルム港は

あっという間に誰もいなくなった。

街はどっちだ?

大事件を書き忘れた。
豪華フェリーが着いたストックホルム港には何も無かった!
豪華フェリーのSilja lineがストックホルムの港に着いて元気よく下船した。
出迎えのいる人は車やバスでドンドン出て行ったが、どこを探してもインフォメーションやオフィスが無い!
バスや市電に乗るにもスエーデンクローナが無い!
地図も無いから自分がどこに居るかも分からない!
あっという間に人がいなくなった!
再開発される前の70年代の竹芝埠頭や貨物船ターミナルの晴海埠頭でももう少し人の気配を感じた。
そうか! だから船中に銀行があったんだ。
仕方なく海を背にして広い通りを
歩き始めたが誰にも会わない。
ヒッチハイクしようにも車が走っていない。
歩けども歩けども建物すらなく街はかなり先のようだった。
Google Earthで調べると中心街まで直線で3㌔ぐらいだが永遠に着かない気がした。
旅慣れない初のトラブルでどうやって宿を探し、両替をしたか全く記憶が無い。
疲れはてた白夜の国。

ストックホルム港

 

 

1973.06.05. ストックホルム/Pen

プロカメラマンの必需品、

6×6カメラのハッセルブラッドの

聖地スウェーデンに着いた!

70年代のプロカメラマンは皆ハッセルブラッドを使っていた。
手にすっぽりと収まる6×6のレンズシャッター式カメラはあこがれのカメラだった。アポロ計画で月面撮影したのもハッセルだ。
ハッセル/アポロ
会社にあった6×6カメラはローライフレックスと通称「ゼンザボロニカ」と呼んでいた重い国産カメラしか無かった。私を含めて、当時このカメラさえ持っていればカメラマンとしてやっていけると幻想を抱いていた人が多かった。
ハッセル広告
このカメラ購入が旅の大きな目的の一つだったのでワクワクしながらストックホルムに着いた。
カメラ店の情報も無いので中心街にあるカメラ屋で免税扱いかどうか聞きながら店探しをした。店構えもしっかりしているHASSELBLADS FOTOと言う店で、バイトでためたドイツマルクのほとんどを使ってついにカメラ一式を購入した。この一ヶ月あとぐらいにドイツマルクの切上げが10%ほどありがっかりした。このお店の住所をGoogle Earthでみると現在はお店は無い様で奇麗なビルが建っている。
ハッセル500CM
73年当時、日本のカメラ店で500CMボディーにプラナーの2.8/80㎜レンズとセットで40万円前後だったと記憶しているがここストックホルムではボディーが1,173スエーデンクローナ、レンズが1,952スエーデンクローナと通関用書類に書かれている。当時のレートが分からないので何とも言えないが、ディスタゴンの4/50㎜、ゾナーの5.6/250㎜も買えたので多分船賃や航空運賃程度が浮いてしまった計算だ。その日は嬉しくて何度も何度も空シャッターをきって感触を楽しんだ。
日本を出発してここまでカラー撮影用に持って来たアサヒペンタックス6×7カメラにレンズ3本が突然重く感じ愛情が無くなってしまった。

ハッセル領収書

 

 

1973.06.06 ストックホルム→コペンハーゲン/YH

 

1973.06.08. コペンハーゲン/YH

デンマーク最大のポルノ制作会社の現場に

日本のマスコミ初の潜入ルポ!

上野アメ横でミリタリー&革ジャンといえばN商店だった。N商店の社長にコペンハーゲンでポルノ雑誌のディレクターをしていた川本さんを紹介された。
川本さんは1949年に渡米し53年にバーモント州立大の政経学部を卒業後に渡欧。スペイン、フランス、イタリアを経て62年よりデンマークに20年以上滞在していた。
スペイン滞在中に絵を学び人物画で生計を立てていたが、1970年のポルノ解禁とともにポルノグラフィー・ディレクターとして初仕事の週刊誌が爆発的売上を記録し一躍有名になった。
この週刊誌●●●●はポルノ解禁国以外では使用禁止の名前とメモに書いてあった。
当時はフリーランスディレクターとして3大ポルノ社のうち2社の仕事をこなす超売れっ子で100册以上のポルノ雑誌を制作していた。本業は翻訳や、天皇陛下訪欧時のデモ学生の裁判の通訳で英語、デンマーク語、フランス語、スペイン・イタリア・ポルトガル語に精通したインテリで日本では考えにくい兼業作家だ。
取材に応じてくれたのはデンマークのポルノ業界最大でエディタールームから自社スタジオまで完備していた。今考えると当時日本には無かったハウススタジオだった。
モデル探しは新聞広告で告知し、オフィスの入り口に陣取ったおばさんが受付担当で応募者が来たらポラをとってファイルにする。給料日前になるとカップルで登録する応募者が多くなるそうだ。モデル代は女性は1日500~1000クローナ、男は500クローナ前後で、当時のレートは1デンマーククローネ=50円、現在は20円。
ポルノ現場
撮影日のカメラマンは何と元ミュージシャン! 写真でも分かるように手にハッッセル。しかもストロボはスイス製のブロンカラーだった。
川本ディレクションはストーリー性のあるポルノ雑誌のため週刊誌と違って3日ほどかけて撮影。
ビジネスマンが羽田空港でよく没収されていた、ヨーロッパ出張土産の北欧ポルノ雑誌は市民モデルと翻訳家ディレクターと元ミュージシャンの専属カメラマンが創っていた。

 

1973.06.09 コペンハーゲン→ヘルシンガー/Pen

「あの映画みたか? スッゲーハードだぜ!」

「えっ? ハード? どういう意味?」

コペンハーゲンのユースホステルで昨晩一緒になったアメリカ人が
「暑くないか? 窓を開けてもいいか? 暑い!暑い!」と言って窓を開けてタバコに火をつけた。コペンハーゲンの街はまだ半袖になるほど暑くはなかったが一服するたびに煙を手で払いながら吸っているのでこれはタバコじゃないと分かった。
「あの映画みたか? スッゲーハードだぜ!」
「えっ? ハード? ハードってどういう意味?」
「ハードはハードさ。あんな映画ここでしか見れねーよ」
僕はまだこの時hard-coreの意味を知らなかった。
「タイトルは?」
「Deep ●●●●」
「深い?●●●●?」
繁華街を歩いていたらその映画をやっていた。目を疑うばかりの映画で正直ビックリした。早速看板やチラシを複写してお荷物になっていたペンタックス6×7カメラ1セットと共に原稿第1便に川本さんの潜入ルポと、この映画の記事をオリオンプレスやユニフォトと早く契約すべきと東京に送った。
帰国後に聞いた話では原稿が届いた週の発売で他誌に抜かれてしまった。残念。
翌日軽くなったバッグにハッセルを入れてシェークスピアの戯曲『ハムレット』の舞台として有名なクロンボルグ城があるコペンハーゲンの北30キロのヘルシンガーに移動した。バルト海に面した海岸にあるこの街の目の前はスエーデンだ。
ヘルシンガー
初めてのハッセルにフィルムを入れて、軽やかなシャッター音を聞くたびに楽しくなった。
高校時代に鉄道研究会を創設した「撮り鉄」だったので、先ずは駅構内にいたSLをパシャリ!ハッセルのコードノッチが嬉しかった一枚。

コペンセルフポートレート

セルフポートレートはヘルシンガーに泊まったペンションでメモと一緒に撮っているのに文字が識別できない!ピンアマだ。

 

1973.06.11. ヘルシンガー/YH

 

1973.06.12. ヘルシンガー→コペンハーゲン
 
1973.06.13. コペンハーゲン0:30→ハンブルグ/Pen

 
1973.06.14. ハンブルグ→アムステルダム/Pen 

大学寮の格安一般開放宿泊施設の

クローク係は既に目が飛んでいた!

ここはヤバい!

アムステルダムのYH(ユースホステル)が自分の前でフルベッドになってしまった。!
受付の人が格安宿泊施設を教えてくれた。
それは学生自治会が運営する学生寮を一般開放してる格安宿泊施設らしく住所をたよりに歩いて行ってみると階段を4階程上ったホール入り口で説明を受けた。
「ベッド無し、シュラフが必要。何ギルダーか出せばマットレス(破れていた)がある。門限は何時・・・」と説明する係のろれつがややおかしいなと感じながら内部の案内をしてもらうと、会議室みたいな部屋の床にバックパッカーが適当にゴロゴロしていた。
大事なハッセルがあるので注意しながら観察をしたが時間も押し迫って来たので宿泊費を払う事に決めた。
手すりが目の高さにある見上げるような高い椅子に陣取った牢名主のような男が宿泊者のIDとして、左手の甲に蛍光インクのスタンプを押した。外から帰った時はこれにブラックライトを当てると光る仕組みで映画のワンシーンみたいだった。
バックパックはクロークに預けろと言われたが、クローク係の男の目は飛んでいて
「イイェーッ!! ハッピー?」
「セキュリティー大丈夫?」
「ノープロブレム」
スタンプが押された手でバックパックとカメラバッグをかついでまた宿を探しだ。

ダム広場のジャンキー

1973年のアムスはドラッグ天国だったのかも。ダム広場には草を求める若者が世界中から集まって来るため日中は何度も散水車で広場で座り込めない様に散水していた。

ダム広場のセルフ

写真は草でもハシシでもLSD何でも手に入るダム広場のジャンキーとセルフ写真。

 

1973.06.15 アムステルダム→ハーレム(Haarlem)/YH

古都ハーレムのYH事件。

二段ベッドの下段で寝ていた男が

「昨日お前を刺すとこだった・・・」

ユースホステルの朝食時間にで2段ベッドの下に寝ていた男から
「昨日の夜アムスで手に入れたケミカルを試してみたんだ」
そう言えば夕食後の談話室で一緒にやらないかと誘われていたのを思い出した。
ユースホステルは意外と盗難事故が多く貴重品を寝袋の足下に入れて寝るのが一番危険とバックパッカーの間では言われていた。特に日本人はキャッシュやパスポートを入れる人が多く、シュラフの足下を切られて現金や貴重品を抜かれる事が多いと聞いていた。
僕はカメラがあるのでYHなどではバッグから一切カメラを出さなかった。クロークの代わりにロッカーがあったので下段ベッドに寝た男に許可を得てロッカーにカメラを入れドアを壁側にしてベッドを押し付けて寝ていた。
「一錠はヤバいと思って割ったカケラを試してみたら、2段ベッドのマットを支える十字のフレームがグニャグニャしてきて上で寝ていたお前が象に見えたんだ!」
思わずパンを食べる手が止まった。
「俺が象に殺られる前にこいつを殺っちまえと思ってアーミーナイフを探したけど見つからなっかた。だから毛布被って震えていたんだ」
それ見つかっていたら多分刺していたかもという彼の話を聞いて心底驚いた。
残りの錠剤を分け飲みした連中も、鳥になった気がしたとか色々話していたがほとんど耳に入らなかった。
アムスの大学寮サマー・スチューデント・ホテルではどんな事が起きていたのだろうか?
ハーレムの運河
NYのハーレムはオランダ移民がここの地名を名付けた。トルコ語のハレムはイスラム社会の女性の居室を指し「禁じられた場所」の意味。 「花の町」とも呼ばれ、行き届いた芝生の緑と水路に囲まれた地上の楽園に思えた。

 
1973.06.17. ハーレム→ブリュッセル/YH
 
1973.06.18. ブリュッセル→ケルン→デュッセルドルフ/竹岡

 

1973.06.19. デュッセルドルフ→コブレンツ/YH

 

1973.06.20. コブレンツ→フランクフルト/YH

 

1973.06.20. フランクフルト/YH

ワーゲンビートルの新車で

新婚旅行世界一周中の森川先輩と、

JALフランクフルト支店で無事で会えた!

携帯電話もインターネットも無い時代、
旅行者同士で待ち合わせの約束をする事は大変に難しい時代だった。
フォルクスワーゲンの新車で新婚旅行世界一周中の森川先輩と唯一の約束は、僕が東京から投函した旅の日程でお互いのスケジュールが合いそうな街がフランクフルトだった。
フランクフルトには森川さんのお知り合いの方が住んでいたのでその方の住所にポストした。
手紙に6月19日12時にJALフランクフルト支店で待ち合わせましょう。うまく会えなかったら翌日、翌々日の12時とチャンスは3回としましょうと書いた。

デュッセルドルフのセルフ

写真は6.17デュッセルドルフの国立美術学校造形科に国費留学していていた彫刻家の竹岡雄二さんと会った時のセルフ写真。現在はブレーメン州立芸術大学の教授をされているようです。JAL支店のスタッフの方々には迷惑だったかも知れないが、海外の街のインフォメーションとかマップをはじめ、日本の新聞が読めるため在住の日本人達のコミュニケーションセンターの役割も大きかった。日本ではほとんど連絡先など見当もつかない事でも意外に連絡先などが分かった事も多く、立ち寄った支店や営業所では大変お世話になった。
しかも当時は支店止めで自分宛の手紙なども留め置いてくれるサービス(正規には無いと思う)がありバックパッカーの間では次は日本航空マドリッド支店に●月●日に到着予定等と書いて日本に投函していた。
受け取りはパスポートを提示して無料で受け取る事ができた。世界中を旅する日本人のために何かと面倒を見てくれた日本航空には大感謝!
19日の昼前に支店に到着し新聞を読んでいたとき、森川さんの奥さんが通りから中を覗き込んでいたのに気付いたが中に入る事無く歩き出したので慌てて外に出て声をかけた。
「あらっ、西田さん居たの?何か汚いヒッピーみたいな人だけだったので、今日は居ないと思ったのよ」インド経由でヨーロッパに入った奥様とは半年ぶりだったし、Gパンに洗いざらしのTシャツ姿に加え横浜からヒゲを伸ばし始めたので風貌がややワイルド化し始めていたのかも知れなかった。w

 

1973.06.21.  フランクフルト→ビュルツブルグ/YH

フランクフルトからミュンヘンまで

ロマンティック街道をワーゲンビートルで走破。

車は旅のスタイルに変化と発見をもたらした!

森川さんが新車のワーゲンビートルを購入した理由は、
1 世界中何処でも修理が可能。
2 旅の最後に何処でも売却可能。
3 売却時に走行距離が出てても、新車のため高く売れる
4 世界の人気車種
5 買値と売値の差が小さいのが新車
以上の理由でドイツで新車を購入したが、ドイツ語の取説で細かいところが分からず困っていたため、日本語の取説をヤナセで貰って僕が届けた。何処の国で売れば一番高く売れるか?売り方?などもよく調べていた。
僕はこの旅行のために出発直前に免許を取る事が出来た。
しかも運転練習は免許保持者と一緒に夜間の貸しコースのみで、教習所には一度も行かず初回から府中の試験場通いで取得した。ペーパーテストは1発合格だったが実技試験は、数回落ちた仮免許だったが本試験の実技は2度目に受かった。
本免許試験のとき縦列駐車の項目では名前さえ知らず、練習した事も無かったので試験官に
「やった事無いのでどうすれば良いのですか?」と率直に質問した。
「君!ここは試験場だよ。そんな事は教習場で聞きなさい」
「僕、教習場に行ってないんですけど、何処で教わればいいのでしょうか?」
「はい戻ってください」
切り返しは得意だったが何度か貸しコースでワザを磨いて2回目に無事パス出来た。免許取得経費も教習所通いした人達よりも相当安価に済み、期間も2ヶ月もかからずに取れた。
初めての運転はフランスで左ハンドルのルノーでギアチェンジが日本には無いものだった。
ロマンティック街道/森川
ロマンティック街道の途中で気に入った場所でランチ駐車。これが最高!

 

1973.06.22.  ビュルツブルグ→ローテンブルグ→フュッセン/Auto Camp

 

1973.06.23. フュッセン→ミュンヘン→フランクフルト/Pen

 

1973.06.25~26. フランクフルト18:00→ウイーン→マウトハウゼン/Gust House

シンポジウムの始祖

カール・プランテルさんがオーガナイザーの

「国際彫刻家シンポジウム、1973マウトハウゼン」で

花崗岩の彫刻制作にチャレンジ!

ロマンティック街道のフュッセンにあったオートキャンプ場の環境は最高だった。キャンピングカーは指定の場所に駐車してライフラインをセットするだけ。テント利用の車のエリアも舗装駐車と点とエリアが隣り合い、コインを入れれば清潔でお湯もシャワーもガスも快適に使えるキッチンがあり、疲れた体をベッドで休みたい人にも清潔なホテルが併設され、超貧弱な日本のオートキャンプ場とは比べものにならなかった。
翌日ミュンヘンのホフブロイハウスでとびきりのビールを飲んだ後、彫刻家の三上浩さんに会うためウィーンに向かった。
三上さんは「国際彫刻家シンポジウム、マウトハウゼン1973」に日本人作家として参加し製作中でしたが私をピックアップするため一時的にウィーンに戻っていた。
「国際彫刻家シンポジウム」は1959年オーストリア、ブッチング生まれのカール・プランテルさんが世界で初めてオーガナイズしたもので、コンセプトは前途を嘱望されている若き世界の彫刻家に作品制作に必要な環境と素材、生活費、作品展示場などを提供し、スポンサーおよび行政との調整など全てをまかなうもので、その後このコンセプトは世界的に広がりをみせ日本各地でも開催されていった。ベネッセの直島イベント等もこの流れである。
カール・プランテル
サンクト・マルガレーテンにある彫刻家の家で欧州の若手作家が一同に集まったティーチイン(パーティー)会場のプランテルさん。
三上浩
マウトハウゼンの石切り場がアトリエで、欧米の作家と一緒に近所の養豚農家の経営するペンションで私も一緒に生活した。初めての削岩機を手伝ったりしながら墓石サイズの石を貰って私も彫刻にチャレンジした。写真の右奥が三上浩さん。
北島一夫
会場にはもう一人の日本人作家北島一夫さんも居た。芸大を卒業後イタリアのカラーラで大理石を学びマウトハウゼンに招待された北島さんは1979年の第1回ヘンリームーア大賞展(彫刻の森美術館)優秀賞を受賞。寡黙な作家で花崗岩がだんだん大理石のように変化する。
シンポジウム/現地新聞
この写真は地元の新聞社に取材されたもの。シンポジウム終了後にできたパンフレットには私も紹介されているが、本棚の何処を探しても作品集が出てこなかった。残念!
この村には作家として活躍していた中島修さんも住んでいて幸せな取材時間だった。
 

 

1973.0627. マウトハウゼン→リンツ→ウィーン/YH

ウィーンのカメラ屋では既に有名人

田中長徳さんは

もちろんライカで現れた。

ウィーンに移住する記事をカメラ雑誌で知り、同世代の田中さんの写真が好きだった私は面識も無かったが日本デザインセンターに連絡をした。お会いした時は私の旅程はまだ10ヶ月位を考えていた時だったが、田中さんの方が先に出発するスケジュールだった。何はともあれ次回はウィーンで会いましょうと言って別れた。
「こっちに来て1ヶ月位でウィーン中のカメラ屋を回ったよ。ライカを扱うお店はもう全て顔パスになった」と長徳さん。その日はシェーンブルン宮殿や絵になる市内の路地を案内してもらった。
ライカで撮影をした事が無い私は初めてビゾフレックス?のレンズを覗かしてもらった。なんともいえない柔らかい感じがした。

ウィーン 西田圭介 田中長徳 西田圭介 ウィーン

ウィーンの中心はリンクトラムをはじめいたるところが工事中だったが
「あっ!」
と思った瞬間シャッターを切った、お互い同じ被写体を同時に狙っていた。シャッター音は同時にしか聞こえなかったが数ヶ月後カメラ雑誌で目にした田中さんの写真はカラーだった。サンクトマルガレーテンの砂岩でつくられたサンクト・ステファン教会前の写真は田中さん撮影。別れた時に市電の中から撮った写真をわざわざ実家宛に送ってくれた。
「圭介さんは大変元気で6/27Wienの私の所へよられました。フランスへ行ってから中近東、インドと旅行を続けられるとの事、彼の近影をお送りします。別れ際に市電の中から撮ったものです」田中長徳Wien。感謝!感謝!のポストカード。 左:オリジナルプリントのエアメールポストカード 右:ガラスの反射で分かりにくいがトラムに乗る田中さん。カメラは何かな?
ウィーン 田中長徳ポストカード ウィーン 田中長徳
モノクロ写真はニコンF 24ミリ TRI-X800増感

西田圭介撮影

 

 

73.06.28. ウィーン→リンツ→マウトハウゼン/Gust House

 

73.06.30. マウトハウゼン強制収容所

オーストリア最大の花崗岩採石所を見下ろす丘にあった

マウトハウゼン強制収容所は

雲一つ無い静寂の空間だった。

国際彫刻家シンポジウムに参加のアーティスト達に素材を供給しているマウトハウゼンの採石場はかつてナチスによる強制労働分隊が作業していた。しかも強制収容所は「犯罪者」や「反社会分子」など第三カテゴリーに分類され過酷な扱いを受けた場所で、三上さんの車で着いた時は観光客もおらず真っ青な空が広がる無音の空間だった。
親衛隊員による日常的な拷問は一部のサディスト看守による殺人が行われ、囚人を使った様々な人体実験も行われていた。写真は直接心臓に打つ長い針をつけた注射器や解剖室があり人体組織の瓶詰めがあったとされる。「青年は荒野をめざす」のジュンがみた刺青を剥いだランプシェードも作られていたかもしれない。
心臓注射 マウトハウゼン強制収容所
マウトハウゼン強制収容所
マウトハウゼン強制収容所 処刑
シャワー室はガス室の入り口だった。シャワー設備からは殺人ガスしか出てこない。
マウトハウゼン強制収容所 シャワー室はガス室
マウトハウゼン ガス室

 

1973.07.02. マウトハウゼン→ウィーン

 

1973.07.03. ウィーン→サンクトマルガレーテン→ウィーン

野外美術館の生みの親

カール・プランテルさんと

サンクトマルガレーテンの彫刻家の家

シンポジウムという活動が世界に普及した

カール・プランテル(Karl Prantl)さんについて紹介をしたいと思い、サンクトマルガレーテン(Sankt Margarethen)と彫刻家の家(Bildhauer haus)の場所をGoogle Earthでようやく見つけた。当初マウトハウゼンの近くと思い探したが再三検索を重ねてオーストリアのサイトで見つける事ができた。人の運転で移動していたためと40年の歳月が記憶を曖昧にした。
そんな時に現代彫刻家の飯田善国さんの書いたプランテルさんの記事(国際文化166号の転載)も見つかったので曖昧な記憶がかなり修正された。飯田さん自身も1961年 に招待されて参加していた。
このシンポジウムに最初に参加した日本人作家はパリ在住だった水井康夫さんで早くも1963年に朝日新聞主催で真鶴海岸でシンポジウムを開催したそうだ。
サンクトマルガレーテンの石切り場は中世の時代から良質の石灰性砂岩の産地として知られウイーンのサンクト・ステファン教会のゴチック建設はここから産出した石材で作られた。この採石場から切り出された岩の風景を利用して巨大なオペラのステージに変貌し1996年にヴェルディの「ナブッコ」を初演。そして2001年にはユネスコ世界文化遺産に登録された。
2010年10月8日他界。ORFTVの追悼ニュース。
プランテルの作品 石のテーブル 彫刻家の家 サンクトマルガレーテ プラント 彫刻家の家 世界のオーガナイザーと対話
「彫刻家の家」の玄関先にある巨大なテーブルはプラントさんの作品。私もパーティーが始まる前テーブルにあった日本では見た事がない黒のチェリーを死ぬほど食べた。
Karl Prantl St.Margarethen
野外に彫刻が展示されるようになった日本初の野外美術館、箱根の「彫刻の森美術館」は1969年開館。1981年に美ヶ原高原美術館開館ベネッセアートサイト直島のようにアーティストたちがその場所のために制作したサイトスペシフィック・ワークが恒久設置され、アーティストたちは自ら場所を選び、作品を制作。まさにプランテルさんの考えたコンセプトが世界中に広がっている。写真は彫刻家の家の裏にある小高い丘に展示された作品を前にハンガリーの民族舞踏団のイベントを楽しむ村人。
サンクトマルガレーテの野外美術館 St.Margarethen Bildhauer
左:後方に見える彫刻家の家の裏手を上って行くと自然景観をいかした野外美術館となっている。右:彫刻作品によじ上っても怒られることはない自由さがいい。左下:丘の裏が採石場で近年はオペラハウスになって世界遺産となっている。

サンクトマルガレーテの野外美術館 kar Prantel

ここから南に6キロほどでハンガリーの国境。歩いて行ける国から舞踏団がやってきて村民とフォークダンスのお祭り。先ずは村のセンターの交差点でダンス。子供達がかわいい!

ハンガリーの舞踊団 kar Prantel

彫刻家の家で行われた夜のパーティーにも参加するため1000キロ先のパリをはじめ各地から集まったアーティストはほとんど車。ドイツのアウトバーンやオートストラーダなど高速道路のほとんどは無料。オーストリアには車検が無いので三上さんの車の足下から道路が見えたりした。

彫刻家の家 三区とマルガレーテン St.Margarethen Bildhauerhaus

世界遺産に登録された野外オペラハウス。様変わりにビックリ!

サンクト・マルガレーテンのオペラフェスティバル

 

1973.07.05. ウィーン→パリ

ウィーンから夜汽車でついにパリに入った

朝からパリ東駅の両替は大行列

カタカナ仏語では全く通じない!

12時JALオフィスの待ち合わせに間に合わない。

フランス留学していた友人の妹、RT嬢にパリの安宿を手配してもらっていたが7月上旬よりバカンスに出かけるので7月始めに到着出来ると有り難いとの手紙を日本出発直前に受け取ったが、パリ入りのスケジュールが決まらずにいたためウィーンから学生寮(foyer)?に国際電話をした。
六ヵ国語会話集の電話編にあったフランス語
「アロー セ マドゥモアゼル RT ? セ ムッシュー ケイスケ ニシダ キ ヴ パルル。ジュ デジール パルレ アヴェック マドモアゼル RT」これが全く通じない。
電話口の向こうで何か大声で言っているが全く分からん。英語で言い直してみたが全くだめだった。何度も同じ事を言い続けたが時間だけが過ぎて行く。
通話料が心配で困ったが会話集に「日本語の話せる人を出してください」というのがあった。
「ジュ デジール パルレ アヴェック ケルカン キ パルモ ジャポネ」おっとー!何か反応があった。
電話の向こうで何か騒いでいる。しばらくすると日本語で女性が出た!
「RTさんは今出かけています」
良かった!早速彼女に伝言をお願いして26日東駅に着くのでお昼にJALのパリ支店で会う事にした。
第二外国語はドイツ語のためフランス語の読み方すら分からない。カタカナを読むだけでは全く通じない事が良く分かった。後で学んだ事だがドイツ語、イタリア語やスペイン語は結構カタカナで巧くいくし、値段を聞くだけなら関西弁が一番通じた
「おっさん!これなんぼ?」これは中東でも何とかなった。
朝の東駅は通勤客で結構にぎわっていた。しかも両替商の前は長蛇の行列だったので銀行を探したが見つからない。駅の外も探してみたが見つからずシャンゼリゼまで歩いて行くにも地図が無い。
仕方無しに駅に戻って並び直して、ようやくフランを入手出来たがメトロの乗り方が分からない。人の後に着いて行くと大きなメトロの路線案内板があった。親切にも全ての駅名ボタンがあって行きたい駅名ボタンをを押すと乗り換え駅名と路線が地図上のランプが灯るのでとても分かり易かった。
が、読み慣れないフランス語のため駅名が頭に入らず親切な案内版が何カ所も付いているのに目的のホームに行けず途中から引き返して路線案内図に戻る事数回でメトロに乗れた。フランス語は難しい。
RT嬢の手紙によると、パリのホテルは星で区別されていて一番安いのが星無しで2人部屋なら20フラン(1200円位)。一つ星だと1..5〜2倍でその上は四つ星までありますが一つ星ぐらいがちょうど良い値段で部屋も清潔です。星無しの部屋はあまり清潔ではなくドアもあって無きが如くです。予約するにも何日〜何日までと連絡頂ければ予約し易いです。

Paris モンマルトルのヒッピー

サクレクール寺院にたむろするヒッピー達

 

1973.07.06. パリ

パリは歩いて回ろう!

エトワール広場の凱旋門から東のバスティーユ広場まで東西6キロ。

北の高台モンマルトルから南のモンパルナスまでおよそ5.5キロ

横浜を出発してあっという間の1ヶ月でパリに到着。
真っ先に日本航空パリ支店に郵便の受け取りと日本語シティーマップと面白情報収集に行った。
シャンゼリゼに面した支店はエールフランスの店舗に負けない立派な路面店だった。場所を確認するために検索したが出てこない!
JAL再建後?のヨーロッパにおける路面店は現在ロンドン支店だけのようだ。全てはメールと電話対応らしい。その分HISパリ支店があるから何とかなるのかしら・・・

パリの街はシテ島を中心に西のエトワール広場の凱旋門からフランス革命発祥の地となった東のバスティーユ広場まで直線でおよそ6キロ、パリを見下ろす北の高台のモンマルトルからセーヌを渡って南のモンパルナスまでが直線なら5.3キロ程度なので二日ほどで歩いてみた。
パリのメトロは網の目のように張り巡らされとても便利な乗り物ですがパリほど歩いて回るのが楽しい街は無いと思う。各地区ごとに街の表情が変わり人々の暮らしも異なりカフェの雰囲気も違う感じだった。どこの国どの街でも徒歩ならば思い出のディティールもしっかりするはずです。
宿の一つ星ホテルはパリ市庁舎の近所だったためどこに行くにも 便利だった。
ホテルの北側はレアール地区の再開発であちこちで工事が進んでいた。一つは77年に開館したジョルジュ・ポンピドゥー国立美術文化センター、 もう一つはパリの台所と呼ばれた市場が巨大なモールになったフォーラム・デ・アール。
ポンピドーセンター パリ再開発 1973年
ポンピドーセンター近くのrue de cloitre saint merri通り。工事の仮囲いにも道路名が付いているため迷子にはならない。

フォーラム・デ・アール パリ再開発 1973年 西田圭介撮影
巨大に掘り下げられたフォーラム・デ・アール再開発現場。

ノートルダム寺院 1973年 パリ再開発 西田圭介

パリの再開発は真っ黒だった建物の洗浄なども同時に進められ、21世紀のパリはすっきりしすぎてしまったのが残念!
ノートルダム寺院も奇麗になった代わりに安全ネットが張り巡らされてしまったがセルフ写真はネット無し。ノートルダム寺院の石像の肌触りは時を超えた感触。
パリには産經新聞社とフジテレビの支局があり面白情報を仕入れにお邪魔したが外信部の記者は政治経済のスペシャリストで柔らかネタはあまり多く入手出来なかったが、政治家をはじめVIPがパリを訪れる時にマッサージをしていた藤本茂勝さんを紹介された。
モロッコで最後の手術をする直前のカルーセル麻紀さんのフルヌード撮影記など・・・近日UP!  乞うご期待。

 

 

1973.07.07. パリ・ポンヌフ

パリ発 スクープ第2弾!

マドモアゼル カルーセル麻紀

最終オペ直前 緊急特写ヌード 

カルーセル麻紀さんがパリに来た最大の目的は、完全な女性になるモロッコ・カサブランカのDr.ブロウに最後のオペを受ける準備で日本では入手出来ない最新情報をパリ在住のブルーボーイ達から直接聞くためだった。
二つ目が銀座のクラブ青江がパリに出店(5月7日オープン)するためママさん役で4月に渡仏した。最初はフランス人相手の店として日本調でスタートしたが、フランス人は堅実な人が多く、会計がパリで一番の高さを誇るエッフェル塔よりも高いとクレームが多かった。7月の時点の来店数は日本人8:フランス人2のため内装を銀座のお店調に変更し、日本髪と着物だったものをほぼ洋服に変更したそうだ。
「日本人はお金持ちで神様!フランス人は××だ」が結論だそうだ。

クラブ青江 パリ 1973年

先ずは語学習得のためスタッフ4人とアリアンス フランセに入学。パスポート名で申し込みしたため初日の授業で「ムッシュー ヒラハーラ」と呼ばれたので日本語で「あら〜 イヤダ〜〜っ」先生はあわてて「マドモアゼ〜ル」言い直していたが日本人学生は大爆笑で全く授業にならず、カルーセルさんは1日で登校中止。その後頑張ったスタッフも最長1週間で止めてしまった。学校で習う言葉はお店では通用せず、ベッドで習ったフランス語はけんか用と悪い言葉ばっかりだが、英語とチャンポンでジョークを言えるようになったと言ってました。
カルーセル麻紀 1973年 週刊サンケイ 撮影/西田圭介 パリ
パリの街にとけ込む美女。愛犬ギャルソンと一緒にホルモン注射にお出かけ。
たった2ヶ月でフランス男には不自由しないほどモテまくったが、男は日本男子に限るそうでモテ度は日本にいた時の10倍。好きなタイプは髪は黒く、日焼けした背の高いガッチリタイプだそうだ。
パリに来て文化の違いに困った事は食事に誘われて一緒に行く事は・・・と言う事を知らずに最初は随分困った。
日本人はしつこいが、フランス男のアプローチはもの凄いそうだ。語学はともかくパリのブルーボーイのショーを見て研究したりオペを実際に受けた彼らからの情報収集の毎日。パリには60軒近くもゲイバーがあり撮影にも協力いただいたパリ1番のブルーボーイ、ローラ・シャネル! とても奇麗でグラマラス。何でもピンクにするアパレル界の有名人に借りたクラシックカーのモーガンで。
取材中にも紀伊国屋書店創業者の田辺茂一さんがぶらりと入ってきた。

ローラ・シャネル カルーセル麻紀 1973年 パリ 撮影/西田圭介 カルーセル麻紀 1973年 パリ 週刊サンケイ

rue de Madridにあったメゾンのワンフロアーを借りてさくらさん、よしみさん、ケニーさんと愛犬ギャルソンと共同生活。この部屋でヌード撮影をさせていただいた。
一人で撮影にお邪魔するのが少々心配だったため、撮影助手に外資系広告代理店を退社して長期新婚旅行中で藤本さんに紹介された葦原泰二さんに手伝ってもらった。
パリの部屋は一般的に暗いのでfnacで購入した照明用フラッドランプの500ワットを持ってお邪魔したがなんと日本で使っているタイプと同じを買ったために古いパリの照明器具には全く合わない事を始めて知った。今時の万能コンセントのような優れものも無い時代だったので窓際の自然光で撮影!
撮影途中に外を見ると初老のムッシューが向かい側の窓からこちらを凝視していた。カルーセル麻紀さんはとても素敵だった!
週刊サンケイ1973年9月7日号より

 

1973.07.10. パリ

ジャポネ・マッサージが大人気

パリジェンヌの全身美容をめざした

藤本茂勝さんのPARISレポート

「美の変身師」とか「美人製造師」とパリジェンヌの間でジャポネ・マッサージの藤本茂勝(29歳)さんは評判を呼んでいた。パリジェンヌの悩みのタネは腰と太腿のぜい肉。それを取り除いて、細くスッキリ、たおやかな肢体を復元させる施術の人気が高かった。内容は海草バスの水泡マッサージ、高水圧の水道水によるマッサージ、そして指圧のジャポネ・マッサージの3ステップ。
エステと彼は言っていた記憶があるが、当時の日本語には該当するものが無いので全身美容と表現したが、エステの世界もその後進歩し世界的に広がりをみせている。
手元に残っている資料によると、このお店はパリの都市再開発地区のラ・デファンスの中にあるクールブヴォアの商業ビルの中にあった総合美容センター「L'institut BONNET」でMassage Japonaisが人気で30分で35フラン(2380円)、高水圧のDouche au jetは5〜8分で15フラン、海草風呂Bain bouillonnant et/ou douche sous-marineは20〜30分で35フラン。現在はカルフールのモールになっているみたい。
昼は美容師、夜は日本からのVIPのためにホテルへ出張指圧の毎日で、大使館を通じてO大臣をはじめ商社のお客様やパリ在住のセレブがお客様で忙しいスケジュールをこなしていた。日本で美容師と指圧の免許を取得後1970年に渡仏し、女性を美しくする全ての方法を身につけたら日本に全身美容の学校を開くのが夢と語っていた。
藤本茂勝 1973年 パリのエステティシャン藤本茂勝 1973年 撮影/西田圭介 パリのエスティシャン 1973年 週刊サンケイ掲載
藤本さんの紹介でパリで活躍する多くの方々をに出会え、取材に弾みがついた事に大感謝!

 

 

1973.07.11. パリ・ムフタール 

フランス唯一の工芸協会で

現在でもたった一人の日本人正会員

ビジュー作家 一森育郎さん

フランス工芸作家協会(La maison de metier d'art françaiseは陶器、アクセサリー、彫金ほか)の正会員の日本人は現在でもIKUOさんしかいない。
1968年に渡仏しパリ南部ロワール河添いのツールのフランス語学校に入学。普通はパリのアリアンス・フランセに通うのが定番(カルーセル麻紀さんも)だがツールのフランス語学校はフランスで一番標準的な発音を学べるので有名、しかも日本人が少ないので語学に集中出来る環境が良いそうだ。
6ヶ月ほどで日常会話に不自由を感じなくなったためパリ大学に入学し、間もなくパリ彫金界の重鎮Madam Lola Prusac(マダム ロラ・プルサック)に認められ彼女のブティックに作品を並べてもらえるようになり作家としてスタートを切る事ができた。当時の日本ではアクセサリーの歴史が浅くアクセサリーを身につける習慣も少なかった。パリでは数多く接する事ができ市場ができているため当分はオリジナルティーを大切にしパリで制作を続ける予定とのこと。現在もIKUO PARISブランドでパリにブティックを構え日本や世界に作品を販売。

IKUO PARIS 撮影/西田圭介 1973年 パリ 週刊サンケイ731123号

取材で聞いた印象的な話に地方出身の学生や若者がパリ生活をスタートする時、家賃が安いアパート最上階の屋根裏部屋が一般的だそうで、トイレやシャワーが共同の屋根裏部屋といっても天窓や小窓から見える風景は日本のアパートから見える風景に比べれば相当素敵に感じた。
友人の輪が広がり始めホームパーティーなどへのお誘いがあると、次回には招待者を自宅にお呼びするのがフランス流エチケットらしい。だから屋根裏住まいの人は同じような境遇の人としか交際範囲が広がりにくいと教わった。
なんか見えない差別のようにも感じたが、実際ムフタールにあったアトリエ兼自宅は結構広く在仏大使館やブランドショップの方々を招いてのパーティーも撮影。これからは友人を招き入れることができる住環境を心がけようと確信した。

モノクロ写真は1973年撮影した同じ場所で2004年に「IKUO PARISカレンダー」用にカラー撮影。映画「赤い風船」の舞台はすっかり奇麗になってしまった。

IKUO-PARIS2004  撮影/西田圭介 パリ 1973Notre-dame ノートルダム寺院 1973年 撮影/西田圭介

モンマルトル 1973年 撮影/西田圭介 パリ IKUO-PARIS2004 Montmartre 撮影/西田圭介

 

1973.07.12. パリ→アゼルリド/Hotel

横浜出発直前に運転免許取得

初ドライブがロワール河沿いのシャトー巡り

2日目、麦畑でランチ後の休憩中に大事故勃発!

13日のパリ前夜祭までに戻らないと・・・

渡欧直前に運転免許証を取得したため国内の運転経験はほとんど無く横浜を出発した。
レンタカーを借りて初ドライブがパリ→シャルトル→ロワール河沿いのシャトー巡りでアゼルリドまでドライブした。車はルノー・サンク(写真RENAULT 5)、駐車場で運転席に座ったが見た事も触った事も無い変速機でギアチェンジの方法を聞いてびっくりした。なんとギアレバーに着いているグリップを押し込みながら反時計回しだとバックとか引きながら時計回しすればローギアに入ると説明を受けた。
教習所通いもせずいきなり試験場で受験し交付された免許証なので地下の駐車場を2〜3回ぐるぐる回ってから表に出た。
旅行費用を安くするためパリで知り合った日本人の女性二人とバイカル号以来の男の4人で出発した。東京では40キロ以上出した事がない初心者だったがうまい事高速道路に入ると周りの車が速いためいつの間にか時速70〜90キロで走っていた。村の入り口にたまに減速度表示があるだけでフランス人は凄いスピードで走っていた。
安全運転を心がけてアゼルリドで決めた宿はとても快適な宿で安価な割に清潔で料理もとびきりうまかったた。結婚後子供が2歳になった時、家族で改めて訪れたほどお気に入りの宿グランドモナークであった。

西田圭介 アゼルリド グランドモナークホテル

アゼルリド 撮影/西田圭介

翌日の帰路は市場で買い込んだハムやパンを持って一面麦畑の横でランチとなった。国際免許をもっていたのは初心者マークの僕一人だったので食後はコーヒーを飲みながら休んでいた時、同乗者のI君がちょっと運転させてと言ったのを許してしまったのが悲劇の始まりだった。
30分経っても彼は戻ってこなかった。
小一時間ほど経った時麦畑の彼方からゼイゼイいいながら走ってきた。
「畑の横を走っていたら、正面に幼稚園児の集団が散歩していたので事故を起こしてはヤバイと思いハンドルを右に切ったら車が河に落ちた!」一同え〜〜〜っ!絶句。
「どうにもならないので走って戻った」
「そこは何処?連れてって・・・」20分程歩いたロワール河沿いの小道は一条の歩道があるだけで車が入る道ではなかった。
周りは大きなお屋敷だったが金網が張られ家は遥か彼方にあった。車の右頭が完全に下を向いて自力での脱出はどう見ても不可能だった。その時お屋敷の方から一人の老人が歩いて来たが、フランス語なので全く分からないが「ポリツァイ」と聞こえたのでこちらも身振りも含めて「テレフォン、テレフォン」と応えたらムッシュは屋敷の方に戻った。
しばらくすると警察に電話をしてくれたみたいで警察官がやって来て何か色々フランス語で言っていたが30分もすると小型のレッカー車が来てくれた。レッカー車とルノーをワイヤーで結んで引っ張っても全く動かなかった。様々な方法でトライしたお陰で車は歩道まで上がったが左後輪のタイヤが裂けてしまったので草むらの中でスペアタイヤに交換し警察まで移動したが全くフランス語が分からず僕らの英語は彼らに通じず、何か通じたのは今日中にパリに戻らないと駄目だという事だけだった。
明日は「Quatorze Juillet(7月14日)」日本で言うパリ祭だと言う事で無罪放免となったのかしら?
しかし悲劇はまだ続いた。パリに向け夕方警察から走り出すとスペアタイヤがパンクしてる感じだったのでガソリンスタンドを探すがなかなか見つからない。かなり走ってようやく見つかったスタンドはもう閉まっていた。
スタンドの裏に回ると家族が食卓を囲んでいたが思い切ってノックした。スタンドのおじさんは食事が終わるまで待てと言ってくれパンクの修理をしてくれた。大感謝だった。
パリの友人達が前夜祭のパーティーがあるので夕方までにパリに戻るように言われていたがスタンドを出たときは真っ暗の9時過ぎ、当時のフランスはパリと言えども街路灯は少なく信号が暗くて見にくいのが大変だったが真夜中に無事パリまで戻れた。神にも大感謝の初ロングドライブなり。

 

1973.07.13. アゼルリド→シャルトル→パリ

 

 

1973.07.14. パリ「Quatorze Juillet」

今日は「Quatorze Juillet」7月14日

パリ祭の始まりはトリコロールのジェット機編隊

Quatorze Juillet1973 パリ祭 1973年 撮影/西田圭介

ロワール河の大トラブルを超えて真夜中にパリに戻り、オールナイト・パーティーを楽しんで朝からコンコルド広場に面したオテルドクリヨン前でパレード見物。ホテルは現在リノベーション中のためオープンは2015年。
突然ジェット機がトリコロール編隊で頭上を通過するとパレードが始まった。
その頃広場に集まったパレード見学の人々が手にしていた便利グッズが紙筒と鏡でできた潜望鏡タイプのパレードグラス。これなら目前に大きな人がいてもオーバーヘッドで見学が可能だ!未だに日本では見ないのは何故かしら?

パリ祭見学 1973年 撮影/西田圭介

右端の浜野明子さんはカルーセル麻紀さんの撮影助手をお願いした葦原さんの奥様で長期新婚旅行中に知り合った。帰国後フジテレビのお化け番組「ひらけ!ポンキッキ」「ポンキッキーズ」の作家として大活躍。

浜野明子

 

 

1973.07.16 パリ→マドリッド

パリ、オステルリッツ駅(Paris Austerlitz)から国際夜行列車で

「ピレネーを超えるとそこはアフリカだった」と言われた

スペイン、マドリッドに到着

「ピレネーを越えるとそこはアフリカだった」という言葉があるように8世紀から11世紀にかけてイスラム教徒の侵入を阻む防壁としても働いたピレネー山脈を超えると風景ががらりと変わった。赤っぽい岩肌に白壁の家や駅名のタイルが心地よかった。フランスなどが採用する標準サイズのレールからスペインの広い幅のレールへと乗り入れる特殊な軌間変換装置をもつタルゴに乗りたかったが普通のコンパートメントで一晩かけて移動した。

ピレネー山脈越え スペイン 撮影/西田圭介

 

 

1973.07.18. マドリッド

原稿送付のためJALマドリッド支店に行く

 

 

1973.07.20 マドリッド

初めてフラメンコに接したのは

5歳で見た赤いドレスを着たダンサーの絵本。

マドリッド在住13年

フラメンコの女王 長嶺泰子さん

3歳からモダンバレーを習い、15歳の時初めてフラメンコのレコードを聴き、これが自分の求めていたものだと確信した長嶺泰子(ヤス子)さんは17歳から本格的に習得するため河上五郎氏に師事。20歳より河上鈴子さんに師事。
青山学院大学経済卒業後24歳で私費留学試験に合格しスペイン・マドリッドに渡りパコ・レイエス氏に師事し本場のフラメンコを学ぶ。
親からはプロのダンサーは絶対不可と厳命されていたがどうしても本場の舞台を踏みたく当時の大使館等の応援と口コミでタブラオの「Corral de la Moreria」で1963年に初舞台を踏む。以来10年間踊り続けている。当初のギャラは250ペセタであったが今やこの店のスターである。
フラメンコは南スペインのアンダルシア地方で産まれたものだが現在はマドリッドが中心でスターのほとんどが集まっている。ご主人のホセ・ミゲルさんもダンサーで愛犬ピピちゃん(ピピはおしっこの意)と3人生活だがミゲル氏は夏期の舞台があるため避暑地のマルベージャ在で留守だった。二人のカットを撮るため後日マルベージャまでお邪魔したカットは7月29日のお楽しみ!

長嶺ヤス子 corral de la moreria 1973年 撮影/西田圭介長嶺ヤス子 corral de la moreria 1973年 撮影/西田圭介

長嶺ヤス子 corral de la moreria 1973年 撮影/西田圭介

長嶺ヤス子 corral de la moreria 1973年 撮影/西田圭介

 

 

1973.7.21. マドリッド

スペイン人カメラマンと私。男二人だけの留守番で

共通言語無し、3時間の緊急語学レッスンで

彼がどうしても伝えたかった事。

マドリッドに到着後、日本からの郵便物とシティーマップを受け取りに日本航空マドリード営業所に直行し長嶺泰子さんの情報も得る事ができた。
今や空港のカウンター以外のJALヨーロッパ市内路面店はロンドンだけで全て電話かインターネット対応のようだ。
多くのバックパッカーや旅行者にとって大使館や領事館よりも親身になって相談にのってもらえる日本航空欧州支店・営業所(35ヵ所。世界で85ヵ所)ほど信頼出来て頼もしい拠点は無かった。今でも大感謝!
日本交通公社「6ヵ国語会話 2」は日・英・仏・独・伊・露語だったため、日本航空のマップに付いている旅行ガイドはあってもスペイン語は当初から皆目分からなかった。
シエスタもしないで昼間の撮影と美味しいオリーブオイル料理の食べ過ぎで腹の調子が少々おかしくなっていた。
長嶺さんを訪ねた時に御馳走になったおかゆに大変助けられ、何度目かのおかゆのお世話になった昼過ぎ、長嶺さんからスペインのカメラマンを紹介された。
その日は愛犬ピピちゃんを再度動物病院に連れて行くため留守番を頼まれたが、共通言語の無い男が二人きりになってしまった。
お宅にあった写真集を挟んで色々英語でトライしたが全く通じなかった。無言の気まずい空間がが訪れた時、指を折りながら同じ言葉を繰り返し声を出し始めたカメラマン。
スペインに入る列車で教わった唯一のスペイン語は「汗ムーチョカロール」(暑い!)。これは一回で耳に入った。
「ウノ、ドス、トゥレス・・・」ゼスチャーでお前も話せみたいなスペイン語だった。
「あっ!これは数字だ」と感じ1〜10を先ず覚えた。
フランス語とは大違いで発音は結構上手く出来た気がした。彼は引き続き10〜100、100、200、300、・・・1000まで個人レッスンを1時間ほどしてくれた。
これで終わりかと思うと腕時計を指しながら時間についてレッスン2。そして椅子に座る・立ち上がる、ドアを開ける・閉める、自分は出て行くのレッスン3まで教えてくれた。
3時間位のレッスンで、彼は時間になったので先に帰るからヤスコに「有り難う」と伝えて欲しいという意思表示だった。
このスペシャルレッスンのおかげでスペイン語、イタリア語とも買い物には全く不自由しなかった。
長嶺ヤス子 1973年 マドリッド 撮影/西田圭介 写真はピピちゃんの掛かり付け医院で。長嶺さんは舞台以外はいつも着物。

長嶺ヤス子 1973年 マドリッド 撮影/西田圭介

 

1973.07.24. マドリッド→リスボン→ナザレ/Pen

48時間以内の滞在なら

ツーリストビザが無料だった。

1泊2日の鰯天国!ポルトガル。

何度目かの夜行国際列車で朝リスボン着。
車内で一緒になったソルボンヌ大学でラテン語を勉強している学生と一緒だったので、パリ到着時に比べると言葉のストレスが全く無かった。
彼によると同じラテン語圏でもイタリア語とスペイン語は関西弁と京言葉位の差だけど、ポルトガル語だけは様子が違うらしい。彼はポルトガル語は履修していないがラテン語と共通の単語が多く、ラテン語で話せばおおよそ通じると言っていた。
ビザは73年頃のヨーロパでツーリストビザは短くても1週間程度はあった記憶があるが、ポルトガルは72時間を超えると有料となるため2泊3日の短期滞在を選んでしまった。

1973年 ポルトガル72時間ツーリストビザ

ポルトガルは物価が安くお魚グルメ天国だった。バックパッカーの間で金が無いなら南へ行けが合い言葉で、特に鰯をはじめ食費が格安で財布に大変優しかった。今年の7月にリスボンに出張した方の情報ではリスボンのレストランとはいえ4尾もあって鰯料理のワンプレートが15€もすると聞いてビックリ。日本と替わらない物価高。これで昔の物価感覚だったら即移住したい国。残念!
日陰の階段で腹ごしらえ。
入国して分かったポルトガルの魅力、72時間で出国はもったいないなり。

1973年 リスボン

日向は太陽がイッパイだけど日陰の心地よさはヨーロッパNO.1!
アルファマの市電はこの写真よりもっと狭い道や急坂を走り抜ける。
路地裏露天市の陽気なおばさん達。人柄の良さは世界一かも。

リスボン アルファマ 市電 撮影/西田圭介

リスボン 1973年 アルファマ市場 撮影/西田圭介

 

 

1973.07.25.  ナザレ

超ビックリクイズ! 2枚の写真どっちが男性?

仰天!
巨乳のおじさん・・・
ナザレの口ひげ女性。
ナザレ ヒゲおばさん 1973年 撮影/西田圭介

ナザレ ヒゲおじさん 1973年 撮影/西田圭介

漁村ナザレは黒衣のお年寄り女性がとても多く、黒衣は既婚者のサインだそうだ。
黒衣も目立ったが一番驚いたのが口ヒゲの女性達だった。うっすら口ヒゲのおばさんは何人もいたがあまりにも立派な口ヒゲなので撮影させてもらったが、巨乳のおじさんかと思うほどだった。
写真の黒ジャケットが男性です。ヘアメイクの方に教わったんだけど女性も歳を重ねると男顔に近づくらしい・・・

ナザレの黒衣 1973年 撮影/西田圭介

ポルトガルの女性はよく働くし力持ちだ。40年経つとエクタに比べハイスピードエクタEHは褪色が早いなり。

ナザレの選択おばさん 1973年 撮影/西田圭介

幸せな魚天国!ポルトガル・ナザレの丘から。

NAZARE 973 Phpto by NISHIDA,Keisuke

 

1973.07.26. ナザレ14:39→リスボン23:35→アルブフェイラ06:40→ファロ07:30 スペイン再入国→セビリア

Google Earthで

記憶をトレース

ポルトガル、スペイン国境の河で

線路が消えた!

リスボンに流れ込むテージョ河の河口にヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業記念として16世紀に作られたベレンの塔で体験した日没は大西洋に沈む太陽が自分の影を地平線まで伸ばした。この光景はシャッターも押さずに今でも脳裏に焼き付けたままだ。

Lisboa1973 ベレムの塔 撮影/西田圭介

リスボンからスペインに向けフェリーでテージョ河を渡り大西洋、地中海沿いにユーレイルで行った記憶だった。
はっきりしているのはスペイン国境のスタンプAyamonteのみ。
Google Earthで線路を辿って行くとポルトガルとスペインの国境のグアディアーナ川には鉄橋は無く線路は行き止まりに、よく見ると少し北側に近代的な橋が架かっていた。国境の橋を渡った記憶も無いし、本日のブログのためポルトガルのネガをスキャンするんとありましたポルトガルのボーダーとフェリーのカット。

サントアントニオ GoogleEarth

サントアントニオ1973年 撮影/西田圭介 
Santo Antonio1973 国境フェリー 撮影/西田圭介
以前はVila Real Santo Antonio(グアディアーナ)駅がポルトガル国鉄アルガルヴェ線の最東端だったが現在は橋ができたため廃止され最後の駅は1km手前のVila Real Santo Antonio(サント・アントニオ)駅に変更となったみたいだ。
次はセビリアで散髪だ!

 

 

1973.07.26. セビリア/Pen

横浜出航からあっという間に2ヶ月

ペンションのおばさんに戴いた

甘いサングリアを一口飲んで

グアダルキビール川の階段で動けなくなった。

セビリアに限らずアンダルシア地方の太陽は肌を突き刺すため日陰を探しながら歩かないと体力を消耗する。湿気が無いのがせめてもの救いだ。
昼間はあまり人影が無かったのに日が落ちると街はお祭りかと思う位人が繰り出していた。ペンションのおばさんのサービスで飲ませてくれたサングリアは仄かな甘味だったのでジュースのようにグラスを空けて街に出たら、だんだん酔いが回り始めグアダルキビール川にかかる橋辺りで下戸の私は歩くのが嫌になってしまった。
川岸に下りる緩やかな階段の石の欄干を見つけ、ベッドがわりにして一休みした。川風が心地よくあちこちで老いも若きもフラメンコを踊っていた。大移動の一日だった。
セビリア1973 涙のマリア 撮影/西田圭介
写真はマカレナ教会に安置されている「希望の聖母」と呼ばれる、涙を流しているマリア様。
春のキリストの受難から復活までの一週間を祝うセマナ・サンタ(キリスト復活の聖週間、Basílica de Macarena)の日に、教会からこのマリア像は引き出され、街の中を練り歩くので有名だ。

 

 

1973.07.27. セビリア→コルドバ→マラガ→マルベージャ

ジブラルタル海峡の決断

1.モロッコへの夢を諦める

2.マラガでベッド確保に初の深夜タクシーチャーター!

1. スケジュールがあえばジブラルタル海峡を渡ってモロッコに行きたかった。
マラガの駅に着いてアルヘシラス(Alge ciras)行きの列車を調べていた時にアルヘシラスからの列車が到着した。3人組の日本人バックパッカーが下りて来たので早速情報集。彼らは
「モロッコは想像以上にヤバイ! 3人でも油断するとバックパックを切られるし子供のスリも多く、水があわなくて全員下痢した」
僕の腹の調子も今ひとつでセビリアからマラガに来るために乗り換えしたコルドバの時間待ちにチバガイギー社の整腸剤を買ったばっかりだった。
こんなに一杯カメラ持って行くのはカモネギ状態で絶対危険だと全員に止められ、貴重品も無い軽いバックバックでさえ、盗難に遭わないように旅するのがどれほど大変だったか延々説明してくれた。
アフリカ大陸を目の前にしてあきらめた。
モロッコ行きは2002年11月まで29年間もチャンスが訪れなかった。

ジブラルタル海峡 マラガ

2. モロッコ行きを諦めてマラガの駅を出たのは夕方だった。
ダウンタウン方面に行くと街中がフェスタでごった返していたが安そうなペンションを探していつものように交渉開始!
「ブエノス ノーチェス!(今晩は!)Tiene alguna habitación libre?(泊まれますか?) Cuanto cuesta una noche?(一晩いくら?)」
その時必ず聞かれるのが何泊か?だったが
「ウナ ノーチェ(1泊)」
この答えが一番駄目な答え方だと20軒目位で気がついたが既に夜11時過ぎ。駄目な理由は週末や祝日前の安宿はラブホ化するためと思う。
何軒か交渉して込んでいる時期は「2〜3泊と答え、翌朝予定が変わったので会計をお願いします」がバックパッカーのベストアンサーだ。
野宿も覚悟したが、翌日以降に長嶺泰子さんとご主人のホセ・ミゲル氏をマルベージャのタブラオで取材予定だったので街の公衆電話からお店に電話をかけてみた。
「西田さん、タクシー飛ばしてくれば1時間かからずにこちらに着くわよ。部屋は何とかなると思うので」そのまま広場にいたタクシーと交渉し、およそ60km弱の 太陽の海岸(ヨーロッパ有数のリゾート地、コスタ・デ・ソル)の深夜ドライブになった。
タクシーの窓全開で走ると真っ暗な地中海沿いにようやく目的のタブラオを発見出来た時は正直ほっとし、そのまま深夜の撮影開始!
深夜料金も無かったタクシー代は宿泊代より安かったはず。
その夜ベッドを提供してくれたフラメンコギタリストの方に大感謝!

 

 

1973.07.29. マルベージャ(Marbella

コスタ・デル・ソル(太陽海岸)は

今日もムーチョ ソル(光がいっぱい)

闘牛場で長嶺さんがマタドールを紹介してくれた

闘牛開始直前のマタドール(試合中に剣によって闘牛を殺す正闘牛士で闘牛士全体の1割しかなれない)に会うためにロンダの闘牛場(Ronda Plaza deToros)の囲いの所で撮影した。
スペインで大人気のマタドール(メモ紛失のため名前が不明)とフラメンコのダンサーとのミラクルショット。現在この闘牛場は全面屋根付きですが普通は日向と日陰で料金が違った。週刊サンケイ73年9月28日号

長嶺泰子1973 撮影/西田圭介 Ronda Plaza de Toros1973 長嶺泰子 撮影/西田圭介

Ronda Plaza deToros1973 撮影/西田圭介

Wikiによると闘牛はスペインの国技ですが動物愛護の考えで1991年にカナリア諸島で初の「闘牛禁止法」が成立し、2010年7月28日にはスペイン本土のカタルーニャ州で初の闘牛禁止法が成立、2012年から州内で闘牛を行なうことを禁止(これに先立つ2011年にはスペイン全土でテレビ中継の終了が決定)、2011年9月25日にカタルーニャ最後の闘牛興行を終えたが、まだまだアンダルシア地方では人気らしい。
フラメンコは情熱の夜のイメージが強いが、コスタ・デル・ソルでの取材なのでアンダルシア特有の白壁をバックに踊ってもらうためにロケハンして選んだ村の名前がまたもや不明。
いつものGoogle Earthで上空から検索。この村を探す前に闘牛場もGoogle検索した結果マルベージャから思いのほか離れた内陸部だったのでBenahavis村の探索は時間がかかった。写真の建物や風景をたよりにここだろうとピンを打った。
先日偶然に出て来たメモに同じ名前を見つけた。奇跡の一致!
当時の素朴さは激変して今は村全体がリゾート化してるようだ。撮影を始めると遠巻きに見学していた村人達が集まりだした。

Benahavis1973 長嶺泰子 撮影/西田圭介

写真上は集まって来たBenahavisの村人たち。
下はご主人のホセ・ミゲルさんと世界の富豪が集まるMarbellaのPuerto Banúsのヨットハーバー。それまで逗子や佐島のマリーナしか見た事が無かったため、最大のヨットでも西武が所有していた3本マストの外洋クルーザーまでで、見た事も無い大きな個人クルーザーがごっそり停泊しているのを見て桁違いのスケールにビックリさせられた。日本と世界のリゾート文化は根本から異なっている気がした。
Puerto Banus Marbella 長嶺泰子1973 撮影/西田圭介 

 

1973.07.30.  マルベージャ→マラガ→グラナダ/Pen

 

 

1973.07.31. グラナダ

アルハンブラ宮殿をめざしてしばらく歩くと

通りから激しいパイプオルガンの音が聞こえた

奏者以外、誰もいない小さな教会だった

日本では一部のコンサートホールでしか聞く事ができないパイプオルガンはヨーロッパンの多くの教会で聞く事ができた。
聞こえたのはJ・S・バッハ:トッカータとフーガ二短調、いやトッカータとフーガト短調?
もちろん曲名も知らないが昼下がりの時間に練習をしていたのか?
フラメンコのパッションを持ったオルガン奏者が演奏していたのか?
教会に響き渡る力強い残響が耳に残る贅沢な時間だった。
アルハンブラ宮殿の思い出は歩き疲れた!
アンダルシアの灼熱はフライパンのようだと例えられる強烈な太陽の下、6キロ先のシエラ・ネバダ山脈からの水脈で創られた涼やかな水の庭園ですが上ったり下りたりと20kg超えの機材とバックパックの移動は少々過酷だった。

グラナダ1973 撮影/西田圭介

路地で偶然見つけたロバの行商人。

グラナダ1973 ギター工房 撮影/西田圭介

ギター工房。この乾燥具合が世界の名器を創る環境なのか?

グラナダ1973 アルハンブラ宮殿

グラナダでバックパッカーに人気の牛革のハットと水筒を買った。
牛革水筒は革袋から染み出る水分の気化熱でいつも冷たく飲めるはずだったが防水処理?のコールターみたいなのが気になって入れた水は洗浄ばっかりで一度も飲まずに帰国後紛失。
ちょっとワイルドだったんだけど・・・

 

 

1973.08.02 グラナダ13:00 → バルセロナ/Hotel

大学の授業がきっかけで

ガウディの建築物を確かめに

ついに来ましたバルセロナ

夏休み明けの第1週、スペインから戻ったばかりの寺さん(工業意匠ディスプレーデザインコース寺澤勉先生)の講義は「Antoni Plàcid Guillem GAUDI」で講義開始から教室はハイテンションだった。
21世紀の学生は存在すらも知らないスライド映写機から映し出される画像は建築物とかけ離れた巨大なアール・ヌーボーのオブジェにしか見えなかった。
しかもサクラダ・ファミリア(聖家族教会)は1882年に着工されガウディ没後も建造が進んでいると聞き皆驚いた(近年観光収入が増え建築のスピードが早まり2026年完成予定)。
バルセロナ行きの列車で東工大建築学科の学生と知り合ったため貴重な情報を教わった。
先ずはガウディの協会へ行きカサ・ミラなどを見学できる許可証を貰った。カサ・ミラは近年は入場料を払うと屋上などが見られるシステムらしいが、一般アパートのため当時は観光客はオフリミットの建造物だった。
その後も彼らによる日本語ガイドでサクラダ・ファミリアからグエル公園やガウディ博物館などを学んだ。

バルセロナ サクラダファミリア1973 撮影 西田圭介

聖者の彫刻はほんの一部しか出来ていなかった。

バルセロナ グエル公園1973 撮影 西田圭介

グエル公園で。

バルセロナ ガウディ1973 撮影 西田圭介

ガウディ博物館の肖像写真。

バルセロナ サクラダファミリア1973 撮影 西田圭介

大聖堂の屋根も無い時代。40年で工事は急ピッチで進みステンドグラスはカラフル。
バルセロナ カーサミラ1973 撮影 西田圭介
カーサ・ミラのモザイクも剥離が始まっていた。

バルセロナ カーサミラ1973 撮影 西田圭介

カーサ・ミラの屋上で。

バルセロナ グエル公園1973 撮影 西田圭介

バルセロナの日差しは強くモザイクなどの劣化が気になっていた。グエル公園で目撃した大階段の手すりのモザイク剥離の修復は職人さん達の新しいモザイクが従来のモザイクより大振りになってしまうのが残念。

 

1973.08.05 バルセロナ→ナルボンヌ→グリンデルワルト/YH

モロッコ行き断念

予定外のスイスでスキー

マドリッドで下痢を起こした理由が8月6日スピッツ駅からポストしたハガキ発見で記憶がはっきりした。原因は下記の文面にまかせるが、体調不良でモロッコ行きを断念した代わりにスイスのサマースキー体験に予定変更した。この後世界に空手を普及させるために活動していた空手家の加瀬泰治七段をカンヌ取材する日程調整と体調復帰のプチバカンスだ。
8月6日の文面は
行かないはずだったスイスについに来てしまい 、昨日よりアイガーを目前にしたユースに1泊、本日7:00よりユングフラウに登頂成功!
バツグンの天気、雪質はザラメ、風やや強し。
スペインのマドリッドで下痢のため1週間休養。その後セビリアで酒(サングリア)を飲んでジンマシン。これが治ったり再発したりで未だ完治せず。本日も午後より少々痒し。
スペイン製の薬(セビリアからマラガに向かう乗り換え駅のコルドバで時間待ちの間に市内のファーマシーで購入)を飲んでいるがどうなるやら?でも心配無いと思います。
これよりツェルマットに向かい2日間ほどスキーをしに行きます。
何と言ってもアルプスで滑るんですから菅平なんて問題ではありません。
多分ジンマシンも治るのではないでしょうか?体の疲労が原因だと思います。(この病気の原因はアフガニスタンで解明された!8月30日ゴロアップ予定なり)
スペインは暑くて全くCRAZYです。
ますます元気ですよってに心配いらず。東京には9月中旬の予定。なんといってもツェルマットでスキーだもんね!  8月6日 スピッツ駅にて
これは7月20日マドリッドからポストのアエログラム
パリ出発前日に刺身、鉄火丼、うな丼、ところてんetcを食べ過ぎ現在2〜3日正露丸のやっかいになってます。
スペイン料理はオリーブ油を使用するため普通でもおかしくなるのになかなか治らず困っていますが取材先の長嶺泰子(フラメンコダンサー)さんにお粥を作ってもらい梅干しとサラダでなんとなく持ちかえしてます。でも食欲はあるので心配は無い様です。
今週は仕方ないのでマドリッドに足止めで休養です。やはりナマモノは注意せねばいけません。いくら刺身が食べられるといっても日本まで我慢しなくては。今晩はこれよりフラメンコ見物に連れてってもらいます。長嶺さんの撮影は明日、そして日曜は闘牛です。
ではADIOS!
追伸:アセムーチョカロールは「暑い」のスペイン語。日本的です。

バルセロナ1973 豪雨 撮影 西田圭介 nao1.com

ユーレイルパスでもスペイン国内は座席予約が無いと車掌とのトラブルが時々起こるため、バルセロナの中央駅で長蛇の列に並んで予約を済ませ駅舎を出ると外はクレイジー豪雨。その時雨を逃れて走り込んできたのは何と乃村工芸社パーティーで知り合った日本人。この旅行で唯一出会った知人だった。

バルセロナ1973 豪雨 撮影 西田圭介 nao1.com

バルセロナからフランス経由でスイス、グリンデルワルトへ。

グリンデルワルト1973 撮影 西田圭介 nao1.com

360度、何処を見ても絵はがき! 夕食後のユースホステルのロビーではピアノを弾ける男が一番もてた。
Jungfraujoch1973 撮影 西田圭介
朝7時発の登山電車で上ったユングフラウヨッホ3454mにて。オーダーメイドのカメラジャケットはフィルム、交換レンズ、露出計などの収納を機能的にデザインした。このジャケットのおかげでアテネ以降の空路の機材のウェイトオーバーをチェックされずに済んだ。ファスナーを開くとニコンF2台、ハッセル1台をぶら下げているため不格好な様子でテロリストの疑いでインドの空港内バスでカービン銃を構えた兵士に両腕を掴まれた事も。

 

 

1973.08.06. グリンデルワルト→ユングフラウヨッホ→グリンデルワルト→ツェルマット/Hotel
 

 

1973.08.08. ツェルマット→ミラノ→カンヌ

朝一番のゴンドラで

ナショナルチームと一緒に

マッターホルンのスキー場へ

Gパンに長袖Tシャツの重ね着、レンタルスキーを担いで始発のゴンドラに乗るためにツェルマットの街はずれに着くと、きっちりとレーシングウェアを着込んだナショナルチームの若者集団がいた。
身長の高い彼らと一緒に立ち席だけのゴンドラに乗ると日本人の僕は子供サイズだった。乗り換えのフーリー(Furi 1,864m) 駅で次のトロッケナーシュテグ(Trockener Steg 2,927m)駅まで支柱無しの1本ロープで深い谷を渡る。写真を撮りたかったが選手達に窓側を占拠されていたので不可能だった。おかげで高所恐怖症にならずに一気に上空に着いた。
ここには雪は無く選手達は一気にクラインマッターホルン(Klein Matterhorn 3818m)エリアに向かった。リフトに乗って雪のあるエリアにようやく着いたが雪に見えたのは氷だった。
ザラメ状態の場所と、完全なアイスバーンの表面が太陽でポツポツと丸く溶けて円周が鋭いナイフエッジに! しかも氷の下を溶けた水が流れていた。グローブも無しで転んだら間違いなく大怪我だ。

マッターホルン1973 撮影 西田圭介

マッターホルン1973 撮影 西田圭介

眼下に見えるトロッケナーシュテグ(Trockener Steg 2,927m)からかなり上がってもザラメで歩くのも難しいほど良く滑る。
長いTバーリフトを乗り次いでようやく雪らしくなった所(3500m?)でもきっちりエッジを効かせないと全面アイスバーン状態だった。正面はアイガー、メンヒ。

クラインマッターホルン1973 撮影 西田圭介

この辺りの雪もやや重めだったが上越の湿雪よりはコンディションが良い。
シーズンのゴルナクラートからのダウンヒル滑ったらニセコでも叶わない上質のアスピリンスノー。オススメです!

マッターホルン1973 夏スキー 撮影 西田圭介

ドピンカンのマッターホルンの夏スキー。森林限界を超えた標高にあるため見渡す限り人気無し。Gパンまくって半袖、軽装過ぎてレッドカード!
天気が急変せずに良かった。日本のスキー場のように周りにお店は全く無い。
無音の青空とマッターホルンだけだった。
列車で一緒になったスキー初心者を連れてここで特訓した人が送ってくれた記念写真。一応ウェデルン、ひざの繰り出しが今ひとつなり。

マッターホルン1973 夏スキー 西田圭介

 

1973.08.09. カンヌ

「人格と技(力量)、オリエントの精神」を求めて

アフリカ、東欧、全ヨーロッパから集まる

全ヨーロッパ空手合宿のビッグ・ボス

加瀬泰治7段(44歳)

亡きブルース・リーが演じた空手映画『ビッグ・ボス』がヨーロッパでも空前のカラテ・ブームをひき起こしていた。映画のポスターは街中に貼られ子供達は日本人と見るや「ジャポネ・ビッグボス」と集まってくるほどで、僕自身も何度も試合を挑まれ困った。
これは加瀬泰治(当時44歳)さんが語ってくれた海外における日本武道全般にいえる話だった。
ヨーロッパ人にとって空手は「強さを要求」され「日本の師範のようなただ座っているだけ」では指導できない。
「五尺の小寸をもって大男を一撃するだけの強さ」、そして「全人格的に優れている」事が求められる。日本の空手のように技巧に走ったのでは体力的に優れた者と対峙した時にかなわない。
戦前のような強い空手がヨーロッパでは求められている。
かつて学生時代に空手を学んだ者が空手を教えてもすぐ弟子の方が強くなってしまう事が増えている。もっと体系的、技術的にしっかりしたものを持った人が来ないとヨーロッパにおいて日本の空手は馬鹿にされる。彼らを理解し、溶け込み、友人として師として力量のある技を持って指導に当たらねばならない。

道場では「強く」「厳しく」、離れたら「友達」「溶け込み」「理解」

ヨーロッパに住んで空手を教えていると教え方がヨーロッパ的になり、日本の空手と少々異なりヨーロッパとの中間的なものになってしまうギャップが起きる。
しかし「空手を通して世界の人間が集まって一つになる」と考えれば、それも一つの空手の方向性ではと考える。
ヨーロッパの空手が流行る事で本家日本の空手を技術的に体系化をしっかりする事に繋がる。

加瀬泰治1973 カンヌのビッグボス 撮影 西田圭介

加瀬泰治1973 カンヌのビッグボス 撮影 西田圭介 週刊サンケイ1974年6月20日号
取材から一年ほど遅れて掲載された。カンヌの合宿にはミラノから白井寛さん、ロンドンから榎枝慶之輔さん、ブリュッセルから宮崎哲さん、日本からは1969年第一回全日本空手道連盟優勝者の飯田紀彦さんと加瀬さんの5名が指導にあたった。

カンヌ1973 加瀬泰治松涛館 撮影 西田圭介 

加瀬泰治さんのプロフィール
1929年生まれ
松涛館流を白井寛氏から指導を受け日本空手協会で指導員の師範となる白井寛氏から指導を受けた1964年より南アフリカ、ケープタウン・ヨハネスブルグで指導
1965年より一年半をかけ世界を回る
空手道連盟(国の連盟)コンセー テクニック(師範)
全ヨーロッパ空手道連盟 ディレクター テクニック(技術部門長)
ユーゴスラビア国家公認ユーゴスラビア空手道連盟ディレクターテクニック
1971年ユーゴスラビア・パンチェゴ市名誉市民 
1973年3月モンパルナスに道場を開く
1973年6月日本空手協会世界大会(日本)ヨーロッパ選手120名を連れて参加
カンヌ1973 加瀬泰治松涛館 撮影 西田圭介 
練習の合間に加瀬さんに連れて行ってもらった地元民が利用する海岸はカンヌの隣フレジュス(Fréjus)。このころヨーロッパでは熱病のように一部のセレブ?に蔓延したトップレスがここにもいました。
加瀬泰治さんは2004年逝去されたようです。合掌

 

 

1973.08.11. カンヌ→ヴェネツィア/Pen

アドリア海の真珠ヴェネツィアへのアプローチは

心地よい海風を受け

干潟を渡る鉄橋のレール音が止まると

ヴェネツィア・サンタ・ルチーア駅に到着

イタリア本土から全長3850mの自動車専用のリベルタ橋(Ponte della Liberta、自由の橋)と平行している鉄橋はオーストリア帝国支配下の1842年に開通した。
リベルタ橋はムッソリーニにより1933年にリットリオ橋として開通したが第2次世界大戦後ファシズムからの開放を記念して改称された。
駅舎を出るとヴェネツィア島内移動は水上バス(vaporetto、ヴァポレット)や水上タクシー(motoscafi、モトスカーフィ)は利用せずほぼ徒歩。

ヴェネツィア1973 撮影 西田圭介

ヴェネツィア

島内の自動車移動は勿論不可で車椅子や乳母車以外の自転車の使用も禁止らしいが刃物研ぎの自転車だけが許されているみたい。
グラインダーより砥石だと嬉しいけど、日本でも刃物研ぎの職人さんが減っている。

ヴェネツィア1973 刃物研ぎ自転車 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.12. ヴェネツィア/Pen

鳩、鳩、鳩

サンマルコ広場で撮影された

巨大なコカコーラの鳩ロゴ

この旅行で一番ビックリしたポスターはサンマルコ広場に面したジューススタンドで目にしたコカコーラのモノクロポスターだった。てっきり複写したつもりだったがネガが無かったのでググってみたら発見できた写真がこれ!
記憶では完全なコーラのロゴだったが少々違っていた。コーラを飲みながら考えたのは鳩の餌を上手くボンドで広場に貼ってテントで覆い撮影直前に剥がす。しかも観光客の少ない時間帯に大多数の鳩も集める・・・
許可を含めて簡単な撮影ではない。しかもロゴ部分にはびっしり鳩が集まっていた。凄い名作!

サンマルコ広場1973 コカコーラと鳩

Absolutのこんなポスターもあるらしいがコーラは凄い!

サンマルコ広場と鳩 ポスター

 

 

1973.08.13. ヴェネツィア→フィレンツェ/Pen

街中がメディチ家のコレクション

ウフィツィ美術館でプリマヴェーラ、ヴィーナスの誕生

科学史博物館でガリレオの使った実験器具に出会えた

旅をするなら自然の豊かな所が一番だが、美術館は大都市にあることが多い。この時代でも有名な美術館がある都市は観光客も住人も多く概ね騒がしいのと宿泊費が高いのが難。
ゴッホ美術館、アムステルダム国立美術館、ルーブル、イエナ、オランジェリー、プラド、ピカソ・・・。シニョリーア広場に面したヴェッキオ宮殿前にはミケランジェロのダビデ象(レプリカ)達が出迎えその奥にウフィツィ美術館がある。教科書にも載っているボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」と「プリマヴェーラ」を見た。
画集で見るのと違って原画の色は素晴らしく、ガラスケースも停止線も無いためゆっくり観賞でき日本の美術館では考えられない撮影も可能だった。撮影中止で終日美術鑑賞!

フィレンツェ1973 ヴィーナスの誕生 撮影 西田圭介

フィレンツェ科学史博物館("Museo di Storia della Scienza")は、ガリレオ・ガリレイの科学実験器具のオリジナルがある貴重な博物館(2010年にガリレオ美術館に改称。On June 11, 2010, the Institute and Museum of the History of Science reopens and changes its name into Museo Galileo.)ここは地味ですが必見です。

フィレンツェ1973 SL 撮影 西田圭介

久しぶりにSLに出会った。

 

 

1973.08.15. フィレンツェ→アッシジ→ローマ/Pen

バルセロナで一緒だった学生とフィレンツェ駅で再会

シエナのパリオ祭見学、城壁都市アッシジ調査の

ニ択でローマ入りを決める

ローマ行きの列車を待っていたらバルセロナでガウディを案内してくれた東工大建築科の学生とバッタリ再会。彼らは二手に別れシエナ経由とアッシジ経由でローマを目指すそうだ。
どちらの都市も初めて聞いた情報だった。シエナのパリオ祭は1147年から800年以上も続いている祭りで例年8月16日に行われ 祭りのメインは騾馬を使った競馬レース。17のコントラーダと呼ばれる地区に分かれてカンポ広場で行われる競馬レースを見学するコース。
もう一つは城壁都市として見るべきものが多いアッシジコースだった。お祭りもいいが人が多いのはつらいので迷わずアッシジコースに同行した。

アッシジ1973 撮影 西田圭介

1866年に出来たアッシジ駅から5キロ程の正面の小高い丘に城壁で囲まれた都市だ。

アッシジ1973 撮影 西田圭介 

ゴシック建築の聖フランチェスコ聖堂はこの町出身の聖フランチェスコの伝説に導かれた多くの巡礼者が訪れる事で有名。
丘陵地帯に出来たアッシジの街は曲がりくねった路と数多くの階段が迷路のように入り組みカラー写真のような目抜き通りでもパン屋さんや鍛冶屋などの生活商店があるだけで土産物屋もほとんど無く観光客も少なく静かな街だった。
とても気に入って1990年に小学生の娘を連れて家族旅行で再訪した時はビックリする変貌ぶりだった。生活者以外の車の乗り入れ禁止のため街の入り口に新設された巨大な駐車場には数えきれないバスと車! 写真のような坂道一杯にこれでもかと土産物を並べ、いたる所にカフェやレストランが出来、完璧な観光都市になっていた。
92年にも隣町を通ったが車から町並みを見るだけで立寄る気すら起きなかった。と思うのは旅行者のエゴなのか・・・

アッシジ1973 撮影 西田圭介

アッシジ1973 撮影 西田圭介

 

1973.08.16. ローマ、バチカン

バチカン美術館の二重螺旋階段と

システィーナ礼拝堂に差し込む光が

アダムの創造最後の審判を神秘的にさせる

ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画は1979年に試験的な修復作業が始まり、1980年から1999年12月までかけて大規模な修復作業が行われ、その後最後の審判の修復が行われた。
写真(モノクロ)は修復前のロウソクの煤などの影響でモノクローム調になっていた。本来は色彩豊かな作品だったかも知れないがエイジングで抑えられた色調を見る事ができて幸運だった。

バチカン美術館1973 二重螺旋階段 撮影 西田圭介

二重螺旋階段で上りと下りが整然と区別される現代建築にも負けない造形力。

システィーナ礼拝堂1973 撮影 西田圭介

アダムの創造 システィーナ礼拝堂1973 撮影 西田圭介

最後の審判1973 システィーナ礼拝堂 撮影 西田圭介

システィーナ礼拝堂の天井に差し込む神秘的な光が「アダムの創造」と「最後の審判」を際たてる。

 

 

1973.08.17. ローマ/Pen

テレビのアート担当プロデューサーから

ミロとダリの取材スケジュールのレターを受け取りに

JALローマ支店に向かった

テレビの特別番組企画で「20世紀の巨匠ピカソ、ミロ、ダリ」取材班にカメラマンとして同行できるチャンスがあった。横浜を出航する直前の1973年4月8日にピカソが急逝したため当初の取材スケジュールが組めなくなり、改めてミロとダリの取材スケジュールの組み直しになったが巨匠たちのスケジュールが決まらずバイカル号に乗船する日を迎えてしまった。
早く決まればパリ支局に連絡があるはずだったがテレックスは入って無かった。
遅くても8月中にはバルセロナに集合予定だったのでワクワクしながらトリトーネの噴水が目印の日本航空のローマ支店に行った。

ローマ1973 

パリから初めて会社に電話をかけた7月初旬、相性が悪いデスクがいきなり
「西田!写真撮れたのか?お前パリにいるんだろ」
「えっ!何の写真ですか?」
「ツポレフだよ。パリの航空ショーだ。お前新聞読んでないのか?こんな大事件知らねーのか!毎日遊んでんじゃねーか」
これは6月の3日にソ連の超音速輸送機ツポレフ144が、ル・ブルジェ空港で開催されたパリ航空ショーで墜落し、乗員6名と地上の住民7名が犠牲となった事件の事だった。6月3日はストックホルムにいた頃で撮影出来る訳も無かった。
この電話でフジテレビからの連絡の有無を聞く予定だったが会話が続かずこちらから電話を切った。帰国後にお会いした取材スタッフによると連絡を入れるため電話した時にデスクから
「何だその企画、聞いてないし許可してない。西田から何の連絡も無い。生きてるか死んでるかも分からない」と言われたそうだ。
大事件といえば、7月20日にはテルアビブ空港乱射事件で逮捕された岡本公三の釈放を要求した「ドバイ日航機ハイジャック事件」もあり日本人バックパッカーは空港での検査が厳しくなった。
残念な事にJALに手紙は届いて無かった。
この取材のためにバックパックの一番底に畳んだままのサファリジャケットを着る事も無くなった。
東京に電話(国際通信のKDDによればコレクトコール3分4320円。パーソナルコール8612リラ。大卒初任給4万〜5万)する事も考えたがローマを離れるまでにコンタクト不可だったりスケジュールが合わなかった場合のプランがあった。
第2プラン決行かも

ローマ フォロロマーノ1973 撮影 西田圭介

 

1973.08.18. ローマ→ポンペイ→ブリンディシ

東京とダリ、ミロ取材の連絡取れず

中近東、インド目指して

東に舵をきった

小野田出版局長から
「おめぇ、本当に3ヶ月で帰ってくるのか?」
と出発の前にぎょろりとした目で睨まれて言われた帰国日の8月25日は来週だ。
日本航空ローマ支店にダリとミロ取材の最終スケジュールの手紙は残念ながら届かなかった。
取材用のスーツをこれ以上小さく出来ない位に畳んでバックパックの奥底に押し込んで、中近東・インドに向けて進路を東に決めた!簡単に帰国出来そうも無い。
取り敢えずイスタンブール目指してポンペイ経由でイタリアの踵にある港町ブリンディシに向かった。

ポンペイ1973 撮影 西田圭介

ポンペイ1973 撮影 西田圭介

全財産をバックパックとカメラバッグに入れて昼時のポンペイ見学は疲れた。
アップダウンのあるアルハンブラ宮殿も厳しかったが、真夏の太陽が直接降り注ぐ屋根の無い広大な遺跡内を歩き回ると、ヴェスヴィオ火山噴火から逃れる人のように熱く辛い午後だった。
この時代から娼婦の館などがありポンペイは快楽の都市とも呼ばれる壁画が多数残っているホットな街。

ブリンディシ1973 撮影 西田圭介

ギリシャ・パトラスに向け久しぶりの大型客船。いい感じの日焼け、しかも地中海クルーズ!Ci vediamo!アリヴェデルラ イタリア!

 

1973.08.19. ブリンディシ16:00→パトラ→コリントス運河→13:00 アテネ

アドリア海、地中海、イオニア海の航路

甲板でエンジン音を枕に

大の字で仰ぎ見た人生初の天の川

イタリアとギリシャを結ぶポピュラーな航路で北欧以来の久しぶりの客船だった。
日没後甲板で気持ち良い海風を受けながら見上げると満天の星空が広がっていた。甲板の照明を避けて暗がりから見上げると更に星の煌めきがアップした。ロケハンの結果エンジンの排気煙突の根元のデッキが一番暗く日中の日差しで暖かくなったウッドデッキの感触と温度が最高のポジションを見つけ大の字になった。
星が流れる川のようになっているから「天の川」そうか!この時初めてMilky wayを見た。水平線まで見渡す限りの★。
今程東京の空は小さく無かったが子供の頃から何故星座のイラストが思い浮かぶのか全く分からなかった。これだけ星の密度が高いとイマジネーションの優れた古の人なら思い浮かぶのだろうと思った。
残念ながら気持ち良く星座観賞をしていたので撮影忘れました。画像はイメージに一番近いナショナルジオグラフィックの画像です。

天の川

翌朝パトラに着いてバスでアテネに向け移動中バスの中から撮影したコリントス運河。
一直線に削られたコリントス運河は、閘門(こうもん)を 持たない水位が一定の運河で、コリントス地峡の丘を一直線に縦断して掘られている。全長6343m、運河の幅は水面部で24.6m、河底部で21m、深さ は8m、運河の途中に鉄道橋と道路橋があり桁下は52mとなっている。丘の高いところでは標高約79mほどもあり、丘の区間では両側に高く切り立った崖が せまる細い水路を船が通過する凄い運河だ。

コリントス運河1973 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.20. アテネ/Pen

エーゲ海の風が吹き抜ける

アクロポリスの記念写真屋さん

ポストカードサイズ3枚で50ドラクマなり

アクロポリスの丘にいた何人もの観光記念写真屋さん達は皆不思議な「暗箱」タイプのカメラを使っていた。
しかもこの箱の中に暗室機能がついてるみたいだった。フィルムホルダーを使用しているようには見えずどんなプロセスでポストカードサイズのモノクロプリントが生成されるのか謎。ただフィルムチェンジャーのように2つの袖口から両手をいれ何か作業をしていたので、もっと観察すべきだった。
想像ではペーパーネガを作って、密着プリントを作ってるのかと思うがコントラストは奇麗なのでネガにするペーパーは相当軟調なのかしら?
アクロポリス1973 撮影 西田圭介

アクロポリス1973 撮影 西田圭介

アクロポリス1973 撮影 西田圭介

パルテノンの神殿の日陰でバックパックをクッションにエーゲ海からの風を受けてボーッとしながら下した最後の決断は変わらなかった。帰国のタイムリミットは明日に迫っていたが、まだギリシャ。
気持ちは陸路でイスタンブールだが、明日からパンナム南回りで中近東、インドに向かう。
いつの間にか下着のランニングが通常ファッションとは、日焼けして充分汚いヒッピーになってしまった。こんな格好で入国の度に職業フォトジャーナリストと書いても誰も信じない。少なくとも今の自分は・・・

アクロポリス1973 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.21. コリントミケーネエピダウロス/Pen

またしても再々再会した東工大生による

建築学解説付き古代ギリシャツアー編

エーゲ海は打ち寄せる波もなく緩かった

バルセロナで出会いフィレンツェで再会した東工大の学生とローマ、ポンペイ、アテネと何度もコースが一緒になってその都度詳しい解説が聞け勉強になった。
彼らとまたしてもアテネで出会いコリント、ミケーネ、エピダウロスを案内してもらった。彼らとの出会いが無ければこんなには回れなかった。中でもエピダウロスの円形劇場は舞台のセンターで話す言葉がはっきりと最上段の席まで聞こえ、写真のような表面が虫食いの座面がなんとも言えない座り心地に2度ビックリした。
今回この円形劇場のある地名を完全に忘れてしまった。
記憶にあった検索ワードは円形劇場、海のそば?だけだったためパトラからコリント、ミケーネ〜アテネとGoogle Earthと画像検索で懸命に探した結果、上空からこの同心円を見つける事ができた。しかしGoogle Earthにある画像は間違いの多い事も判明した。
コリントやミケーネのエリアにポンペイやフォロロマーノの画像が貼られていたり、他の地域の円形劇場があったりいろいろでした。古代遺跡と言う共通点はありますが、皆さん検索結果を鵜呑みにせず検証は必要です。
エピダウロス1973 撮影 西田圭介

ミケーネ1973 撮影 西田圭介

古代ギリシャの文明力に刺激を受けたあと海に向かった。夕方近くオリーブの畑を抜けたエピダウロスの海岸は人気も風も無く海面は湖面のように平で波も無かった。
誰もいないので裸で海に入ってビックリした。ぬるい!ポルトガルのナザレで触れた大西洋はとても冷たかったがエーゲ海は人肌でぬるかった。後に行ったハワイやフィジーの海水より緩かった。

 

1973.08.23. イスタンブール/Hotel

Air France南回り便で

アテネより空路イスタンブール

バックパッカー御用達ホテル「グンゴール」へ

既に帰国時間を超えてしまったので陸路はあきらめ中東、インド、ネパール・・・と空路ストップオーバーの旅は世界一周線を開始していたフランスフラッグキャリア、エアーフランス南回りを使った。
いよいよバックパッカーの先輩森川さんの手紙だけが頼りの旅が始まる。
中近東-1
ヨーロッパ、トルコでは汽車で国境を越えるとヒッチハイクで超えるより通関手続きは簡単です。アテネからイスタンブール、テヘラン、カブール、ニューデリー、カトマンドゥーには不定期便ながら幾便もヨーロッパ人の運転する大陸横断の大型バスが出ているので現地のバスを乗り継ぐより余程簡単です。
乗っているのは全部ヨーロッパ人ですし、通関も皆と一緒にやり、安いホテルにも勝手に連れて行ってくれるので少し割高ですがこれを薦めます。これから書く各都市のホテルにはどこ行きのバスが何日に何ドルででるという張り紙がよく出ています。
アテネ ▶
この街にはまだ行ってないので分かりませんがユースで聞けばイスタンブール行きのバスの便が何時出るか調べられます。ここからイスタンブールまで1日の直通列車が出ています。バスなら11〜12ドルです。
イスタンブール ▶
スルタンアーメッド(地名)のホテル「グンゴール」大部屋、1人8トルコリラ(約160円)。大部屋には時々ノミかナンキン虫が出るがシーツは清潔。ホットシャワーは3リラ(60円、1リラ≒約20円)払うと入れる。
カメラ、ラジオ、車を売りたい時はここのマスターに聞くと便利。セックスブックは自分でバザールに持って行き宝石屋でまずサンプルだけ見せ気長に交渉する。
値段が折り合わない時は別の店で売ると言って席を立つと値をつり上げてくる。反対に買う時は値切る事。
ここのシープススキンコートは刺繍はミシンでアフガニスタンのカンダハル、カブール(量が多い)の方が手刺繍で奇麗。
グンゴールの中にはテヘラン、カブール行きのバス案内はしてないが、となりのカフェ「プディング・ショップ」の壁に紙が貼ってある。
このプディング・ショップには外国人がいっぱい集まり、レジの所で1ドル=14トルコリラで換金してくれる。
ヤミも銀行レートも同じ。他の所ではニセ金をつかまされたり、持ち逃げされたりするので絶対に換金しない事。
物を売る時はドルで貰う事。トルコリラは隣のイランの首都テヘランの両替商で、イランリアルにもドルにも替えられるけど・・・
二人旅ならスルタンアーメッド地区の他のホテルのダブルルーム、シャワー付きを探しても住み心地が良いと思う。なるべく大部屋に泊まらず2人部屋を借り切る事。
カメラ盗難の心配あり。

イスタンブール1973 マップ

空港のインフォメーションでマップとグンゴールの場所とバス路線を教えてもらった。

イスタンブール1973 プディングショップ 撮影 西田圭介

手前が今でも営業中のプディング・ショップ(Divanyolu Caddesi No:6 Sultanahmet, 34400 Fatih/istanbul)。奥が世界中のヒッピーが泊まるホテル・グンゴール。
大部屋は遠慮してシングルに泊まったか誰かと2人部屋にしたか記憶が無い。トイレが一部壊れていたのと、ホット・シャワーを使う時シャワーカーテンを引かず目の前にカメラバッグをおいてシャワーがかからないように出入り口に向かって体を慌てて洗った記憶だけが鮮明に残っている。この週間はユースホステルを利用した時も同じ。

 

 

1973.08.24. イスタンブール

ホテル・グンゴールの隣が

バックパッカーの情報オアシス

プディング・ショップ

インドに行きたい人、ロンドンに戻る人達への家族や恋人からの手紙をはじめ、 旅人をサポートする足情報がここの掲示板に貼られている。
インターネットや情報誌の無い時代、安い快適宿、旨いレストランなど旅の情報はバックパッカー同士で交換しないと入手出来なかった。インフォメーションセンターも日本より数十倍優れていたが、穴場情報などは特に入手しにくい時代だった。
カブール行きバス35ドル月曜14時出発、女子2人●●まで同乗希望など国際直行バスの値段や尋ね人まで色々貼ってあった。

プディングショップ1973 撮影 西田圭介

画面奥に情報オアシスがあった。

プディングショップ1973 撮影 西田圭介

掲示板の一番上に書かれた警告!こういう事か・・・

WARNING
Have a good time in Turkey.
But have absolutely no dealings with DOPE(Hash,LSD etc).
The Consequences are Severe 1Gram-3-4 years. Dealing-10-30 years.
Riff offs happen everywhere......Istanbur is no exception.
This is for your protection.

Pudding shopはオフィシャルサイトもあり現在でも健在です。
ホテル・グンゴールは見つかりませんでした。グンゴールからブルーモスクまで直線で300m、トプカピ宮殿まで600mで一番遠いガラタ橋でも1.2kmで便利な上とても安いホテルなので世界中のバックパッカーが集まる訳だ。何時クローズしたのか残念なり。
プディングショップ1973 撮影 西田圭介 プディングショップ1973 撮影 西田圭介

プディングショップ1973 撮影 西田圭介 プディングショップ1973 撮影 西田圭介

 

1973.08.25. イスタンブール 22:45/FG708→06:15 カブール/Hotel

空港から迷わずホテルムスターファに直行

自由に水が使えるホテル

一歩外に出ると水の現実は

ここHotel MUSUTAFAは森川メモのオススメホテルでダブルルーム150アフガニ、シングル75アフガニ。しかも各階に2つぐらい共同シャワーがあり湯が出なくともマネージャーに言えば湯の出るところを案内してくれるそうだ。
入り口のカウンターにはニューデリー行きのバスの広告が度々貼り出されている。
ランドリーム割合安く朝出せば夕方出来上がる。
ホテル前の道路を渡るとカブールの共同水道。
近所の住民が薬缶やバケツを持って集まる。運ぶのは子供たち。
水道の水をいくらでも飲める東京では気づかない大事なライフラインだった。後ろがホテルムスターファ。

カブール1973 撮影 西田圭介

大通りを一本裏に入った路地では下水路みたいな所で歯を磨いたり洗い物をしていた。
これが日常で疑う事も無い子供の表情が明るい。

カブール1973 水と子供 撮影 西田圭介

カブール1973 水 撮影 西田圭介

革袋に30キロを超える水を入れて半日がかりで山の上まで運ぶ人。
ホテルの正面が大きな山となっていて点のように小さな人影がいくつも革袋を担いで運んでいた。

カブール1973 水を運ぶ 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.26. カブール

チャン アフガニ?

手刺繍のアフガンコート、ベストに

足型から作成のオーダーメイドのアフガンブーツ

値切りアフガン語で3大記念品をゲット

60年代後半から70年代にかけて新宿風月堂に集まるフーテン(長髪にラッパズボンで定職に就かない若者、和製ヒッピーの俗称)の中ではこのアフガンコートがいちばん人気を呼びファッションのステータス感もあった。何としてもこれが欲しかった。
森川先輩とフランクフルトで再会した時に教わったカブール土産物屋マップと値切る時に必要なアフガニスタン語の数字の特訓も受けた。これで根切り対策万全!
チャンアフガニ? はHow much?
1はヤク 2.ドゥー 3.セイ  7.ハフトゥ・・・10はダー、70はハフタッド、100はヤクサド、1000はハザールまたはヤクハザール。172はヤクサド・ハフタッド・ドゥー。

アフガンコート タージマハル旅行団 大磯イベント 西田圭介

アフガンコートは現地価格より東京のクリーニング代の方が遥かに高かった。
さすがに現物は残ってないので写真は帰国した12月のタージマハル旅行団の大磯海岸オールナイトクリスマスイベント翌朝の西田。後ろは演奏中のタージマハル旅行団。
このアフガンコートとカブールで購入したオオカミのベストがお気に入りだったが、なめしが悪く10年位で毛が抜けてしまった。真冬の東京で上はTシャツ1枚にGパンでまったくOKだった。これ着てスキーもやってました。いわゆる目立ちがり。

アフガンブーツ1973 西田圭介

足型をとってこれだけのものが何とニ晩程度で出来上がった。
昨年靴底が傷んでいたので修理した。修理代15,000円でこの靴が何足買えたか分からないがトップのイニシャル「KEI」とアフガンらしい刺繍が私の宝。この時今の女房にも「NAO」サイン入りブーツを作った。
40年近く手入れもせずほったらかしだったためミンクオイルをしこたま刷り込んで何とか履けるようにしたいが簡単に再生は厳しいかも。ハシシを求めて世界中からヒッピーが集まるため、頼めば踵にシークレット加工(御禁制品を隠す)もやってくれると言っていたがボーダーで捕まるだけなので低調にお断りした。

アフガンブーツサイン1973

アフガンベスト1973 西田圭介

子供用も入れて現存する最後の3枚。このベストを大量に買ってお土産にした。
僕は好んで着まくったが普通の人は困った代物だったかも。

カブール土産屋1973

貴重なカブールの土産屋情報とアフガン語の数字。特訓のテキストなり!

アフガニスタン語 数字1973

 

 

1973.08.27. カブール

朝起きると体が痒い

発疹があり、ジンマシンの再発!?

薬を買うため銀行へ行った

カブールに着いた翌朝、体が少し痒くジンマシンが出たと思った。
早速街のドラッグストアに行ってみたがペルシャ文字!
腕の発疹や身振りで痒い痒い!アレルギーと訴えても全く言葉が通じない。
翌日の月曜朝一で銀行に両替で行った時に自分の症状を話してペルシャ語に翻訳してメモに書いてもらった。
このメモをファーマシーで見せると主人は私の腕を見てモスキートだと言った。
「NO.NO!」と答えると棚から2つ薬を持ってきた。一つはどこかのメーカーで安かった。片方はスイス、チバガイギー社の薬で10倍したが心配なので高い薬を買って飲んだ。
夜中にまた痒くなってベッドで考えた。
痒い所は足首や手首と首回り、腕そしてパジャマのゴムひも辺りに集中しているので
「あっ!ひょっとしてのみ?」と思い
部屋の電気を付けた瞬間!!!!!  ササさーっと 黒い虫が四方に散らばった。
ベッドの枕を剥がすと血を吸った小指の爪ほどの虫がいた。
これはナンキン虫?
それまで見た事も無く知識も無かった虫だった。
これが森川先輩が言っていたナンキン虫となると、防御策はベッドの周りにDDTのフェンスで囲わないとだめだ。
現地のホテル従業員は平気で縄のベッドに半裸で寝ていられるのは皮膚が硬いのかしら?
ナンキン虫のお陰で寝れずホテルのテラスのデッキでボーッとしていると
「はーい!グッドトリップか? 俺はこの為にはるばる来たけど、毎日見るもの全てエキサイティングでファンタスティックなんでやってないんだ」と気さくなスイス人が話しかけてきた。
「僕はベッドバッドで寝不足なんだ」と答え、バックパック情報をいろいろ交換した。その後
「何故スイスは奇麗なのか?」と話をしたら地方地域によって家のデザインや建築方法など厳しい制約が多く大変で、自由を求めここカブールにやって来たが旅で凄い経験をしたのでこの先ハシシの世話にならずに生活出来ると言っていた。
お土産屋の人は隙あらば値段を上げてくるが、チャイハナ(地域コミュニティーの茶店)に集まる人も商店の人もまなざしが奇麗でいい人が多いアフガンなのに何故紛争が起きるのか分からない。
下記写真は代筆屋のおじさんに若者が恋人への手紙でも頼んでいるのか?今は全く見る事もないが、学生時代には渋谷のQフロントビル辺り?の恋人横町に代筆屋さんがいたはず。

カブール1973 代筆業 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.28. カブール

食堂の2階に日本人らしき男女が

階段を上がって

「こんにちは!」と声をかけた

中近東に入ってから街を歩いて向こうから日本人らしき人に会ったら「こんにちは!」と声をかけるようにしていた。
ヨーロッパにいた時は、それほど日本人に会う事も無いしワザワザこちらから声をかける事は無かった。返事が無ければ中国系かベトナム系で、返事があれば日本人だ。
「あなたはどっちから来ましたか?何時日本発ったの?」と聞いて、
インド方面から着たバックパッカーからは現地のいい情報を聞き、こちらからは何処のユースがいいとか、国境越えのこの夜行列車はスリが多いらしいとか、歯が悪くなったらドーバーを渡れれば治療出来るとかいった情報を路上で交換しあった。
英語が堪能なら情報の質が良くなる事間違い無いが、僕のレベルは全神経を集中しなければ理解出来ないので大変疲れるため、切羽詰まらない限り英会話は二の次で旅を続けていた。
ケバブ屋の2階で声を掛けると「やあ!」と言う返事だったので隣に座らせてもらって話をしたのが森重春幸夫妻(帰国後胡粉と膠(にかわ)という伝統的な素材を用いて独自の技術で創る市松人形作家。工房朋 代表取締役)だった。
森川さんも長期新婚旅行中、パリであった葦原泰二さんも同じく長期新婚旅行中だった。話をしていると彼らもインド方面の予定なので北海道大学出身の森重夫妻と一緒に旅をする事になった。
森重さんが紹介してくれた冒険家の森田勇造(現在公益社団法人 青少年交友協会 理事長、帰国後参議院議員)さんの車でカブール郊外のバザーやテントのような家が点々とある集落等を案内して頂いた。
森田さんは長期の取材旅行が続くため、間もなく帰国する僕はコダックの100ft缶に入れた手巻きモノクロフィルムTRI-Xをお譲りした。
森川さんに聞いた話では中近東のハイウェーでガス欠すると近くで畑仕事をしていた人が鍬を銃に持ち替えて追いはぎされるので、車で走る時は出発前に必ずガスは満タンにし日没前には目的地に必ず着ける日程を組むように注意されていた。
日が陰りだしたこの時間にカメラを向けるのは一人だとかなり心配だった。
もう一人の日本人は京都大学法学部を卒業後、ソルボンヌの留学生で彼は相当たくましかった。
苦学生の彼の学費をの大半はここで仕入れたアフガンコートやベストなどを京都を中心に販売や卸で生計を立てているそうだ。
しかも1969年に開業したばかりのインターコンチネンタルホテルに滞在していろいろ買い付けをしていた。
そろそろ帰国日が近づくと
「部屋にナンキン虫が出た!こんな環境では滞在出来ないので●●ホテルに移動します。何日まで滞在しているので滞在費はお支払いします。責任者の方にお伝えください」
と言って正面玄関から堂々と出て来たと言っていた。
カブールではナンキン虫を完全に除去するのは困難なので取り立ては来ないはずと言っていた。
誰も思いつかないひどい話!だから
バックパッカーの間では静かに旅をしたければドイツ人。寂しくなったらアメリカ人。仲良くなったころ盗難にあうフランス人・・・一番怖いのは何するか分からない日本人だった。

カブール1973 森田勇造 撮影 西田圭介

手前が森田さんのワーゲンかも。ワーゲン無しではシルクロードは踏破出来ない。
アジアハイウェー、カブール郊外でセルフポートレート。

カブール郊外1973 撮影 西田圭介

 

 

1973.08.30. カブール 08:00/FG308 → 11:00 デリー/Hotel

Ariana Afghan Airlies朝8時便で

デリーに向かう

イスタンブール→カブール間も

アリアナ?

航空券はAir France発券だったがエアフランスは世界一周便だからアテネを出たら次の寄港地はデリーの可能性が大なり。
記憶が曖昧で航空券の控えも残っていないためアテネ→イスタンブール→カブールは旅程に合わせてエアーを換えていたかも知れない。
唯一の記憶はイスタンブール→カブールのリコンファームのためにガラタ橋を渡ってエールフランスのオフィス(Cumhuriyet Cd No:197)まで行ってクタクタになった事。今回ネガを詳細に見るとカブール空港の搭乗ロビーからの画像をみると機体は Ariana Afghan Airlinesだ。

カブール1973 アリアなアフガン航空 撮影 西田圭介

その都度国営航空会社のチケットに変更していた可能性がある。以下が当時の飛行ルート。
アテネ→イスタンブール Olympic Air
イスタンブール→カブール Ariana Afghan Aairlines トルコ航空の便が無いため(現在)
カブール→デリー Ariana Afghan Aairlines
インド国内 Indian Airlines 2011年に吸収合併され現在はAir India
ベナレス→カトマンズ→デリー Royal Nepal Airlines 2006年国名改称のため現在はNepal Airlines
デリーバンコク PAN-AM
バンコク→香港 PAN-AM
香港→羽田 PAN-AM

カブール空港1973 撮影 西田圭介

カブール空港は機体まで徒歩だ。バスで移動はそれなりに大きな空港だけだった。
写真下は森田勇造さんの車でカブール郊外を案内して頂いたときのショット。多分レンガを焼く窯から出る煙が印象的で、その後のアフガン侵攻など微塵も感じさせない長閑さだった。

カブール1973 レンガの焼き釜 撮影 西田圭介

 

1973年8月30日 カブール 08:00/FG308 → 11:00 デリー/Hotel

昼前の11時デリー国際空港

Ariana Afghan Airlinesの白いドアが開いて

タラップに一歩踏み出しただけで

ドーッと汗が噴き出した

この季節はインドではまだ雨期が明けていない。
デリーの国際空港に到着したこの日は快晴で助かっと思ったがドアが開いてタラップの最上段で直射日光を浴びたとたん汗が噴き出した。空港施設はエアコンが効いていたが外気温と湿度は相当高かった。
入国審査には所持外貨(入国の時にくれるカレンシーカードは通貨交換証明書で、外貨ををいくら持ち込み、銀行でいくら交換したかなどを銀行で全て記入し出国の時に必ず提示する。/ 以下の森川メモ参照)や国外製品などの申請が必要だった。
カメラの台数やフィルム制限(カメラ2台フィルム20本足らず?)もあると聞いていたがカメラ関係は全てジャケットの内側に下げていたので取り敢えずOKだったがが、カブールで買った毛皮のコートがチェックされボンドする代わりにパスポートに何やら書き込まれしかもコートの内側の5センチ角のタグにはスタンプとびっしりヒンドゥーで書き込まれ本人のサインもあった。出国する時イミグレーションでチェックを受けて持ち出さないと課税されるようだった。
無事21日間のビザも取れついにインド上陸。
インド1973 持ち込み製品 パスポート
上の画像がパスポートに書かれた税関のメモ。
 
 
 

森川メモ インド編

インド/ニューデリー
我々は知り合いの家に泊まっていたのでよく分からないゲストハウスは皆がよく泊まるところ。
多分カブールからバスに乗ればどこか良いホテルの前まで連れていってくれると思うが、一応カブールのホテルでインドから来た人に情報もらっておく必要あり。
インドではGovernment touristバンガローが安くて安心。
  食べ物
 
 
 
1973年8月31日 デリー

デリーの空港ゲートを出ると

料理に覆い被さるハエのように

突然客引きが集まってきた

世界一雑然&渾然のエナジーが詰まった街、デリー国際空港の出国ゲートには人があふれていた。出たとたんにインドの料理に覆い被さるハエのように突然客引きが集まった。
スリに注意しカメラバッグのチャックを確認しながら先ず身構えた。
「ホテルは決まってるか?」
「俺の車は安くてデラックスだ!」
「マイリキシャはヴェリーチープ!」
「良い宿一杯知ってる。紹介するよ」・・・機関銃の様に発砲されるインディアン英語は僕の耳にはとても聞き易い英語だった。少なくともイギリス人の英語より聞き取り易かった。
インド国内旅行のパンフやマップ集めにコンノートプレイスのガバーメント・ツーリスト・オフィスに行くため、中から善人系顔の人を見つけて
「ニューデリーのコンノートプレイスまでいくら?」
「そりゃ高!すぎる」すると横から兄ちゃんが
「俺の車なら◎ルピーだ」
リキシャなら2キロ1ルピーが相場らしい。何キロあるか分からないがそれでも高いので半値半額から交渉開始。
なんだかんだと交渉合戦しながら僕は言った。
「How much Your last PRICE ?」困った振りをしておじさんが妥当な金額を言った。
「OK ! じゃ出発」と言っておじさんの後に付いて行った車にはドライバーがいた。
おじさんはこの車のオーナーで助手席に座って後ろ向きにいろいろガイドしてしてくれた。
オートリキシャじゃなかったので高かったんだ。メーターを倒さないのでチェックを入れると
「フィックスプライスだからOK !」と言いながら目的地まで早口で話し続けた。

デリー1973 森川メモ

デュッセルドルフで聞いた森川さんのインドの歩き方メモ。
自転車、リキシャ(人力車)は一応半分に値切る。2km=1ルピー(30円位)がインド人の相場と教わった。
アメリカ、ヨーロッパのバックパッカーは日本人に比べると相当な倹約家なので日本人はカモだった。
30分以上も交渉して決めた差額は日本円にすると5円以下でガックリ疲れる事も多かったが、インド旅行者価格安定の為に毎回値切り交渉の連続はその後日常になった。
もちろん現地インド人同士でも値切りは日常茶飯事だった。
国内便のフライト確認のためコンノートプレイスの近所にあったエールフランスのデリー支店(Scindla hous.Janpath)シンディア・ハウスに行った。
カウンターから奥のオフィスに通された時サリーを着た女性が床の雑巾がけをしていた。女性が机の下を掃除し始めても椅子をよけもせず、ターバンを巻いた男は微動だにせず仕事を続けていた。
女性は男の足を避けながら大きなデスクの下にもぐって床を拭き続けていた。普通仕事時間に床掃除はしないと思うが、掃除の方が来たらちょっとは避けると思うが、これってカーストのせい? 今でも分からない。

デリー1973 森川ガイド

森川ガイドのデリー見所。
インド1973 デリー ジャイプール アグラ カジュラホ パンフ
デリーのガバーメント・ツーリスト・オフィスで入手したジャイプール、アグラ、カジュラホ、ベナレスのパンフとマップ。
何ともいえない色合いの総天然色印刷なり。

 
1973年8月31日 オールドデリー

一見のバックパッカーにはオールドデリーは

秩序?混沌?瞑想?何が真実?

蒸し暑いラビリンスそれともカオス?

大都市は苦手だ。
美術館、博物館以外は何処の国も大都市はノイジーで人が多く物価が高い。
リキシャ、自転車、牛車、人の多さがトラフィックを一層悪くし、雨期の湿度の高さと極彩色がゴッチャリトーンを複雑にしている。
生きているのか死んでるのか、瞑想中なのか浮浪者もどきの聖人もいて街を一層不可解にしていた。たくさんの選ばれた香辛料を厳選し長時間かけて作られるカレーのような味わい深い街だ。
ベナレスなど他のインドの過密都市特有の味わいも、カレーのレシピと同じで香辛料の配合や使う具材によって全く違った表情を見せるのが面白い。
しかもオールドデリーのゴッチャリした味わいは見えない活力を与えてくれる。

オールドデリー1973 撮影 西田圭介

インド1stカットは牛車。牛は表通りでも路地裏でも何処にでも出没した。

オールドデリー1973 商人の昼寝 撮影 西田圭介

シェスタの国より面白いほど堂々と寝ている人が多いインド。路上で死んでるのか寝ているのか分からないほど多くの昼寝?ホームレス?聖者?瞑想?
中近東を経てインドに向かうコースだったので、体がうまい具合に順応して体調不良にもならず楽しく旅を続けられたが、文明国?からいきなり入国する旅行者はカルチャーショックと食事で下痢に悩まされる人が多い。
顔にハエが止まっていても気にならない国民性は食べ物にハエがたかっている位は当然で気にもせず食事する。インドのハエは食べる前に手で追い払っても一瞬いなくなって速攻集まってくる。食べ物を口に運ぶ間のスプーンにもハエが止まるのはさすがに閉口した。
必死に防御策を考えてもアイデアは浮かばない。
調理場を見たら不潔とか清潔以前の状態の店が多くインドでは調理場に背を向けて座る事にしていた・・・
そこでどうしても気になる場合は食後だと間に合わない感じがしたので、正露丸を飲んでから食事をした。
正露丸臭い口の中が一口二口カレーを食べるだけで最高に旨かった。
森川さんのアドバイス

インドで生水は絶対飲むな!

ミネラルウォーターも勝手にボトリングしているので要注意!

コーラに入れるアイスは生水と同様に危険!

田舎では生卵は絶対食うな!

結核の人が街中で排便しそれを啄んで育つ鶏が病気になっている可能性が大だそうだ。
水分補給はバックパッカー必需品の棒ヒーターをマグカップに差し込んで必ず湧かしたボイルドウォーターを飲むようにしていた。
念のためどんな泥水も濾過出来る野戦用フィルターも持っていたがこちらは一度も使わなかった。
初代のTOTOウォシュレット以来毎朝お世話になっているが、インドで始めて用を足した時に尻を手洗いする事にとても躊躇した。いざやってみるとこれほど気持ちがいいものは無かった。

 

1973年9月1日 デリー IC024/07:10→ 08:00 ジャイプール

ジャイプール行きの小さな飛行機を目前に

カービン銃を手にしたインド兵士が

私の両腕を掴んで

「Get off !」

日本赤軍によるドバイハイジャック事件が7月20日に発生していた。
前年の72年5月30日にはイスラエル・テルアビブ空港で日本赤軍と名乗る日本人が乱射事件を起こしていた。
同じ72年2月19日〜28日にかけて起きた「あさま山荘事件」は朝日新聞と私が代表取材で催涙ガスで眼も開けられない現場を撮影していた。
インド兵が何を言っているのか一瞬分からなかった。
その日のデリー国際空港は朝からピンカンの酷暑だった。
空港の待ち合いロビーでアナウンスがあり何人かの乗客とバスで目的の飛行機まで移動し、後方にあった数段のステップを上がるとたった36席の飛行機だった。
席について離陸前のトイレに入るとボットン式のトイレで中の汚物が見える代物だった。
席の安全ベルトを締めて待っていると
「エアコン設備不良のため再度ロビーに戻って下さい」というアナウンスがあり20名程の乗客はゾロゾロとバスに乗った。
2時間近く待たされて再度アナウンスがあり、先ほどの乗客と一緒にバスに向かった。
乗客と一緒にバスに乗って待っていた時、カービン銃を手にした兵士を乗せたジープがバスに近づいて来た。そして何名かがバスに乗り込み何と僕の両腕をがっしりと掴み、言った。
「Get off !」
バスの中程に立っていた僕はあっけにとられたまま、出口の方に引きずり出されていた時
「彼は怪しく無い!ずっと我々と一緒にいた」
と白髪のインド人が言ってくれた。
その後機関銃のようなインド英語で兵士と他の乗客との会話の後、両腕のロックが解除された。
連合赤軍のメンバーと間違われたって事だ。
この格好じゃプレスカード見せても信用されない。
インドの乗客も整備でさんざん待たされてまたディレーは止めて欲しかったのかも。

インディアンエア1973

たった36席のインディアン・エアのボーディングパス。調布飛行場発の定員19名よりは大きい。

 

 
1973年9月1日 ジャイプール

雨上がりのジャイプール空港

タラップを降りると目の前に

朝から飛行機見学に大勢の人が集まっていた

着陸直前に機内から外を見ると細い滑走路が1本見えた。
ランディングすると滑走路脇の草むらから子供達がモコモコ起き上がって手を振っている。
機体が停止して外に出るとFire Stationの前にも子供達の親がじっと機体を見つめていた。子供が滑走路横切ったりしないのかと心配になったがこれがインド。この時代の無料で楽しめる娯楽なんだろう。

ジャイプール空港1973 撮影 西田圭介

航空会社のバスで市内まで行き、リキシャ(自転車で運ぶ人力車)に乗り換えて風の宮殿に向かった。
「日本人だったら、俺の友達Mr.田中を知ってるか?」
「田中さん・・・?」
「知ってるはずだよ。これ読んで」
と言って荷物箱から丁寧にたたまれた紙を渡された。そこには
このリキシャのおじさんはいい人で料金も安心価格ですが、お土産屋に行きたがる傾向があります。もし彼のビジネスにつき合う時間があれば良い物に出会えるチャンスがあるかも。
と書いてあり,サインもあった。
面白いのでOKサインを出すと、顔をクシャクシャにして喜んだ。
シティーパレス 孔雀門1973 撮影 西田圭介
リキシャおじさんにとってこのレターは魔法のレターだ。Hawa Mahal (風の宮殿)や City Palace (上の写真はシティーパレスの孔雀門)の撮影後おじさんが最初に連れて行ってくれたのは宝石屋だった。
カブールから一緒に旅をしていた森重さんが宝石に興味があり、僕は大学の先生でちょっと宝石が分かると言う設定で1軒目に入ったが見るからに安物のお土産屋レベルだったので
「この店は駄目だ。きちんとした店に案内してくれ」と思わず口がすべった。
2軒目も大した店ではなかったので直に店を出た。
そもそも買う気の全く無い3人だったが3軒目で若い店員がキャッツアイ系の石を出してきた。
光が今ひとつだったので
「これは安物。これは価値がない!」と言うと奥から店主が出てきて
「本当に石が分かるのか?これはどうだ」
「彼は大学で宝石の研究をしている」と森重さんが応えた。宝石なんて全く分からないが、宝石を扱っていた叔母がよくはめていた石はもっとシャープな光だった記憶があったので
「この光はアンシャープ。もっとエッジのたった光を見たい」すると金庫を開けてまた一つ持ってきた。
「これは光のラインが曲がっている」熱くなってきた主人は
「これはこの店で一番だ」
と言って見せられたグレー系ののクリソベリアルキャッツアイはあまり大きくは無かったが真っすぐにラインが光りコントラストがある良さそうなものだった。
提示価格は覚えていないが森重さんが
「今晩良く考えてまた来る」と言ってようやく店をでた。ほっ!

ジャイプール1973 撮影 西田圭介

 
 
1973年9月1日 ジャイプール Part 2

ハンドメイドの絞り染め(Tie-dye)シルク・サリーと

ラジャスタン・ドレス(小さい鈴がボタンやアクセントになっている)を

一口5万円のマイクロファイナンスの

利子代わりのお土産にした

宝石屋の後、リキシャ君にサリーやラジャスタンドレスを現地価格で販売しているお店を希望したが、相変わらずチープな土産屋に向かうためジャイプールで一番大きい店に行ってもらった。
森川さん情報ではガバーメント・エンポリウムで購入すればタイ&ダイ(絞り)の服が50ルピー、ラジャスタンドレスで50ルピー。同じくシルク・サリーは90〜150ルピー。コットンならば30〜50ルピーが相場と聞いた。
その店は辻が花を扱う京都の大店風で裕福そうなインド人母娘などが試着していた。
自分用に小指の爪ほどの大きさで細かい細工を施した小さい鈴がボタンになっている男用のロングシャツ?ドレス(9月2日アグラ Part 3のセルフポートレート画像)やシャツを何着か買った。
シルクのサリーで草木染めのタイ&ダイ(絞り)も見せてもらった。
値段とクオリティーは比例してどんどん高くなり、気に入ったサリーはとても高く、絞りの糸はほとんどほどかれてない代物だった。ほどかれた一部を見て購入を検討するわけだが、一般的なサリーはおよそ幅120センチで長さが6メートルほどあるものが、一針ずつ絞られ手の上に乗るほど小さくなっておりケミカル・ダイと違った自然の色合いが何ともいえなかった。
一般のインド人相手のように値切り交渉を試みるが店主の佇まいがまるで違い値切っている自分が矮小に見えた。高級品はあまり安くならなかったが一般的なサリーは割り引いてもらえた。茜紫色のサリーは店主曰く
Vegetable dyeing &Verry handiwork !!! Not chemica dyeing !!!l! 
確かに。このサリーは帰国後、糸を解くとドンドン広がって伸ばしたものを仕立て屋さんで帯に変身させた。
大事にし過ぎてあれは何処にあるのかな?

ジャイプール1973 サリーショップ 撮影 西田圭介

森川メモ1973

 

 
1973年9月1日 ジャイプール IC482/19:15 → 20:05 アグラ /Hotel

インドでは牛の糞は

見つけたもん勝ちの個人資産

子供達は牛の後を追って先を争って拾い

壁に押し付けて手形を押す

タージ・マハルを訪れる前にムガル帝国3代皇帝、アクバルが建てたアーグラ城塞に行った。
途中の街の土壁に多数の手形が押された粘土みたいな物についてリキシャのお兄さんに聞くと、これは牛の糞で壁に押し付けて乾燥させ燃料にし手形が持ち主のIDで所有者の判別になるらしい。
それで牛車の後を子供がうろついて新製品が出たとたんにあっという間にまとめて壁に可愛い手で押し付けていた。(写真下)

アーグラ1973 牛糞 撮影 西田圭介 

 

どんな路地にも入ってくる牛飼い。

アグラ1973 牛と子供 撮影 西田圭介

リキシャに付いて回る子供たちは僅かな現金収入を得る為に笑顔外交と出来売る限りのサービスを言い続けていた。

アーグラ1973 自転車と子供 撮影 西田圭介

 
 
1973年9月2日 アグラ  

レッドフォート(Agra Fort、アグラ城塞)で出会った

巨大な落書き

デリーからアグラへの遷都に伴って皇帝アクバルが赤砂岩で作った城壁の色から赤い城とも呼ばれるアグラ城塞で出会った巨大な壁一面に書かれた落書きはアートのように見えた。
バチカンのサンピエトロ寺院をはじめ世界遺産級の建築物の柱の影や窓枠等に落書きは何処にでもあった。
一番高い所のサインは3m以上もあり、レッドフォートの壁一面に書かれた落書きは群を抜いて巨大で時間を経た大作だった。
今回の旅で一番印象的な写真をこのブログのイメージ写真に使用した。下の写真はいつものセルフポートレートとカラーで撮ったモノトーンの壁。

アグラ1973 red fort 撮影 西田圭介

アグラ1973 red fort 撮影 西田圭介

もう一つのWall Artがこれ。「牛糞と手形」

アグラ1973 牛糞の壁 影 西田圭介

タージ・マハルの夕景。

アグラ1973 タージ・マハル 撮影 西田圭介

 

 
1973年9月2日 アグラ 

広場に巨大テントと群衆

あっ!コブラ使い

思わずリキシャを止めた

巨大なテントはサーカスだった。
テントの前で噂に聞いたコブラ使いが商売を始めようとしていた。
これは見なきゃと思いリキシャを止めて輪の中に入るとコブラに見えたのは布をコブラ型に畳んだおとりコブラの前で笛を吹いていた。
取り敢えずの客寄せタイムだと思いしばらく待っていたが客足が悪くタバコを吸ったり、始める振りをするだけなのであきらめた。
リキシャに戻るとそこにサモサ(ジャガイモを餃子の皮風のな物で巻いて揚げたもの)の露天が目に入った。
繁盛しており食べたい誘惑にかられたが衛生的とは言いがたい状況で相当悩んだ。
そうだ正露丸だ!
通常の量の倍を飲み込んでサモサを買った。食った。凄く旨かった!!!

アグラ1973 サーカス 撮影 西田圭介

アーグラ1973 コブラ使い 撮影 西田圭介

 
1973年9月2日 アグラ

夕食後のツーリスト・バンガローの

ベンチでぼんやりしていたら女性が近寄ってきて

「これの使い方ご存知?」と目の前に差し出したモノ

薄暗い通路を歩いてきたのは二人の日本人女性だった。
ヨーロッパでは女性のバックパッカー(アメリカ人がほとんど)に結構出会う事はあったが中近東以降久しぶりの日本女性だった。
彼女達はW大学生で好奇心を抑えられず物は入手したものの、使い方が分からなかったらしい。
差し出された手には茶色の小さな棒状の物があった。
「ああ、それか」
この頃の僕はだんだん得体の知れないバックパッカーの風貌に近づいてしまった?ため、彼女達がわざわざ聞きに来たのも良く分かった。
しかしこの手のものはコペンハーゲン、アムステルダム、デュッセルドルフなどのユースや街角で目にし好んでやる若者も多く、自分の年収以上をつぎ込んで買った大事な機材がある限り、記憶が消える程のトリップを楽しむ余裕は全く持ち合わせていなかった。
が、何でも知りたがる性格で充分な取説だけは知っていた。
「デュッセルドルフで見た麻薬撲滅キャンペーンポスターのコピーに『最初は好奇心だった』とあったし、ここはネパールほどフリーではないと思うし捕まるよ!」
それでも経験せずには帰国できないと食い下がるので、独特な香りが部屋に残るので窓は全開にしていた方が安全と伝え、持っていたタバコの紙巻き具と銀紙と100円ライターで用意してあげた。
この頃の経験が買われて帰国後この手の取材をよく担当した。
若者を中心にアート系や音楽系の人が中毒になり入手が楽だった(?)ニューヨークにまで渡ってますます悪化して廃人同様で行方不明になった友人もいた。あのポスターのキャッチ『最初は好奇心だった』は良いコピーだ。

ジャイプール1973 撮影 西田圭介

 
 
1973年9月3日 アグラ IC407/07:55 → 08:40カジュラホ /Hotel

男女が交合するエロティックな彫刻や官能的なレリーフ

ミトゥナ像がある建造物群を回るため

最悪なリキシャを選んでしまった

現在では世界遺産に登録されたカジュラホの遺跡は小さな村に点在している為ガバーメント・ツーリスト・バンガロー(宿)前に集まっていた大勢のリキシャに
「ぐるっと回ってハウマッチ?」
リーズナブルな料金で応えてくれたおじさんに決めてカンダーリヤ・マハデーヴァ寺院に向け出発した。

カジュラホ1973 カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院 撮影 西田圭介

後ろに見えるのがカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院のマハー・マンダバという大拝堂。
これを取り巻く遺跡の壁には男女が交合するエロティックな彫刻や官能的なレリーフがこれでもかと言うほど数百体以上彫り込まれていたミトゥナ像は豊穣祈願らしい。
ここを訪れるインド人の新婚カップルが多いとも聞いた彫刻がこれ!

カジュラホ1973 

もの凄い暑さの中で見学を終えリキシャに戻ると、
「あと●ルピー払えば宿まで乗せてあげる」と法外な料金を吹っかけてきた。
頭に来たがこれがインド!なり。
この暑さの中重い機材を担いで数キロ歩くのはぞっとしたがツーリスト相手にこの手のイカサマ商売する奴に負けてはいけない。
「結構!あんたのリキシャはもう必要無い、さっきの料金は払いません。どうしても欲しければポリスと一緒にガバーメント・ツーリスト・バンガローに来れば半額だけ払います」と言って歩き出した。
「じゃ、○ルピーでどうだ! それじゃ◎ルピーならどうだ」と値段を下げだしたが全く相手にせず歩いていると、他のリキシャも何台も付いてきて
「おれは○ルピーでOK !」と言い寄ってきたが、次第にまとわりついていたリキシャの数も減り宿の近くまで付いて来たリキシャはさすがに無かった。
リキシャやスーベニール店などツーリスト相手の商売人と朝から晩までお金の交渉ばかりで我に返ると数円の事で10分も15分もかけている事にがっくりする事が多かった。
たかが1ルピー、10パイサでもインドの一般人の収入で考えるとおろそかにしない事が後から来る日本のバックパッカーのためだと思っていた。

カジュラホ1973 カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院 撮影 西田圭介

 

 

1973年9月4日 カジュラホ IC407/09:10 → 09:55ベナレス /Hotel

ヒンドゥー教の聖地

聖なるガンジス川最大の沐浴場ベナレス

バーニング・プレイス(火葬場)の撮影に

口々に金銭を要求するガバーメント・ウォッチマンたち

スティーブ・ジョブスは1974年叡智を授けてくれる導師を求めてインドへの旅をした。
僕の目的はガンジス川に面してある火葬場(バーニング・プレイス。マニカルニカー・ガート)で火葬を見る事だった。
自分の目で正視できる自信を持てなかったが、インドを旅した皆が絶対行くべき場所として教えられた。
▶Wikiのベナレス(ワーラーナシー)の「死出の地」によると、
インドではヒンドゥー教徒80%を占め、ヒンズー教の教えにより人々は生まれ変わるつど苦しみに耐えねばならないとされる。
しかし、ワーラーナシーのガンガー近くで死んだ者は、輪廻から解脱できると考えられ、インド各地から多い日は100体近い遺体が金銀のあでやかな布にくるまれ運び込まれる。
また、インド中からこの地に集まりひたすら死を待つ人々ムクティ・パワン(解脱の館)という施設で死を待つ。ここでは24時間絶えることなくヒンズー教の神の名が唱えられる。亡くなる人が最後のときに神の名が聞こえるようにとの配慮である。ここで家族に見守られながら最後の時を過ごす。
数千年の歴史を持つマニカルニカー(「宝石の耳飾り」の意)・ガートは、南北6キロガンジスの岸辺のほぼ中央に位置し、火葬場としての役割を果たしており、死者はここでガンガーに浸されたのちにガートで荼毘に付され、遺灰はガンガーへ流される。
金が無い人、赤ん坊、妊婦、蛇に噛まれて死んだ人はそのまま流される。
町にはハリシュチャンドラ・ガートと呼ばれる、もう1つの火葬場があり、2つの火葬場はドームという同じ一族が取り仕切っており、働く人々も共通であり、交代勤務で約650人が働いている。火葬場を見下ろす一角には、火葬場を取り仕切ってきた一族ドームの長の座る場所がある。
ここには聖なる火と呼ばれる種火が焚かれ、人々はこの火より火葬にする火種をもらう。ワーラーナシーは別名「大いなる火葬場」とも呼ばれており、年中煙の絶えることはない。なお、火葬場の写真撮影は厳格に禁止されている。火葬場を中心に町には巡礼路が設けられ、インドの多くの人々は一生に一度この巡礼路を歩くことを夢と考えている。
死者をガンジスの川岸で火葬に付し、灰をこの川に流すことは死者に対する最大の敬意とされ、 子供、妊婦、事故死、疫病死の場合はそのまま水槽される。
また信仰によりこの川で沐浴するために巡礼してくる信者も数多く、多くの沐浴場が設けられ、多くの信者が沐浴を行う。
その反面、毎年この川で溺死する人の数も多いという。
ベナレス1973 ガンジス川 撮影 西田圭介
8〜9月に集中するガンジス川の流量はゆったりとした流れに見えても建物の一部は水没し恐ろしい程のパワーを感じた。
先ず最初に目にしたのが沐浴場で釣りをしていた人の手元に水葬された赤子が流れてきて釣り糸にかかりそうになった時手元にあった小枝で軽々と遺体を避けたのを目撃した時、死生観の余りにも違いに言葉も無かった。

ベナレス1973 ガンジス川 撮影 西田圭介

左岸に積まれた荼毘用の材木。上の写真は小さい火葬場。船似よるロケハン後実際の火葬場に行った。
先頭はお坊さんのような人が何かを言いながら歩きその後に奇麗なサリーで包んだ遺体を太い竹で作った担架に乗せ、4〜6人の近親者が担ぎガンジス川の川岸まで運んで来た。
親族の一人が川岸に積まれた材木の値段交渉を延々とし交渉が成立すると、火葬場の材木担当が大きな木で組んだ天秤で材木の量を量る。
購入した材木は別の人間が河口(風上)に向けキャンプファイヤーのように井桁に組み上げていった。
その井桁の上にサリーで巻かれた遺体を乗せる。
先ほど先頭を歩いていた導師のような人が河口に背を向け井桁の前で読経をあげ、種火を風上の材木に移す時1メートル位の白布で風を遮りながら風量を調節しながら火をつけた。
火がつくと親族の一人は火葬している横で立ち小便をしたりガンジス川で手足を洗ったりしていなくなった。
その後は少年が担架に使っていた太い孟宗竹を火搔き棒の様にして遺体を焼いていく。しばらくすると細い腕が火の中に見えた時少年は妄想竹で手足を叩いて外し火の中に焼べた。
次に叩き割ったのは頭蓋骨だった。これは一撃で崩れた。その後何度も胴体を叩いていたが痩せた女性の遺体はなかなか崩れず妄想竹で火力が分散しないようにファイヤーを調節していた。とても正視出来ないと思っていたが淡々と火葬の様子を見ていた僕はそばにいたインド人にここを撮影しても良いか聞いてみたとたん
「俺はガバーメント・ウォッチマンだ。ここの撮影料は●ルピー必要だ」
金を払えば撮影させるのか?ガバーメント・ウォッチマン?どういう事?すると回りに次々と多くのガバーメント・ウォッチマンが集まり出した。
その時自転車を引いてきちんとした身なりのインド人が助け舟を出してくれた。そこで質問をした。
なんのIDも無いのにガバーメント・ウォッチマンと言っているがどういう事でしょう?人によって値段も違う、集まった皆に払えと言っているのは何故?
すると彼はそこにいたインド人たちと話をしていたが、撮影に金を払う事とガバーメント・ウォッチマンと言う資格についての話は自分には分からないと言って去った。去り際に彼の職業を聞くと教師で自転車を所有しているので生活は良い方だと教えてくれた。
生と死が同居するベナレス、輪廻転生、カースト・・・不思議の国インド

ベナレス1973 火葬場 撮影 西田圭介

 

1973年9月4日 ベナレス Part2

増水した長閑な田園風景

灰になりガンジスに葬られる

横に置いたカバンに何処からも手が

「Don't TOUCH !!!!!」

「ここに落ちていた。誰の物でも無い」

ベナレスの日常

インドで食事をしたりお茶をしていると何処からもなくカメラバッグに手が伸びてくる。最初は
「Don't TOUCH !!!!!」と大声を上げて
「人の持ち物に何するんだ!」といちいち抗議をしていたが、ある時
「ここに落ちていた。誰の物でも無い」
と平気で応えるのがインド。
その後伸びて来た手に気づいた時はハエを払うが如く振る舞い最大限のバリアーを張り巡らしていた。
手形を付けた牛の糞は何人も手を出さないが、珍しい物は見つけた者が所有者?まさかね。
牛に占拠されたベナレス迷路のレストランの食事中、明らかに店員では無いインド人数人が周りを囲んで
「これからガンガか? 俺はガイドだ。沐浴場や火葬場を見る船を案内できる」
「随分重そうな荷物だな、大変だろう。俺はお前の荷物の番人をする。どうだ」
そんな事、誰が信じるの・・・

ベナレス1973 ガート

雨期で大増水したガンジス川で川面に叩き付ける洗濯人。

ベナレス1973 ガンジスの火葬場

せっかくの教師の仲裁でも解決?説明がつかなかったガバーメント・ウオッチマンなる職業と撮影料。
現在ベナレスの火葬場だけは撮影禁止のようだ。
私の左奥のインド人は火葬人。右手後方が見物人とガバーメント・ウォッチマン達。
高校の同好会仲間が贈ってくれた武運長久のハチマキで記念写真(意味不明?北の海女じゃありません)。
ここに座って3時間近く火葬の一部始終を見ていた。
雨期のガンジスは増水しており沐浴場の階段(ガート)の一部は水没していた。
沐浴の後に洗い終わった着衣や下着を火葬の火で乾燥させたり用を足す行為は全く理解出来なかった。
右隣は森重さん、撮影は奥様。
北欧辺り?で高感度撮影したフィルムを一度巻き戻した(増感現像のため他のフィルムと混同しないようにしていた)ものを誤って再度カメラにセットしたためベナレスの火葬現場を二重露光させてしまった不思議な記念写真。注意してみると火葬用の薪を計る3本櫓の天秤や遺体を叩き割る孟宗竹等が映っている。

 

 
1973年9月5日 ベナレス IC252/10:45 → 11:45 カトマンズ /Hotel

ロイヤルネパール機の窓から見えた

カトマンズ空港の滑走路は1

滑走路の端に黒こげの旅客機が !

ベナレスからカトマンズへはネパールの国営航空会社ロイヤル・ネパール・エアライン(現在はネパール・エアライン)を利用した。
その頃のマイブームは、訪れる空港の滑走路が何本あるかが楽しみだった。カトマンズは国際空港だから滑走路は2本のX字と期待して、上空から見ると滑走路は1本だった。
無事ランディングして空港ロビーに向かって移動中にぼんやり窓外を見ていると滑走路の端に黒こげの旅客機があった。
何の事故だったのか検索してみたがヒットゼロ。あれは幻だったのか・・・生きてて良かった。
森川メモのおすすめムスタング・ホテルに直行した。現在はMustang Holiday Innとなっているホテルの場所が記憶と重なる。現在のレートも安くて良さそうだ。
インドからネパールに入ると何故かほっとするのは何故だろう?チベット仏教、ヒンドゥー教が同居しているネパールの客引きや土産物屋の会話に嘘が少なく普通に会話できる安心感と思った。
目玉が睨む別名「目玉寺」モンキーテンプル(Swayambhunath Monkey Temple)ではマニ車と呼ばれるガラガラを回しながら時計回りに回ると長いお経を唱えた事になるそうで興味深い写真を何カットも撮影したがフィルム装填ミスで目玉写真無し。残念 !

カトマンズ1973 撮影 西田圭介

 

デリーからジャイプールへの飛行はたった36席の機体だったが下のジャイプール空港(Google earth 2013)は変形X字のダブル滑走路があるが当時は1本だったはず。
ジャイプール空港
アグラ空港(Google earth 2013)はX字のダブル滑走路。
アグラ空港
カジュラホ空港(Google earth 2013)は1。ここが一番小さい空港だった。
カジュラホ空港
ベナレス空港(Google earth 2013)は大きい1。

ベナレス空谷

今は大きくなった1。カトマンズ空港(Google earth 2013)

カトマンズ空港

 

 

森川メモ ■ ネパール編 

カトマンズ
安いホテルはいっぱいあるが、大変好ましいチベット人経営のムスタング・ホテルはシャワー室も各階にあり、ボーイがチップを要求せず親切。
1泊2人部屋35ネパール・ルピー(2人で)。
空港にこのホテルの客引きが来ており泊まる場合はホテルまでタダで運んでくれる。
空港→町、タクシー6〜12ネパール・ルピー(1ネパール・ルピー=22〜25円)。
このホテルの朝食にフレンチトースト(厚いトーストを玉子液に浸して焼いたもの)を頼むと大変旨い。
昼食、夕食は30分〜1時間前にオーダーするとホテルの奥さんが割合安くて旨いチベット風中華料理を作ってくれる。
ボイルドMOMOは蒸し餃子で肉が多いのでガーリックやベジタブルを入れてもらって食べた。フライドMOMOは焼き餃子。チャウチャウ(chow chow)は焼きそば。ツッパは焼きそばとスープのあいの子。
もう少し金をかけられるならシラズと言うチベット・レストランがエアー・インディアの斜め向こうにあり、チキンやスープも旨い。
カトマンズには貸し自転車屋があり1日3ルピー(約6時間)で借りれる。これは便利。
近くにパタム、バドガオンと言う古い町がありパタムは特に近く30〜40分で行ける。バドガオンはバスで30分くらい。
土産屋でヤミドル交換が出来、良いときは1$=11〜12ルピー。普通向こうの言い値は1$=9〜10ルピー。
ネパール料理のレストランはあまり無く、チベット料理が旨い。
この町でも物を買う時は必ず値切る事。
タバコは高いのでインドで買っておく事。安物はまずい。
入国時にカレンシーカードをくれるが出国時に見せろと言われなかった。写真はパスポートのようなカレンシーカードとネパールガイド。

カトマンズ1973 カレンシーカード

 

森川さんの手紙 第4弾 

アフガニスタン、インド、ネパール

買い物の技

ペルシャ語、ヒンドゥー語 会話集

アフガニスタン、インドで土産物を買う時に役立つペルシャ語とヒンドゥー語の数の読み方を少し書いておく。
イランもペルシャ語だがアフガニスタンと少し違い、土産も高いのであまり使わないと思う。日本人もヨーロッパ人も現地の言葉で買い物をする奴には会わなかった。
これだけ覚えておけば値切り易いし、あまりぼったり、馬鹿にされたりしない。

アフガン・パルシャン(ルは促音)

1. ヤク 

2. ドゥー 

3. セイ 

4. チャル 

5. パンジュ 

6. シャシュ 

7. ハフトゥ  (語尾のトゥは伸ばさない)

8. ハシャトゥ (語尾のトゥは伸ばさない)

9. ヌー

10. ダー

11. ヤズダ

12. ドゥーアズダ

13. セィズダ

14. チャルダ

15. パンヅダ

16. シャンズダ

17. ハフダ

18. ハズダ

19. ヌァズダ

20. ヴィスト

21. ヴィスト・ヤク

22. ヴィスト・ドゥー

・・・

30. セイ

31. セイ・ヤク

40. チル

50. ピンジャ

60. シャシュタッド

70. ハフタッド

80. ハシュタッド

90. ヌワアード (ワは促音)

100. サッド or ヤクサド

173. ヤクサド・ハフタッド・ドゥー

200. ドゥサッド

300. セイサッド

1000. バザ−ル or ヤクハザール

1255. ヤクハザール・ドゥサッド・ピンジャ・パンジュ

2000. ドゥ・バザール

※ イラン・パルシャンでは 2.ドゥーズ、15.ボンゼーダ、16.シャンゼーダなど少し発音が変わり、しかもリアルの他にトマンと言う単位を良く使う。
1ヤク・トマン = 10ダー・リアル なので要注意です。

 

インド ヒンドゥー

インドの数字は買い物時は5.10.20.25.など区切りが良いので詳しい事は忘れた。現地でインド人に教えてもらう事。
1〜100まで読めない奴も多い。

1. エク

2. ドゥ

3. ティン

4. チャル

5. パンチ

6.〜9.

10. ダス

20. ヴィス

25. パッチース 別の言い方で25パイサの事をチャルアナ(チアナ)と言いよく使う。
         アナは昔の金の単位。だいたいチャイ1杯、チャルアナが多い.

30.

40. チャリース

50. パッチャース

ネパール語はヒンドゥー語と大変似ており数字はほぼ同じ。ただ2はヒンドゥーはドゥー、多分ドゥーズ。ヒンドゥーの25パイサ、チャルアナはインドだけ。

 

How much?  ▶ アフガン / チャン・アフガニ? 

        ▶ イラン / チャンダ?

        ▶ インド / ケトナ or ケトナ・パイサ?

        ▶ ネパール / カティ or カティ・パイサ?

トイレ    ▶ アフガン / タシュナブ 

       ▶ イラン / 多分同じタシュナブ、トワレで通じるようだ。

森川メモ1973

レター用紙にびっしり書き込まれた森川さんのメールは17枚に及んだ。
このお陰で見知らぬ中東・インドを含めたバックパッカーの旅を快適でアグレッシブに過ごせたガイドだった。

 

森川さんの手紙 P.S.

バックパッカーの心得

追伸編

▶ヨーロッパのユースはドロボーが多いのでいつも鍵を持って行き、ロッカーに荷物を入れておく事。
 鍵のかからないロッカーが多く、お金を払えば南京錠を貸してくれるユースもある。
 日本人は物持ちが多くカメラを盗まれる奴が多い。しかも荷物全部を盗まず中の1つか2つを盗るので後で気づくケースがある。
 ユースの中ではカメラ等を他人に見せない事
▶フランス人ヒッチハイカーは特に金が無く盗みや物乞いをやり、日本人は人が良いのでタバコや金をせびられるが絶対にあげぬ事。 癖になる。
▶ヒッチして車に乗った時、荷物を車内に置いたまま車を離れトイレに行っていると、そのまま走って逃げるドライバーがイタリア等 に多い!
▶車関係
 モロッコ、アルジェリア、チュニジアはカルネが必要なく国境で通関手続きが可能だと分かった。
 この地方では薬缶は駐車場に置かないと盗難の可能性が大きい。トルコも同じ。車内には貴重品を置かぬ事。僕らは長時間駐車する ときはハンドルとドアの把手に鎖を巻き付けて鍵をかけている。
 車購入の場合はグリーンカード(インシュアランス、強制保険)をヨーロッパで使用する期間だけ契約する。
 1週間、1ヶ月、2ヶ月〜6ヶ月、1年間等がある)。これは車検証と共に持っている事。売買する時に必要な証書も有り。
▶ヨーロッパではオートキャンプ場が完備しているのでフランス製のキャンピング・キャラバニング・ガイドブックを買うと便利。
 たいていの国で売っている。(※多分ミシュランガイドの事)
▶日本でもヨーロパでもヨーロッパ・ユースガイドが買えるので持っておく事。

森川ワーゲン1973 撮影 西田圭介

1973年6月20日、フランクフルト・アン・マインの日本航空事務所で落ち合った世界一周中の森川さんと新車VW。
これに2人用のテントほか色々積んでいた。
結局何処で売却したのか今度会ったら聞いておこう。

 

1973.09.08. バンコク/Hotel

バンコク国際空港(ドンムアン)の

入国の手荷物検査官にストップをかけられ

別室に連れて行かれた

アテネ以来ニコン2台にレンズ3本とストロボだけなら気にする重量ではなかったがストックで購入したハッセルとレンズ4本にマガジン他が意外にかさばりバックパックと機材を会わせると相当な重量オーバーだった。
その為機材は全て身に付けて搭乗していたので出国時のボデーチェックは毎回ドキドキだった。

デリーで過激派と間違われた時も全身に爆発物を巻き付けているテロリストと変わらないのでカービン銃片手の兵士に両腕掴まれた時は語学力的にもマックス慌てた。
それに比べ入国審査では法律違反も無いので何の心配も無かった。

唯一の心配はインドへのカメラ持ち込み制限がたった1台のみの為何か言われたらボンドしようと思っていた以外何事も無くバンコクでも観光ビザを取得できた。
と、思っていた。
Baggage Claimのターンテーブルで自分のバックパックをピックアップして荷物の内容検査台に並び順番を待っていた。
自分の番になりテーブルに進み審査官の指示でバックパックのひもを緩めていると2〜3人の審査官が僕の周りに集まって来た!
「入国審査事務所でお話したい事があるので、こちらに来て頂けますか?」
「何か?」
「こちらにお願いします」と審査官に前後を挟まれて長い廊下を歩かされ、入国審査官事務所の一室に通された。
少し大きめのデスクと来客用の椅子があり管理職風の男が
「お前は男前なのになぜそんな汚い格好をしているのか? この空港には私も利用している腕の良い理髪店があるからもっと奇麗になれるぞ」
とか、たわいのない会話をしだした。

バンコク1973 撮影 西田圭介

荷物内容検査のカウンターを離れたとたん他の職員が僕のバックパックを抱えて反対方向に歩いて行くのを見たので、間違い無く麻薬や違法薬物所持の尋問だと思った。
サングラスをかけてウェストにはフランスレジスタンスの手榴弾ベルト巻いて、踵に麻薬キャリングケース加工も可能なアフガンブーツ履いてアフガニスタン、インド、ネパールと回って来るヒッピーもどきなら何処かにハシシケーキの欠片やグラス(マリファナ)の残りが出て来る可能性が高いと思うのは仕方が無いが、その手の誘惑を避けて旅を続けたので万が一にも拘束される事は無いと思って検査官と日常英会話を楽しんでいた。
4〜50分程すると若い検査官がバックパックを持って入室して来た。これで開放だ!楽しい経験だった。
「バンコクは良い町で、上手い床屋もいっぱい有るからぜひスッキリして良い旅を」と念を押されて事務所を後にした。
美食の国タイで何を間違えたかマレーシア料理店で料理のチョイス・ミスでその晩は大失敗のバンコク(晩酷)だった。

バンコク1973 撮影 西田圭介

ムエタイは今も昔もタイの国技。スケジュールがあればぜひ見たかった。

 

1973.09.09. 香港/Hotel

残った全財産をつぎ込んでハッセルを追加購入

その晩バックパックを整理し始めたとたん

「げっげぇーッ!」

貧乏旅行最後の日は香港と決めていた。
ハッセル購入はスエーデン本国と免税王国香港とどちらが安いかなどの情報は当時皆無だった。しかもコピー商品であふれている香港でパチモンを買ってしまうリスクだけは避けたかった。
ホテルに着くと早速ファインダーや交換マガジンなどのアクセサリを買いにネイザンロードのカメラ屋探しに出かけた。
カメラ屋はたくさんあったがニコンやハッセルを扱っている店は少なく、ましてやアクセサリを扱っている店を見つけるのに時間がかかった。ようやく見つけたお店で
「ハッセルブラッドのマガジン扱ってますか?」と聞いても有りますよと言うだけで全く対応してくれない。
そりゃこんな格好のヒッピーにカメラなんぞ見せたら目を離したとたんに盗まれるといった感じだったので107日間毎日使いこんで日焼けしたバッグからカメラを出したとたんに店員の態度が変わった。
「お客様何をおさがしですか?読点は正規代理店で免税店ですのでご安心してお買い物できます」と笑顔外交がはじまった。
手元に残ったドルのトラベラーズ・チェックで目一杯必要機材を買った。
香港1973 撮影 西田圭介
九龍の路地裏を徘徊した後、夕食は安くて旨い中華料理を食べてホテルに戻った。
いよいよ明日は日本。
最終パッキングをするため部屋でバックパックの中身を出し始めた時に何か小豆大の虫がカーペットの上を走った。
「ヤバイ南京虫だ!」
あわてて追いかけて踏みつぶした。
多分アフガニスタンで買ったオオカミのベストかアフガンコートに紛れ込んだ南京虫ごと空輸してしまった。と言う事はまだこのバックパックに残りが潜んでいるのか?でもバンコクで麻薬Gメンたちが隅々まで検査した綺麗なバックパックのはずだったが、全ての衣類や土産物など全てを裏表隈無く調べているうちに深夜になり作業終了。

 

1973.09.10. 羽田

108日間、21ヵ国75都市を巡り

羽田の赤電話から帰国第一声は

「大きなバケツとクレオソート」

ついに帰国の日になった。5月26日に横浜港からバイカル号に乗船して世界を目指した「写真旅」第1章も羽田空港到着でひとまず撮了だ。
今では見かけないが当時世界の街角で大きな秤で体重を計る商売が香港にもあったが、ホテルでコンシェルジュに頼んで事前にきっちり20㌔を超えないようにパンパンのバックパッッキングをした。
香港出国ゲートでもニコン2台、ハッセルを首から下げ特注ジャケットのポケットに全ての交換レンズを入れ、20㌔未満のバックパックと軽くしたカメラバックをかかえ問題無く機上の人となった。
当時はボディーチェックだけだったから検査官がビックリするだけで笑って済ませたが、最近の手荷物検査はXレイやサイズ以外も厳しい航空会社もありこんな事は笑い話にもならないはず。
香港のホテルで見た南京虫が頭から離れずショックだったため、手荷物検査を終えて入国ロビーから実家に赤電話した。
「中近東・インドを廻って来て荷物に南京虫が入り込んでいる可能性があるので、クレオソートと家中のバケツを用意して欲しい」と頼んだ。
帰宅しても玄関から入らず庭に用意した2~3個のバケツにドボドボとクレオソートを入れその場でバックパックに詰め込んだ土産を検品しながら汚れ物や着衣をバケツに押し込み入浴した。
風呂場で最後のひげ面を撮影し、ヒゲを剃った記念写真を撮った。
日本人は風呂だな!
写真は北欧で撮影したものと誤って2重露光になった妙なセルフ写真。

香港1973 撮影/西田圭介

搭乗案内のフォントが違和感マックスの香港空港
世界一周写真旅1973 帰国 ひげ剃り

世界一周写真旅1973 帰国 ひげ剃り

 

総集編の世界セルフポートレート動画、乞う御期待!近日アップロード予定なり!

2014.03.05.

旅程などをメモした’ 73文化手帳が出て来た (^_^)

持ち出したフィルムは379本と判明

旅程の記憶違いも随所にあり、相当箇所修正しました。
なかでもスイスのツェルマットで、1973.0.08.朝一番のゴンドラでナショナルチームと一緒にマッターホルンのスキー場に行った後ツェルマットに延泊し翌朝カンヌに移動したと思っていた。
25歳のバックパッカーはとはいえ1泊分浮かす移動はパリ→マドリッドとかデュッセルドルフ→ローマなど長距離移動が定石だが、手帳のメモによれば夕方ツェルマットを出発、一旦ミラノに入り全欧空手合宿の朝練取材のため明け方カンヌ入りという無茶なスケジュールだった。
中東アフガニスタンのカブールからインドネパール方面の空路移動も朝一番のフライトで移動し翌朝また朝一番で移動と言うスケジュールだった。もっとゆっくり移動したかったがカブール到着時点で帰国のタイムリミットは過ぎていたため仕方がなかった。
撮影の為にバックパックに詰め込んだKODAKカラーフィルムはブローニーサイズのEX120本、EHB20本、EH60本、35ミリサイズ36枚撮りEX40本、コダクロームK2(ケーツー)40本、そして取材用モノクロフィルム35ミリTRI-X手巻き9缶。
30年以上フイルム巻いていないので記憶も無いがコダックの100フィート巻のフィルムの缶にたしかパトローネ詰めのフィルムが11本入れられて一缶だったはずでトライXは合計99本。
フィルム本数合計で379本だけでも相当な嵩と重量だった。

73文化手帳 旅スケジュール

 

 

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