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1972年 あさま山荘事件 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局▷あさま山荘事件

1972年 あさま山荘事件ほか 現場取材 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局怒涛の1972年

NEWSな人たち ヨーコ オノ 週刊サンケイ SPA! Straight. 誌面を飾った方々 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局 © NISHIDA, Keisuke / HJPI320200000636 www.jpca.gr.jpNEWSな人たち

NEWSなスクープ 三島由紀夫自決 701125 週刊サンケイ 撮影/西田圭介 産経新聞社出版局 © NISHIDA, Keisuke / HJPI320200000636 www.jpca.gr.jpNEWSなスクープ

 

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クナッパー/Gerd Knäpperさん取材の記憶を確かなものにするために調べていたら、1972年は重大ニュースが立て続けにおきた年で「怒涛の1972年」ブログのきっかけになった。

 

ゲルト・クナッパーさん
「人は節目を迎えるごとに冒険が難しくなる」
1972年1月26日、人生の大きな歯車が動いた

1972.1.26

24才の誕生日を迎えたばかりの1月、西ドイツからやって来た陶芸家ゲルト・クナッパーさんを取材に益子を訪れた。

5歳年上のクナッパー/Gerd Knäpperさんは1965年にアメリカ・ニューアーク美術館で作陶を学び、世界35カ国を巡りながら加藤唐九郎、濱田庄司、バーナード・リーチを訪問し、68年 島岡達三の援助で益子で修行・築窯。1971年 第1 回日本陶芸展で最優秀作品賞、文部大臣賞を受賞。このころ益子の里にはアメリカ、イギリス、スウェーデンから十数名の若者が集まっていた。

続きはこちら

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怒涛の1972年 Part2 

横井庄一さん帰る

1972.2.2

2月2日、日航特別機で羽田空港に帰ってきた横井さん。

「恥ずかしいが、帰ってまいりました。元気です」

横井庄一さん(56)の帰国第一声である。昭和十六年八月三十日、大阪港から旧陸軍一等兵として旅順に出征以来、三十一年ぶりの祖国である。

横井庄一 週刊サンケイ2月25日号 1972年2月2日取材 横井庄一 週刊サンケイ2月25日号 1972年2月2日取材 週刊サンケイ2月25日号 表紙:和田誠

戦争の傷跡は、横井さんの精神と肉体にぬぐいがたく刻まれている。戦後28年間の孤独なジャングル生活。横井さんにとって、戦争は終わっていなかったのだ。羽田空港に到着したときの、右手をあげての”挙手の礼”。それは、旧陸軍の名誉とグアム島で戦死した約二万人の英霊たち声のない叫びを一身にささえているようだった。

「天皇陛下さまからいただいた小銃は、ちゃんと持って帰りました。これをお返し申し上げます。……陛下さまに十二分にご奉公できなかったことは、恥ずかしいしだいでございます」

横井さんが、何度も口にした「恥ずかしい」という言葉。生きて捕虜となることの恥を拒んで、生きつづけたことが恥ずかしいということなのか。いま、横井さんは東京・新宿区の国立東京第一病院新館十五階の特別室で静養している。三十一年間のズレを埋める戦いが、これから始まるのである。

特別機で付き添ったのは名古屋出身のスチュワーデス、松岡真里さん。懐かしい富士山の姿を横井さんはジッと見つめていた。※週刊サンケイ2月25日号 グラビア本文より

この日は斉藤厚相ら5千人の人たちが出迎え、出版局写真部員総出の羽田撮影。先輩が撮ってくれた屋上で待っている仕事中の6×7フィルムが見つからなかった。グアム〜機内はサンケイ新聞写真部撮影。足元はスリッパを脱いで裸足のように見える。高速道路?から空港に入ったところにあった羽田東急で14:50記者会見のメモあり。

 

タイトル文字は写研のイナブラシュ(TT-04 1976年、イナひげ・EHGE 1985年 稲田しげる)を創った稲田茂さんの文字。このころ本文の特集タイトルは写植指定では無く編集部に3名ぐらい常駐していた書き文字屋さんのお世話になっていた。75年には極太ゴチックのゴナUが発表されたが入稿スケジュールには全く合わず、’78年編集部に異動した時も表紙タイトルは書き文字で稲田さんに極横太明朝とか極太ゴチックで大変お世話になった。表紙は和田誠さん。定価はなんと100円。’69年は驚きの70円だった。

横井庄一 毎日ニュース 720202 

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怒涛の1972年 Part3 

習志野 ごっつあん入隊

1972.2.7

「トツゲキー〜〜!」巨体が地響きをたて、木銃も小さく見えまーす。
「敬礼!」
ヤツデのような手が、チョンマゲをのせた頭にゆっくり……。すかさず「もっと、キビキビやれ」と”鬼軍曹”の声が飛ぶ。

出羽海部屋の幕下、序の口の”ヤングソルジャー” 720207〜0208取材 習志野自衛隊

「右向けミギー」の号令にも呼吸あわず、左に回ったり、一回転したり。はてはオナカとおなかがぶつかったり。珍というか、奇というか、まるで高杉晋作の「奇兵隊」。
出羽海部屋の幕下、序の口の”ヤングソルジャー”たち、親方(元横綱、佐田の山)に引率されての体験入隊である。わが国唯一のパラシュート部隊であり、三島由紀夫も入隊して有名になった千葉県船橋市にある陸上自衛隊第一空挺団。

「ケイコよりつらいことがある。何事も最後までやりとおす根性と社会人としての訓練のため」というわけで、一同大ハリキリだったが、なにせ”超甲種”のジャンボぞろい。体に合う制服がないので、これは例外を認めて特大のトレパン使用。
次の難題は食料だった。あまりの食欲に、隊員の分が足りなくなって炊事当番も大あわて、受け入れ側の自衛隊も規律が乱れがちだった。
匍匐前進はハラがじゃまで……。
個人技の力士たちは動きを揃えるのが苦手。親方のシナイが飛ぶところだ。

出羽海部屋の幕下、序の口の”ヤングソルジャー” 720207〜0208取材 習志野自衛隊 週刊サンケイ 1972年3月3日号

ゴアテックスやダウン、ヒートテック、パタゴニアなんてない時代。
僕はスキー用のヤッケを着込んで走り回り大量の汗をかいて毛布一枚で人の幅しかない組み立てベッドで一晩過ごしたら翌朝から発熱。
翌々日から交代不可(身分証明書の申請が必要だった)の本土復帰直前の沖縄出張を控えていたため午前中で取材を切り上げた。病院に直行して体温測ったら38度越え!

「先生一晩で直してください!」かかりつけ医の先生から絶対安静を言われた。

720207〜0208取材

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怒涛の1972年 Part4 

本土復帰記念プロゴルフトーナメント 第1回大会取材に

身分証明書が必要だった

1972.2.10

1972年5月15日の本土復帰直前2月10日から、沖縄大京観光CC( 6380ヤード パー72、恩納海岸)で開催された復帰記念プロゴルフトーナメントの第1回大会を取材した。
沖縄出張の二日前に出羽海部屋の幕下、序の口の陸上自衛隊第一空挺団への体験入隊同行でまさかの高熱を伴う風邪を抗生剤で撃退できず出発の朝も37度越えの微熱が続き、ドクターストップだったが先生に無理強いして抗生剤携帯で出発した。
若き尾崎将司さんや独特のスイングフォームの杉原輝雄さんらが参加し、優勝は中村寅吉プロ。

「ごっつあん入隊」の入稿も人任せ?にして自宅で安静していた理由が「身分証明書」の存在。
申請手続きに時間もかかるため出張のピンチヒッターは不可能だった。

身分証明書」には

本土と沖縄との間を旅行する日本人であることを証明する。
日本政府 総理府
昭和47年2月4日 内閣総理大臣 交付官庁 東京都

1972年2月10日 本土復帰直前沖縄 身分証明書 1972年2月10日 本土復帰直前沖縄 身分証明書
        
身分証明書に関する注意
1.身分証明書は、沖縄が本土に復帰する日の前日まで有効である。ただし、次に該当する場合には、その効力を失う。
1)身分証明書の返納を命ぜられたとき。
2)身分証明書の記載事項を改ざんしたとき。
2.効力を失った身分証明書又は不用となった身分証明書は本土においては内閣総理大臣に、沖縄においては沖縄事務局の長に返納しなければならない。
3.身分証明書を紛失し、又は焼失した者は直ちに交付官庁又は内閣総理大臣(沖縄においては沖縄事務局の長)に、届け出なければならない。届け出の後にその身分証明書を発見した場合においても、また、同様とする。

日本国からの出国を証する。
出国年月日 10.FEB.1972 出国港 HANEDA
RYUKYU GOVERNMENT IMMIGRATION AGENCY 
ENTERED 1972-2.10.
NAHA AIR PORT

別添書類は

APPLICATION FOR ENTRY INTO THE RYUKYU ISLANDS
9.Desired Length Of Stay: FOR 4 days
10. Purpose Of Travel:(Explain in Full)
To participate a Golf playing match Sponsored by Okinawa Daikyo Kanko Country Club.
15. Application Date : 25 Jan.,1972

UNITED STATES ***(***部分、スタンプの滲みで判読不可)
IMMIGRATION RYUKYU ISLANDS

PERMISSION TO ENTER OKINAWA FOR A PERIOD
THIRTY (3C) DAY 
AUTHORITY RTUJ
ENTRY ONLY INVALID AFTER 14 MAY 1972

2月14日那覇から初海外、中華民国への同年取得パスポートには

日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えらるよう、関係の諸官に要請する。
日本国外務大臣

PASSPORT
The Minister for 
Foreign Affairs of Japan
requests all those whom it may
concern to allow the bearer,
a Japanese national, to pass
freely and without hindrance
and, in case of need, to afford
him or her every possible aid
and protection.

wikiによれば
出入域管理事務そのものは琉球政府が所管していたが、根拠法令は米国民政府が制定した琉球列島出入管理令(民政府布令第125号)や琉球住民の渡航管理(民政府布令第147号)であり、実際に出入域の可否を決めるのは米国民政府であった。

週刊サンケイ 720310号 本土復帰直前沖縄 週刊サンケイ 720310号 本土復帰直前沖縄 週刊サンケイ 720310号 本土復帰直前沖縄

次回は2月14日
怒涛の1972年 Part5 初海外、 旧正月の中華民国
週刊サンケイ3月10日号表紙に連合赤軍絡みのタイトルが

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怒涛の1972年 Part5 

初の海外旅行は那覇空港から台湾へ

中華民国駐日本大使館発行のTourist Visa

1か月が2ドルで770円。高っ!為替レート

1972.2.14

温暖な沖縄取材で熱も下がり、2月9日に三和銀行神田支店で交換した200ドルの残りをポケットに空路台北に飛び立った初海外。
なんでこんなことが判ったか?
外貨の持ち出し制限があった1972年1月発行のパスポート31ページに渡航費用に関する証明欄があったおかげ。このページは1978年発行のパスポートでは無くなっている。

ツーリストビザ代を単純割り算すると1ドル=385円(2月7日ビザ発行日)。
簡単に換金できる時代ではなかったにせよ大使館なのに地方ホテル以上のぼったくり為替レートみたい。 1971年のニクソンショックで表面化した固定相場制の終焉まで1ドル=360円だったが変動相場制(1973年4月)への移行過渡期?で1月から下落傾向で僕が換金した2月9日は311〜312円ぐらいで、その後300円近くまで下がったようだ。

沖縄の宿泊費、食事付き2泊で十伍弗八拾仙也の領収書が出てきた。

1972年 沖縄の本土復帰まで通貨はドルだった。

HISも無い時代、正規航空運賃を払った始めで最後の海外だった。

台北空港に着いた14日が農暦12月30日。旧暦は31日が無いため翌朝15日が農暦初一(慶祝61年元旦)のため朝から爆竹の洗礼を受けた。この日から数日が旧正月だったことを締められたシャッターの春節休暇の張り紙で知った。

1972年 台湾 taipei 春節  ©NISHIDA Keisuke 1972年 台湾 taipei 春節  ©NISHIDA Keisuke

漢字を頼りに高砂族に会うため「烏來」へ片道3時間?のバスで日帰りした。
市内のバスターミナルはちょっとおめかしの人々で溢れかえっていたが、みなさん整列乗車でニュースでよく見る大陸系の方とは違っていた。

1972年 台湾 春節 烏來 ©NISHIDA Keisuke 1972年 台湾 春節 烏來 ©NISHIDA Keisuke

1972年 台湾 春節 烏來 ©NISHIDA Keisuke

僕の帰国から7ヶ月後、9月25日に田中角栄内閣総理大臣は中華人民共和国の北京を初訪問し、空港で出迎えた周恩来国務院総理と握手した後9月29日、日中共同声明が成立。それまで国交のあった中華民国に断交を通告したこの日はPM2.5も無く抜けるような青空だったらしい。

「日中国交正常化」懐かしの毎日ニュースはここから

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怒涛の1972年 Part6 

帰国後、浅間山荘に直行と思いこんでいたが

歌手白川奈美さん取材で札幌へ

1972.2.18

続きはこちら

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怒涛の1972年 Part7

浅間山荘事件 突入日

1972.2.28

続きはこちら

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怒涛の1972年 Part8  

創価学会 池田大作名誉会長の訃報(2023.11.18)を知り
『久遠之灯』、会長の非売品写真集『夕陽』、
『池田学会本部野球チーム監督』の
三つの記憶が蘇った

2023.11.25

久しぶりに「正本堂」をググったら既に取り壊されて現在は存在しないと知った。
半世紀前の創価学会といえば「折伏」だったけど
政教分離が言われ世の中が変わりつつあるなかで池田会長に関するニュースもTVで見かけなくなった11/18に訃報を知り11/15に亡くなっていたそうだ。

正本堂関連の週刊サンケイ特別増刊号が見つからなかったため大宅文庫を久しぶりに訪問した。
が、増刊号はなかった。定期刊行物は所蔵しているが別冊などは寄贈にたよっているため無い可能性が大と言われ書庫に探しに行ってくれたが「残念ながらありません」と言われ入館料が払い戻しになった。
翌日初めて国会図書館に行き新規登録をしようやく見つけた「久遠之灯」
A4コピー出力37円でした。

週刊サンケイ永久保存版、 特別増刊「世界一を誇る正本堂のすべて
1972年11月17日号、定価500円
特別付録:完全録音盤フォノシート「正本堂完工式の富士吉田取材時の記憶が蘇った」

1. 721001〜

72年10月1日の正本堂完工式、11日の大御本尊御遷座大法要に向け学会、法華講、海外からの日蓮正宗のメンバー数千人がリハーサルの取材中にある疑問が湧き学会広報の担当者に質問した。

「久遠の灯」の着火テストはいつしましたか?
式典時に灯が点らなかったら困りますよね。

それを聞いた担当者の顔が曇った。

はじめは対応できない感じだっが暫くして点灯テストをすることになった。
I先輩は三脚に中盤カメラをセットし始めた。
我々は「久遠之灯」の後方でリハーサルをしていた全ての参列者を一旦左右に移動してもらいたく、予定になかった行動を促すため大声で移動先を伝えるが人数が多すぎて伝わりにくかった。

そこで閃いたのが

「会長が来ます。左右に分かれてください」
の一言で会員たちに伝わりサーっと人が引け
カメラ前から会員が一人もいなくなった、

聖教新聞写真部が総力をあげて制作している写真集に負けない永久保存版を作るのが担当M藤デスク、写真部のI井先輩と僕の三人体制だった。

週刊サンケイ写真集は聖教新聞よりも1日でも早くリリースし、少しでも売り上げを伸ばすことも重要なミッションだった。特に「久遠之灯」が予定より早く撮影でき入稿日程の短縮ができた。
蓋を開けてみると、特別増刊号を見た学会幹部が誌面を見比べて一部リメークをすることになったため発売が遅れたと聞いたが真偽は不明。
永久保存版の週刊サンケイ写真集は爆発的に売れた。

館員から著作権侵害の無いよう注意してくださいと言われたが、
著作権者の当人(撮影助手だってけど)と伝えると「そうでしたか」 と言われ支払いを済ませた。

円融閣(正本堂の正面玄関)へわたるブリッジ前に『久遠の灯』がともる。平和へのかぎりない祈りをこめて⋯⋯

記憶には無いがサイドからのタッチライトストロボが僕の担当のはず。結構いい感じ。

 

2. 731010〜  
完工式から1年後に再度、永久保存版「正本堂コンベンション」を作ることになった。

学会本部野球チーム監督として、準決勝、決勝戦が行われた塔之原グランドでの池田会長取材の日は朝から晴天にめぐまれグランドに組まれたテントには紫の分厚い座布団がのった折りたたみ席があったため一瞬座ったとたん、周りにいたスタッフが慌てた。
一拍遅れて会長が登場したので

「お席温めておきました」と言って藤吉郎もどきの会話が池田会長との最初の会話後、今日の試合を撮影する週刊サンケイのカメラマンの西田と伝え、会長の隣の折りたたみ席に座った。

その時気づいた事は会長に直答するのは珍しいらしく広報の担当者も含めスタッフは10メートル以上離れて僕と会長を笑顔で見ていた。
という事は池田会長は彼らにとって神の存在に近かったのかも。

グランドにでてノックを始めた会長を何カットか撮影したあと、会長の足元に寝転んで足元からワイドレンズで撮影したいと伝えた時

「それは危険です」

と広報から言われたが軽く振ってくださいとお願いし1カットだけ撮影したが誌面には使われなかった。

写真左 グランドに仰向けになり会長の足元から顔を出し24mmワイドレンズで決めたあの1カットはどこにいってしまったのか?

こんなやりとりで会長との距離が縮まり、その後の写真談義は楽しく続き、
写真集『夕陽』を出したことを知りぜひみてみたいと伝えるとその夜、宿泊先に写真集が届いた。
普通の写真集とは異なるISBNも定価表示も無い池田会長のポートフォリオ体裁だった。


3. 731010
会長と写真についていろいろ話をしたなかで
会長が撮影した写真集「夕陽」があると聞いた

正本堂完工式直前の72年の夏以降に撮影した夕陽

装丁は立派だけど写真はあまり上手く無い。
聖教新聞写真部上層部は会長にどんな助言をしていたのか?
畏多くて何も言えなかったのが本当かも

16カットの写真にはオーバーマットがあるグラビア印刷。装丁も手間と多額の予算ををつぎ込んで制作された写真集。1ページ目の写真は聖教新聞社から7月の夕陽シルエットの建物は慶応病院?
この半世紀で見たのは戴いた時の宿と自宅の引越し時、そして今回まで多く見積もっても数回しか見ていない。
僕には感じない崇高な意味があるのかも。








最上段 72年7月撮影の1〜3
2段目 73年5月撮影のフランス ロワール
3段目 73年8月撮影のハワイ、左マウイ島、右オアフ島
4〜6段目まで 73年8月撮影のオアフ島、右73年撮影の厚田村(北海道)

表紙題字 池田大作
1:昭和47年 7月 聖教新聞社より
2:昭和47年 7月 三崎快感(神奈川)
3:昭和48年 7月 三浦市 浜諸磯
4:昭和48年 5月 フランス ロワール
5:昭和48年 5月 フランス ロワール
6:昭和48年 8月 ハワイ マウイ島
7:昭和48年 8月 ハワイ オアフ島
8:昭和48年 8月 ハワイ オアフ島
9:昭和48年 8月 ハワイ オアフ島
10:昭和48年 8月 ハワイ オアフ島
11:昭和48年 8月 ハワイ オアフ島
12:昭和48年 8月 ハワイ オアフ島
13:昭和48年 8月 ハワイ マウイ島
14:昭和48年 8月 ハワイ オアフ島
15:昭和48年 8月 ハワイ オアフ島
16:昭和48年 9月 厚田村(北海道)

夕陽を浴びながら これから座談会に歩みゆく
君の姿の荘厳にも似た 尊い軌跡のために
私は、この瞬間を写しとりたい

まさに沈みゆかんとする 太陽の彼方
悩める民衆(たち)と語りゆく 君の黄金の人生と活躍を
私は、心して包みとりたい

写真集と同タイトルの詩「夕陽」より

 

MEMO

1979年〜81年、写真部から週刊サンケイ編集部に移動後、
表紙カメラマン&ADをしていた頃は学会と犬猿の仲になっていたが読んだ記憶なし

何故、正本堂が解体されたのかググってみた。

以下はWIKIより
創価学会を破門した総本山67世法主日顕時代の1998年(平成10年5月)に50億円かけて解体。阪神・淡路大震災を契機に改めてこれらの建物の耐震調査を行ったところ、強度不足に加え、鉄骨や大理石などの構造物の腐食も目立っており、耐震性に問題があることが判明し、仮に補強をするにしても多額の費用がかかり、創価学会を破門した後では寄付が見込めず、正本堂の維持費は年間10億円かかったことに加えて、教義の逸脱を理由として破門した池田が建立願主である建物を存置することへの宗門内の批判があったことにより解体の運びとなった。

2013年から刊行された『人間革命』第2版では大幅な改訂がなされていた。創価学会は、1990年代のはじめに創立以来密接な関係を持ってきた日蓮正宗と決別している。初版では、日蓮正宗の僧侶を崇め奉るような記述があった。それが都合が悪いということで改版がなされたのだが、それも、池田氏の了承を得た上で行われている。そうしたことが今後はできないのだ。

池田氏が手をつけた重要なこととしては、すでに述べた日蓮正宗との決別がある。最初日蓮正宗に入信したのは初代会長の牧口で、戸田も同時に入信している。日蓮正宗は日蓮宗の一派で、僧侶の集団である。一方、創価学会は在家の集団で、創価学会に入会した場合、自動的に日蓮正宗に入信することになっていた。

 日蓮正宗は、自分たちの教えだけが正しいことを強調する排他的な傾向の強い教団で、それが創価学会にも影響した。他の宗教や宗派の神棚や仏壇、過去帳などを焼き払う「謗法払い」を戦後の創価学会の会員が実践したのも、そうした日蓮正宗の教義の影響で、修学旅行に神社を訪れ会員の子弟は鳥居も潜らなかった。

 ただ、創価学会の会員としては、冠婚葬祭をすべて日蓮正宗の寺院に依頼することができ、他の宗教や仏教宗派とかかわる必要がないことが大きかった。そして会員たちは、日蓮正宗の総本山である大石寺に巨大な建築物を寄進するため、莫大な額を寄進し、日蓮正宗の寺院を増やすためにも経済的に貢献した。

死を語らなかったことで、池田氏は、創価学会の信仰に深みを加えることができなかったと⋯⋯

政教分離

1969年衆院選で大躍進したころ学会批判の書籍をめぐって出版阻止「言論出版妨害事件」が起き池田会長は1970年公明との関係を見直した「政教分離」を打ち出した。
今年は宗教団体(世界平和統一家庭連合/旧統一教会)と政党、議員との接点が問題になっていた。神道政治連盟、公益財団法人全日本仏教会、天台宗、高野山真言宗、立正佼成会そして創価学会⋯⋯
批判を受けた自民党は社会的な問題をはらむ団体と関係を断つと言っているがこの先どうなるだろう?

 

創価学会キャンペーン

出版局写真部から仏マリークレールアルバム社のクラフト雑誌『100 IDEESサンイデー』編集を経て週刊サンケイ編集部に異動(1978年1月)し、表紙カメラマンとグラビアページを担当していた頃から創価学会関連キャンペーンがはじまった。僕は興味なかったためほぼ読んだことはなかったがこの連載以降学会別冊はなかった。


1979年8月23日号
池田前会長はなぜ御本尊を偽造したのか「死んでもいいたくなかった真実」

1980年6月19日号
秋谷副会長に真実を聞く5・信仰と選挙にみる政教分離問題・俵孝太郎

1980年11月13日号
原島嵩前教学部長の懺悔手記15・「竹入・矢野は赤ん坊」と放言する池田氏の公明党支配

1981年1月1日号
ニセ本尊の開眼供養をした故日達上人への疑問

1981年3月12日号
創価学会・大石寺の土地不斉取得「動かぬ証拠」
創価学会員の苦渋座談会最終回・もうカネは出さないし公明党も支援しない・5ページ

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FBの問い合わせがきっかけで

45年ぶりにシャンソンの松宮一葉さんと再会

2017.1.25

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