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1973年8月30日 カブール 08:00/FG308 → 11:00 デリー/Hotel

昼前の11時デリー国際空港

Ariana Afghan Airlinesの白いドアが開いて

タラップに一歩踏み出しただけで

ドーッと汗が噴き出した

この季節はインドではまだ雨期が明けていない。
デリーの国際空港に到着したこの日は快晴で助かっと思ったがドアが開いてタラップの最上段で直射日光を浴びたとたん汗が噴き出した。空港施設はエアコンが効いていたが外気温と湿度は相当高かった。
入国審査には所持外貨(入国の時にくれるカレンシーカードは通貨交換証明書で、外貨ををいくら持ち込み、銀行でいくら交換したかなどを銀行で全て記入し出国の時に必ず提示する。/ 以下の森川メモ参照)や国外製品などの申請が必要だった。
カメラの台数やフィルム制限(カメラ2台フィルム20本足らず?)もあると聞いていたがカメラ関係は全てジャケットの内側に下げていたので取り敢えずOKだったがが、カブールで買った毛皮のコートがチェックされボンドする代わりにパスポートに何やら書き込まれしかもコートの内側の5センチ角のタグにはスタンプとびっしりヒンドゥーで書き込まれ本人のサインもあった。出国する時イミグレーションでチェックを受けて持ち出さないと課税されるようだった。
無事21日間のビザも取れついにインド上陸。
インド1973 持ち込み製品 パスポート
上の画像がパスポートに書かれた税関のメモ。
 
 
 

森川メモ インド編

インド/ニューデリー
我々は知り合いの家に泊まっていたのでよく分からないゲストハウスは皆がよく泊まるところ。
多分カブールからバスに乗ればどこか良いホテルの前まで連れていってくれると思うが、一応カブールのホテルでインドから来た人に情報もらっておく必要あり。
インドではGovernment touristバンガローが安くて安心。
  食べ物
 
 
 
1973年8月31日 デリー

デリーの空港ゲートを出ると

料理に覆い被さるハエのように

突然客引きが集まってきた

世界一雑然&渾然のエナジーが詰まった街、デリー国際空港の出国ゲートには人があふれていた。出たとたんにインドの料理に覆い被さるハエのように突然客引きが集まった。
スリに注意しカメラバッグのチャックを確認しながら先ず身構えた。
「ホテルは決まってるか?」
「俺の車は安くてデラックスだ!」
「マイリキシャはヴェリーチープ!」
「良い宿一杯知ってる。紹介するよ」・・・機関銃の様に発砲されるインディアン英語は僕の耳にはとても聞き易い英語だった。少なくともイギリス人の英語より聞き取り易かった。
インド国内旅行のパンフやマップ集めにコンノートプレイスのガバーメント・ツーリスト・オフィスに行くため、中から善人系顔の人を見つけて
「ニューデリーのコンノートプレイスまでいくら?」
「そりゃ高!すぎる」すると横から兄ちゃんが
「俺の車なら◎ルピーだ」
リキシャなら2キロ1ルピーが相場らしい。何キロあるか分からないがそれでも高いので半値半額から交渉開始。
なんだかんだと交渉合戦しながら僕は言った。
「How much Your last PRICE ?」困った振りをしておじさんが妥当な金額を言った。
「OK ! じゃ出発」と言っておじさんの後に付いて行った車にはドライバーがいた。
おじさんはこの車のオーナーで助手席に座って後ろ向きにいろいろガイドしてしてくれた。
オートリキシャじゃなかったので高かったんだ。メーターを倒さないのでチェックを入れると
「フィックスプライスだからOK !」と言いながら目的地まで早口で話し続けた。

デリー1973 森川メモ

デュッセルドルフで聞いた森川さんのインドの歩き方メモ。
自転車、リキシャ(人力車)は一応半分に値切る。2km=1ルピー(30円位)がインド人の相場と教わった。
アメリカ、ヨーロッパのバックパッカーは日本人に比べると相当な倹約家なので日本人はカモだった。
30分以上も交渉して決めた差額は日本円にすると5円以下でガックリ疲れる事も多かったが、インド旅行者価格安定の為に毎回値切り交渉の連続はその後日常になった。
もちろん現地インド人同士でも値切りは日常茶飯事だった。
国内便のフライト確認のためコンノートプレイスの近所にあったエールフランスのデリー支店(Scindla hous.Janpath)シンディア・ハウスに行った。
カウンターから奥のオフィスに通された時サリーを着た女性が床の雑巾がけをしていた。女性が机の下を掃除し始めても椅子をよけもせず、ターバンを巻いた男は微動だにせず仕事を続けていた。
女性は男の足を避けながら大きなデスクの下にもぐって床を拭き続けていた。普通仕事時間に床掃除はしないと思うが、掃除の方が来たらちょっとは避けると思うが、これってカーストのせい? 今でも分からない。

デリー1973 森川ガイド

森川ガイドのデリー見所。
インド1973 デリー ジャイプール アグラ カジュラホ パンフ
デリーのガバーメント・ツーリスト・オフィスで入手したジャイプール、アグラ、カジュラホ、ベナレスのパンフとマップ。
何ともいえない色合いの総天然色印刷なり。

 
1973年8月31日 オールドデリー

一見のバックパッカーにはオールドデリーは

秩序?混沌?瞑想?何が真実?

蒸し暑いラビリンスそれともカオス?

大都市は苦手だ。
美術館、博物館以外は何処の国も大都市はノイジーで人が多く物価が高い。
リキシャ、自転車、牛車、人の多さがトラフィックを一層悪くし、雨期の湿度の高さと極彩色がゴッチャリトーンを複雑にしている。
生きているのか死んでるのか、瞑想中なのか浮浪者もどきの聖人もいて街を一層不可解にしていた。たくさんの選ばれた香辛料を厳選し長時間かけて作られるカレーのような味わい深い街だ。
ベナレスなど他のインドの過密都市特有の味わいも、カレーのレシピと同じで香辛料の配合や使う具材によって全く違った表情を見せるのが面白い。
しかもオールドデリーのゴッチャリした味わいは見えない活力を与えてくれる。

オールドデリー1973 撮影 西田圭介

インド1stカットは牛車。牛は表通りでも路地裏でも何処にでも出没した。

オールドデリー1973 商人の昼寝 撮影 西田圭介

シェスタの国より面白いほど堂々と寝ている人が多いインド。路上で死んでるのか寝ているのか分からないほど多くの昼寝?ホームレス?聖者?瞑想?
中近東を経てインドに向かうコースだったので、体がうまい具合に順応して体調不良にもならず楽しく旅を続けられたが、文明国?からいきなり入国する旅行者はカルチャーショックと食事で下痢に悩まされる人が多い。
顔にハエが止まっていても気にならない国民性は食べ物にハエがたかっている位は当然で気にもせず食事する。インドのハエは食べる前に手で追い払っても一瞬いなくなって速攻集まってくる。食べ物を口に運ぶ間のスプーンにもハエが止まるのはさすがに閉口した。
必死に防御策を考えてもアイデアは浮かばない。
調理場を見たら不潔とか清潔以前の状態の店が多くインドでは調理場に背を向けて座る事にしていた・・・
そこでどうしても気になる場合は食後だと間に合わない感じがしたので、正露丸を飲んでから食事をした。
正露丸臭い口の中が一口二口カレーを食べるだけで最高に旨かった。
森川さんのアドバイス

インドで生水は絶対飲むな!

ミネラルウォーターも勝手にボトリングしているので要注意!

コーラに入れるアイスは生水と同様に危険!

田舎では生卵は絶対食うな!

結核の人が街中で排便しそれを啄んで育つ鶏が病気になっている可能性が大だそうだ。
水分補給はバックパッカー必需品の棒ヒーターをマグカップに差し込んで必ず湧かしたボイルドウォーターを飲むようにしていた。
念のためどんな泥水も濾過出来る野戦用フィルターも持っていたがこちらは一度も使わなかった。
初代のTOTOウォシュレット以来毎朝お世話になっているが、インドで始めて用を足した時に尻を手洗いする事にとても躊躇した。いざやってみるとこれほど気持ちがいいものは無かった。
 

 

1973年9月1日 デリー IC024/07:10→ 08:00 ジャイプール

ジャイプール行きの小さな飛行機を目前に

カービン銃を手にしたインド兵士が

私の両腕を掴んで

「Get off !」

日本赤軍によるドバイハイジャック事件が7月20日に発生していた。
前年の72年5月30日にはイスラエル・テルアビブ空港で日本赤軍と名乗る日本人が乱射事件を起こしていた。
同じ72年2月19日〜28日にかけて起きた「あさま山荘事件」は朝日新聞と私が代表取材で催涙ガスで眼も開けられない現場を撮影していた。
インド兵が何を言っているのか一瞬分からなかった。
その日のデリー国際空港は朝からピンカンの酷暑だった。
空港の待ち合いロビーでアナウンスがあり何人かの乗客とバスで目的の飛行機まで移動し、後方にあった数段のステップを上がるとたった36席の飛行機だった。
席について離陸前のトイレに入るとボットン式のトイレで中の汚物が見える代物だった。
席の安全ベルトを締めて待っていると
「エアコン設備不良のため再度ロビーに戻って下さい」というアナウンスがあり20名程の乗客はゾロゾロとバスに乗った。
2時間近く待たされて再度アナウンスがあり、先ほどの乗客と一緒にバスに向かった。
乗客と一緒にバスに乗って待っていた時、カービン銃を手にした兵士を乗せたジープがバスに近づいて来た。そして何名かがバスに乗り込み何と僕の両腕をがっしりと掴み、言った。
「Get off !」
バスの中程に立っていた僕はあっけにとられたまま、出口の方に引きずり出されていた時
「彼は怪しく無い!ずっと我々と一緒にいた」
と白髪のインド人が言ってくれた。
その後機関銃のようなインド英語で兵士と他の乗客との会話の後、両腕のロックが解除された。
連合赤軍のメンバーと間違われたって事だ。
この格好じゃプレスカード見せても信用されない。
インドの乗客も整備でさんざん待たされてまたディレーは止めて欲しかったのかも。

インディアンエア1973

たった36席のインディアン・エアのボーディングパス。調布飛行場発の定員19名よりは大きい。

 

 
1973年9月1日 ジャイプール

雨上がりのジャイプール空港

タラップを降りると目の前に

朝から飛行機見学に大勢の人が集まっていた

着陸直前に機内から外を見ると細い滑走路が1本見えた。
ランディングすると滑走路脇の草むらから子供達がモコモコ起き上がって手を振っている。
機体が停止して外に出るとFire Stationの前にも子供達の親がじっと機体を見つめていた。子供が滑走路横切ったりしないのかと心配になったがこれがインド。この時代の無料で楽しめる娯楽なんだろう。

ジャイプール空港1973 撮影 西田圭介

航空会社のバスで市内まで行き、リキシャ(自転車で運ぶ人力車)に乗り換えて風の宮殿に向かった。
「日本人だったら、俺の友達Mr.田中を知ってるか?」
「田中さん・・・?」
「知ってるはずだよ。これ読んで」
と言って荷物箱から丁寧にたたまれた紙を渡された。そこには
このリキシャのおじさんはいい人で料金も安心価格ですが、お土産屋に行きたがる傾向があります。もし彼のビジネスにつき合う時間があれば良い物に出会えるチャンスがあるかも。
と書いてあり,サインもあった。
面白いのでOKサインを出すと、顔をクシャクシャにして喜んだ。
シティーパレス 孔雀門1973 撮影 西田圭介
リキシャおじさんにとってこのレターは魔法のレターだ。Hawa Mahal (風の宮殿)や City Palace (上の写真はシティーパレスの孔雀門)の撮影後おじさんが最初に連れて行ってくれたのは宝石屋だった。
カブールから一緒に旅をしていた森重さんが宝石に興味があり、僕は大学の先生でちょっと宝石が分かると言う設定で1軒目に入ったが見るからに安物のお土産屋レベルだったので
「この店は駄目だ。きちんとした店に案内してくれ」と思わず口がすべった。
2軒目も大した店ではなかったので直に店を出た。
そもそも買う気の全く無い3人だったが3軒目で若い店員がキャッツアイ系の石を出してきた。
光が今ひとつだったので
「これは安物。これは価値がない!」と言うと奥から店主が出てきて
「本当に石が分かるのか?これはどうだ」
「彼は大学で宝石の研究をしている」と森重さんが応えた。宝石なんて全く分からないが、宝石を扱っていた叔母がよくはめていた石はもっとシャープな光だった記憶があったので
「この光はアンシャープ。もっとエッジのたった光を見たい」すると金庫を開けてまた一つ持ってきた。
「これは光のラインが曲がっている」熱くなってきた主人は
「これはこの店で一番だ」
と言って見せられたグレー系ののクリソベリアルキャッツアイはあまり大きくは無かったが真っすぐにラインが光りコントラストがある良さそうなものだった。
提示価格は覚えていないが森重さんが
「今晩良く考えてまた来る」と言ってようやく店をでた。ほっ!

ジャイプール1973 撮影 西田圭介

 
 
1973年9月1日 ジャイプール Part 2

ハンドメイドの絞り染め(Tie-dye)シルク・サリーと

ラジャスタン・ドレス(小さい鈴がボタンやアクセントになっている)を

一口5万円のマイクロファイナンスの

利子代わりのお土産にした

宝石屋の後、リキシャ君にサリーやラジャスタンドレスを現地価格で販売しているお店を希望したが、相変わらずチープな土産屋に向かうためジャイプールで一番大きい店に行ってもらった。
森川さん情報ではガバーメント・エンポリウムで購入すればタイ&ダイ(絞り)の服が50ルピー、ラジャスタンドレスで50ルピー。同じくシルク・サリーは90〜150ルピー。コットンならば30〜50ルピーが相場と聞いた。
その店は辻が花を扱う京都の大店風で裕福そうなインド人母娘などが試着していた。
自分用に小指の爪ほどの大きさで細かい細工を施した小さい鈴がボタンになっている男用のロングシャツ?ドレス(9月2日アグラ Part 3のセルフポートレート画像)やシャツを何着か買った。
シルクのサリーで草木染めのタイ&ダイ(絞り)も見せてもらった。
値段とクオリティーは比例してどんどん高くなり、気に入ったサリーはとても高く、絞りの糸はほとんどほどかれてない代物だった。ほどかれた一部を見て購入を検討するわけだが、一般的なサリーはおよそ幅120センチで長さが6メートルほどあるものが、一針ずつ絞られ手の上に乗るほど小さくなっておりケミカル・ダイと違った自然の色合いが何ともいえなかった。
一般のインド人相手のように値切り交渉を試みるが店主の佇まいがまるで違い値切っている自分が矮小に見えた。高級品はあまり安くならなかったが一般的なサリーは割り引いてもらえた。茜紫色のサリーは店主曰く
Vegetable dyeing &Verry handiwork !!! Not chemica dyeing !!!l! 
確かに。このサリーは帰国後、糸を解くとドンドン広がって伸ばしたものを仕立て屋さんで帯に変身させた。
大事にし過ぎてあれは何処にあるのかな?

ジャイプール1973 サリーショップ 撮影 西田圭介

森川メモ1973

 

 
1973年9月1日 ジャイプール Part 3

夕食後のツーリスト・バンガローの

ベンチでぼんやりしていたら女性が近寄ってきて

「これの使い方ご存知?」と目の前に差し出したモノ

薄暗い通路を歩いてきたのは二人の日本人女性だった。
ヨーロッパでは女性のバックパッカー(アメリカ人がほとんど)に結構出会う事はあったが中近東以降久しぶりの日本女性だった。
彼女達はW大学生で好奇心を抑えられず物は入手したものの、使い方が分からなかったらしい。
差し出された手には茶色の小さな棒状の物があった。
「ああ、それか」
この頃の僕はだんだん得体の知れないバックパッカーの風貌に近づいてしまった?ため、彼女達がわざわざ聞きに来たのも良く分かった。
しかしこの手のものはコペンハーゲン、アムステルダム、デュッセルドルフなどのユースや街角で目にし好んでやる若者も多く、自分の年収以上をつぎ込んで買った大事な機材がある限り、記憶が消える程のトリップを楽しむ余裕は全く持ち合わせていなかった。
が、何でも知りたがる性格で充分な取説だけは知っていた。
「デュッセルドルフで見た麻薬撲滅キャンペーンポスターのコピーに『最初は好奇心だった』とあったし、ここはネパールほどフリーではないと思うし捕まるよ!」
それでも経験せずには帰国できないと食い下がるので、独特な香りが部屋に残るので窓は全開にしていた方が安全と伝え、持っていたタバコの紙巻き具と銀紙と100円ライターで用意してあげた。
この頃の経験が買われて帰国後この手の取材をよく担当した。
若者を中心にアート系や音楽系の人が中毒になり入手が楽だった(?)ニューヨークにまで渡ってますます悪化して廃人同様で行方不明になった友人もいた。あのポスターのキャッチ『最初は好奇心だった』は良いコピーだ。

ジャイプール1973 撮影 西田圭介

 
 
1973年9月1日 ジャイプール IC482/19:15 → 20:05 アグラ /Hotel

インドでは牛の糞は

見つけたもん勝ちの個人資産

子供達は牛の後を追って先を争って拾い

壁に押し付けて手形を押す

タージ・マハルを訪れる前にムガル帝国3代皇帝、アクバルが建てたアーグラ城塞に行った。
途中の街の土壁に多数の手形が押された粘土みたいな物についてリキシャのお兄さんに聞くと、これは牛の糞で壁に押し付けて乾燥させ燃料にし手形が持ち主のIDで所有者の判別になるらしい。
それで牛車の後を子供がうろついて新製品が出たとたんにあっという間にまとめて壁に可愛い手で押し付けていた。(写真下)

アーグラ1973 牛糞 撮影 西田圭介 

 

どんな路地にも入ってくる牛飼い。

アグラ1973 牛と子供 撮影 西田圭介

リキシャに付いて回る子供たちは僅かな現金収入を得る為に笑顔外交と出来売る限りのサービスを言い続けていた。

アーグラ1973 自転車と子供 撮影 西田圭介

 
 
1973年9月2日 アグラ  

レッドフォート(Agra Fort、アグラ城塞)で出会った

巨大な落書き

デリーからアグラへの遷都に伴って皇帝アクバルが赤砂岩で作った城壁の色から赤い城とも呼ばれるアグラ城塞で出会った巨大な壁一面に書かれた落書きはアートのように見えた。
バチカンのサンピエトロ寺院をはじめ世界遺産級の建築物の柱の影や窓枠等に落書きは何処にでもあった。
一番高い所のサインは3m以上もあり、レッドフォートの壁一面に書かれた落書きは群を抜いて巨大で時間を経た大作だった。
今回の旅で一番印象的な写真をこのブログのイメージ写真に使用した。下の写真はいつものセルフポートレートとカラーで撮ったモノトーンの壁。

アグラ1973 red fort 撮影 西田圭介

アグラ1973 red fort 撮影 西田圭介

もう一つのWall Artがこれ。「牛糞と手形」

アグラ1973 牛糞の壁 影 西田圭介

タージ・マハルの夕景。

アグラ1973 タージ・マハル 撮影 西田圭介

 

 
1973年9月2日 アグラ 

広場に巨大テントと群衆

あっ!コブラ使い

思わずリキシャを止めた

巨大なテントはサーカスだった。
テントの前で噂に聞いたコブラ使いが商売を始めようとしていた。
これは見なきゃと思いリキシャを止めて輪の中に入るとコブラに見えたのは布をコブラ型に畳んだおとりコブラの前で笛を吹いていた。
取り敢えずの客寄せタイムだと思いしばらく待っていたが客足が悪くタバコを吸ったり、始める振りをするだけなのであきらめた。
リキシャに戻るとそこにサモサ(ジャガイモを餃子の皮風のな物で巻いて揚げたもの)の露天が目に入った。
繁盛しており食べたい誘惑にかられたが衛生的とは言いがたい状況で相当悩んだ。
そうだ正露丸だ!
通常の量の倍を飲み込んでサモサを買った。食った。凄く旨かった!!!

アグラ1973 サーカス 撮影 西田圭介

アーグラ1973 コブラ使い 撮影 西田圭介

 
 
1973年9月3日 アグラ IC407/07:55 → 08:40カジュラホ /Hotel

男女が交合するエロティックな彫刻や官能的なレリーフ

ミトゥナ像がある建造物群を回るため

最悪なリキシャを選んでしまった

現在では世界遺産に登録されたカジュラホの遺跡は小さな村に点在している為ガバーメント・ツーリスト・バンガロー(宿)前に集まっていた大勢のリキシャに
「ぐるっと回ってハウマッチ?」
リーズナブルな料金で応えてくれたおじさんに決めてカンダーリヤ・マハデーヴァ寺院に向け出発した。

カジュラホ1973 カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院 撮影 西田圭介

後ろに見えるのがカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院のマハー・マンダバという大拝堂。
これを取り巻く遺跡の壁には男女が交合するエロティックな彫刻や官能的なレリーフがこれでもかと言うほど数百体以上彫り込まれていたミトゥナ像は豊穣祈願らしい。
ここを訪れるインド人の新婚カップルが多いとも聞いた彫刻がこれ!

カジュラホ1973 

もの凄い暑さの中で見学を終えリキシャに戻ると、
「あと●ルピー払えば宿まで乗せてあげる」と法外な料金を吹っかけてきた。
頭に来たがこれがインド!なり。
この暑さの中重い機材を担いで数キロ歩くのはぞっとしたがツーリスト相手にこの手のイカサマ商売する奴に負けてはいけない。
「結構!あんたのリキシャはもう必要無い、さっきの料金は払いません。どうしても欲しければポリスと一緒にガバーメント・ツーリスト・バンガローに来れば半額だけ払います」と言って歩き出した。
「じゃ、○ルピーでどうだ! それじゃ◎ルピーならどうだ」と値段を下げだしたが全く相手にせず歩いていると、他のリキシャも何台も付いてきて
「おれは○ルピーでOK !」と言い寄ってきたが、次第にまとわりついていたリキシャの数も減り宿の近くまで付いて来たリキシャはさすがに無かった。
リキシャやスーベニール店などツーリスト相手の商売人と朝から晩までお金の交渉ばかりで我に返ると数円の事で10分も15分もかけている事にがっくりする事が多かった。
たかが1ルピー、10パイサでもインドの一般人の収入で考えるとおろそかにしない事が後から来る日本のバックパッカーのためだと思っていた。

カジュラホ1973 カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院 撮影 西田圭介

 

 

1973年9月4日 カジュラホ IC407/09:10 → 09:55ベナレス /Hotel

ヒンドゥー教の聖地 

聖なるガンジス川最大の沐浴場ベナレス

バーニング・プレイス(火葬場)の撮影に

口々に金銭を要求するガバーメント・ウォッチマンたち

スティーブ・ジョブスは1974年叡智を授けてくれる導師を求めてインドへの旅をした。
僕の目的はガンジス川に面してある火葬場(バーニング・プレイス。マニカルニカー・ガート)で火葬を見る事だった。
自分の目で正視できる自信を持てなかったが、インドを旅した皆が絶対行くべき場所として教えられた。
▶Wikiのベナレス(ワーラーナシー)の「死出の地」によると、
インドではヒンドゥー教徒80%を占め、ヒンズー教の教えにより人々は生まれ変わるつど苦しみに耐えねばならないとされる。
しかし、ワーラーナシーのガンガー近くで死んだ者は、輪廻から解脱できると考えられ、インド各地から多い日は100体近い遺体が金銀のあでやかな布にくるまれ運び込まれる。
また、インド中からこの地に集まりひたすら死を待つ人々ムクティ・パワン(解脱の館)という施設で死を待つ。ここでは24時間絶えることなくヒンズー教の神の名が唱えられる。亡くなる人が最後のときに神の名が聞こえるようにとの配慮である。ここで家族に見守られながら最後の時を過ごす。
数千年の歴史を持つマニカルニカー(「宝石の耳飾り」の意)・ガートは、南北6キロガンジスの岸辺のほぼ中央に位置し、火葬場としての役割を果たしており、死者はここでガンガーに浸されたのちにガートで荼毘に付され、遺灰はガンガーへ流される。
金が無い人、赤ん坊、妊婦、蛇に噛まれて死んだ人はそのまま流される。
町にはハリシュチャンドラ・ガートと呼ばれる、もう1つの火葬場があり、2つの火葬場はドームという同じ一族が取り仕切っており、働く人々も共通であり、交代勤務で約650人が働いている。火葬場を見下ろす一角には、火葬場を取り仕切ってきた一族ドームの長の座る場所がある。
ここには聖なる火と呼ばれる種火が焚かれ、人々はこの火より火葬にする火種をもらう。ワーラーナシーは別名「大いなる火葬場」とも呼ばれており、年中煙の絶えることはない。なお、火葬場の写真撮影は厳格に禁止されている。火葬場を中心に町には巡礼路が設けられ、インドの多くの人々は一生に一度この巡礼路を歩くことを夢と考えている。
死者をガンジスの川岸で火葬に付し、灰をこの川に流すことは死者に対する最大の敬意とされ、 子供、妊婦、事故死、疫病死の場合はそのまま水槽される。
また信仰によりこの川で沐浴するために巡礼してくる信者も数多く、多くの沐浴場が設けられ、多くの信者が沐浴を行う。
その反面、毎年この川で溺死する人の数も多いという。
ベナレス1973 ガンジス川 撮影 西田圭介
8〜9月に集中するガンジス川の流量はゆったりとした流れに見えても建物の一部は水没し恐ろしい程のパワーを感じた。
先ず最初に目にしたのが沐浴場で釣りをしていた人の手元に水葬された赤子が流れてきて釣り糸にかかりそうになった時手元にあった小枝で軽々と遺体を避けたのを目撃した時、死生観の余りにも違いに言葉も無かった。

ベナレス1973 ガンジス川 撮影 西田圭介

左岸に積まれた荼毘用の材木。上の写真は小さい火葬場。船によるロケハン後実際の火葬場に行った。
先頭はお坊さんのような人が何かを言いながら歩きその後に奇麗なサリーで包んだ遺体を太い竹で作った担架に乗せ、4〜6人の近親者が担ぎガンジス川の川岸まで運んで来た。
親族の一人が川岸に積まれた材木の値段交渉を延々とし交渉が成立すると、火葬場の材木担当が大きな木で組んだ天秤で材木の量を量る。
購入した材木は別の人間が河口(風上)に向けキャンプファイヤーのように井桁に組み上げていった。
その井桁の上にサリーで巻かれた遺体を乗せる。
先ほど先頭を歩いていた導師のような人が河口に背を向け井桁の前で読経をあげ、種火を風上の材木に移す時1メートル位の白布で風を遮りながら風量を調節しながら火をつけた。
火がつくと親族の一人は火葬している横で立ち小便をしたりガンジス川で手足を洗ったりしていなくなった。
その後は少年が担架に使っていた太い孟宗竹を火搔き棒の様にして遺体を焼いていく。しばらくすると細い腕が火の中に見えた時少年は妄想竹で手足を叩いて外し火の中に焼べた。
次に叩き割ったのは頭蓋骨だった。これは一撃で崩れた。その後何度も胴体を叩いていたが痩せた女性の遺体はなかなか崩れず妄想竹で火力が分散しないようにファイヤーを調節していた。とても正視出来ないと思っていたが淡々と火葬の様子を見ていた僕はそばにいたインド人にここを撮影しても良いか聞いてみたとたん
「俺はガバーメント・ウォッチマンだ。ここの撮影料は●ルピー必要だ」
金を払えば撮影させるのか?ガバーメント・ウォッチマン?どういう事?すると回りに次々と多くのガバーメント・ウォッチマンが集まり出した。
その時自転車を引いてきちんとした身なりのインド人が助け舟を出してくれた。そこで質問をした。
なんのIDも無いのにガバーメント・ウォッチマンと言っているがどういう事でしょう?人によって値段も違う、集まった皆に払えと言っているのは何故?
すると彼はそこにいたインド人たちと話をしていたが、撮影に金を払う事とガバーメント・ウォッチマンと言う資格についての話は自分には分からないと言って去った。去り際に彼の職業を聞くと教師で自転車を所有しているので生活は良い方だと教えてくれた。
生と死が同居するベナレス、輪廻転生、カースト・・・不思議の国インド

ベナレス1973 火葬場 撮影 西田圭介

 

 

1973年9月4日 ベナレス Part2

増水した長閑な田園風景 

灰になりガンジスに葬られる

横に置いたカバンに何処からも手が

「Don't TOUCH !!!!!」

「ここに落ちていた。誰の物でも無い」

ベナレスの日常

インドで食事をしたりお茶をしていると何処からもなくカメラバッグに手が伸びてくる。最初は
「Don't TOUCH !!!!!」と大声を上げて
「人の持ち物に何するんだ!」といちいち抗議をしていたが、ある時
「ここに落ちていた。誰の物でも無い」
と平気で応えるのがインド。
その後伸びて来た手に気づいた時はハエを払うが如く振る舞い最大限のバリアーを張り巡らしていた。
手形を付けた牛の糞は何人も手を出さないが、珍しい物は見つけた者が所有者?まさかね。
牛に占拠されたベナレス迷路のレストランの食事中、明らかに店員では無いインド人数人が周りを囲んで
「これからガンガか? 俺はガイドだ。沐浴場や火葬場を見る船を案内できる」
「随分重そうな荷物だな、大変だろう。俺はお前の荷物の番人をする。どうだ」
そんな事、誰が信じるの・・・

ベナレス1973 ガート

雨期で大増水したガンジス川で川面に叩き付ける洗濯人。

ベナレス1973 ガンジスの火葬場

せっかくの教師の仲裁でも解決?説明がつかなかったガバーメント・ウオッチマンなる職業と撮影料。
現在ベナレスの火葬場だけは撮影禁止のようだ。
私の左奥のインド人は火葬人。右手後方が見物人とガバーメント・ウォッチマン達。
高校の同好会仲間が贈ってくれた武運長久のハチマキで記念写真(意味不明?北の海女じゃありません)。
ここに座って3時間近く火葬の一部始終を見ていた。
雨期のガンジスは増水しており沐浴場の階段(ガート)の一部は水没していた。
沐浴の後に洗い終わった着衣や下着を火葬の火で乾燥させたり用を足す行為は全く理解出来なかった。
右隣は森重さん、撮影は奥様。
北欧辺り?で高感度撮影したフィルムを一度巻き戻した(増感現像のため他のフィルムと混同しないようにしていた)ものを誤って再度カメラにセットしたためベナレスの火葬現場を二重露光させてしまった不思議な記念写真。注意してみると火葬用の薪を計る3本櫓の天秤や遺体を叩き割る孟宗竹等が映っている。

 

 

 
1973年9月5日 ベナレス IC252/10:45 → 11:45 カトマンズ /Hotel

ロイヤルネパール機の窓から見えた

カトマンズ空港の滑走路は1

滑走路の端に黒こげの旅客機が !

ベナレスからカトマンズへはネパールの国営航空会社ロイヤル・ネパール・エアライン(現在はネパール・エアライン)を利用した。
その頃のマイブームは、訪れる空港の滑走路が何本あるかが楽しみだった。カトマンズは国際空港だから滑走路は2本のX字と期待して、上空から見ると滑走路は1本だった。
無事ランディングして空港ロビーに向かって移動中にぼんやり窓外を見ていると滑走路の端に黒こげの旅客機があった。
何の事故だったのか検索してみたがヒットゼロ。あれは幻だったのか・・・生きてて良かった。
森川メモのおすすめムスタング・ホテルに直行した。現在はMustang Holiday Innとなっているホテルの場所が記憶と重なる。現在のレートも安くて良さそうだ。
インドからネパールに入ると何故かほっとするのは何故だろう?チベット仏教、ヒンドゥー教が同居しているネパールの客引きや土産物屋の会話に嘘が少なく普通に会話できる安心感と思った。
目玉が睨む別名「目玉寺」モンキーテンプル(Swayambhunath Monkey Temple)ではマニ車と呼ばれるガラガラを回しながら時計回りに回ると長いお経を唱えた事になるそうで興味深い写真を何カットも撮影したがフィルム装填ミスで目玉写真無し。残念 !

カトマンズ1973 撮影 西田圭介

 

デリーからジャイプールへの飛行はたった36席の機体だったが下のジャイプール空港(Google earth 2013)は変形X字のダブル滑走路があるが当時は1本だったはず。
ジャイプール空港
アグラ空港(Google earth 2013)はX字のダブル滑走路。
アグラ空港
カジュラホ空港(Google earth 2013)は1。ここが一番小さい空港だった。
カジュラホ空港
ベナレス空港(Google earth 2013)は大きい1。

ベナレス空谷

今は大きくなった1。カトマンズ空港(Google earth 2013)

カトマンズ空港

 

 

森川メモ ■ ネパール編 

カトマンズ
安いホテルはいっぱいあるが、大変好ましいチベット人経営のムスタング・ホテルはシャワー室も各階にあり、ボーイがチップを要求せず親切。
1泊2人部屋35ネパール・ルピー(2人で)。
空港にこのホテルの客引きが来ており泊まる場合はホテルまでタダで運んでくれる。
空港→町、タクシー6〜12ネパール・ルピー(1ネパール・ルピー=22〜25円)。
このホテルの朝食にフレンチトースト(厚いトーストを玉子液に浸して焼いたもの)を頼むと大変旨い。
昼食、夕食は30分〜1時間前にオーダーするとホテルの奥さんが割合安くて旨いチベット風中華料理を作ってくれる。
ボイルドMOMOは蒸し餃子で肉が多いのでガーリックやベジタブルを入れてもらって食べた。フライドMOMOは焼き餃子。チャウチャウ(chow chow)は焼きそば。ツッパは焼きそばとスープのあいの子。
もう少し金をかけられるならシラズと言うチベット・レストランがエアー・インディアの斜め向こうにあり、チキンやスープも旨い。
カトマンズには貸し自転車屋があり1日3ルピー(約6時間)で借りれる。これは便利。
近くにパタム、バドガオンと言う古い町がありパタムは特に近く30〜40分で行ける。バドガオンはバスで30分くらい。
土産屋でヤミドル交換が出来、良いときは1$=11〜12ルピー。普通向こうの言い値は1$=9〜10ルピー。
ネパール料理のレストランはあまり無く、チベット料理が旨い。
この町でも物を買う時は必ず値切る事。
タバコは高いのでインドで買っておく事。安物はまずい。
入国時にカレンシーカードをくれるが出国時に見せろと言われなかった。写真はパスポートのようなカレンシーカードとネパールガイド。

カトマンズ1973 カレンシーカード

 

 
 

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